雑02| 「オルフェの袋小路」の山下信子
2022年11月1日/記
(敬称略)
それが何であれ、客観的に書くのは重要だが、自分が直接体験した物事については少しばかり自分の方に引き寄せて書いてもよいし、それはそれで意味があるのではないか。時にはプライベートなことにも触れると宣言した「雑言体」だから、試してみよう。その第一弾が山下信子との交友である。研究ではないので、曖昧な記述もある。ご容赦を!
まずは雑言体01に記録写真を掲載したパフォーマンス(1972年)について触れておこう。当時はハプニングと呼ばれていた、1960年代に広がった美術活動である。私の場合、いろいろ試みた表現活動の一過程であり、数多くやったわけじゃない。記録も少なく時期も曖昧で、たぶん60年代末から70年代前半にかけてだったと思う。この写真のパフォーマンスは記録が残っている例外的ケースである。
私は日本浪曼派?
国旗の赤の中に大きく「淫」とか「狂」とかを書き込んだ、国家観に対するアイロニーを表出させた作品だった。記録写真を見て、ある年長の詩人が「日本浪曼派だね」と言ったと伝え聞いた。たしかに保田与重郎の著書も読み始めていたのだが、途中で嫌になってやめた。周辺作家とされる三島由紀夫に対しても、共感より違和感の方が強い。日本浪曼派的な素質はないように思うのだが、それ以上の自己分析はしないままである。
ただ、西洋の芸術思潮に憧れながらも、それ一辺倒に進むことには抵抗があり、自分の血を探ろうという思いが強くあった。時代もそうだ。60年代の強烈な熱気は急速に衰え、挫折感をともなう内省の70年代に変わっていたのである。ハプニングという言葉も嫌で、「祭り」とか「祭式」とか呼んだが、自分だけが納得する言葉として終わった。
山下信子の自主上映活動
この写真を見ると思い出すのが山下信子だ。しばらく連絡をとっていないが、長いつき合いである。実は、写真のパフォーマンスは、彼女が京都書院の依頼で企画したグループ展に誘われ、やったもの。京都書院は、のちに倒産したとのことだが、京都の進歩的な文化を牽引する本屋として知られ、最上階にちょっとしたイベントスペースがあった。そこでやったのである。
彼女は、「オルフェの袋小路」と名乗って、京都を拠点に映画の自主上映活動をした人だ。1974年頃からは、京大西部講堂での上映会が恒例化したようだ。Googleなどで検索してみるとそれがよくわかる。
椅子が降ってくる西部講堂
たとえば、こんな回想が書かれている。〈 学生時代、京大西部講堂を拠点に活動をされていた、「オルフェの袋小路」さんの上映会にはかなり頻繁に出入りしていました。『アンダルシアの犬』とか『詩人の血』といったアヴァンギャルトな作品を選んで上映されていた 〉という回想である。
やはり西部講堂の上映会について、〈 『オルフェの袋小路』の熱心な活動は当時の気分にピッタリだった、映写前の説明には「早く上映しろ」とヤジが飛んでいたし、合間に天井から椅子や長靴が落ちてきたりで面白かった 〉そうだ。上映前の説明(解説)はかなり長かったようだが、それは上映会が興行ではなく彼女の表現活動の一環だったからだ。椅子や長靴が落ちてくる、というのは知らない。私はのちに述べるように、彼女が開いていたフリースペースで映画を見させてもらっていたからである。西部講堂での上映会が恒例化する前の時期のことだ。
さらに検索してみると、〈 ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)は高校生の時に京大西部講堂でのオルフェの袋小路、山下信子さんの上映会で観た。貴重な映画を観られたのは山下さんのお陰 〉といった声もある。
そこにはフリースペースがあった
山下信子に初めて会ったのは、記憶が曖昧だが、1970年ではなかったか。同志社大学の学生会館で彼女とその友人の女性(藤井?)がパフォーマンスをやっていたので、話しかけたのである。それから仲良くなったのだが、自主上映というより、まずは表現者としての山下信子を知ることになった。なお、彼女は学生ではなかったけれども、複数の大学に出入りしていた。
京都市左京区の百万遍交差点近くだったと思うが、ある路地裏に入っていくと、使い古した感のある下宿の一部屋があって、そこに山下は一時期住んでいた。しばらくして隣にもう一部屋借りて、一種のフリースペースにした。といっても彼女の下宿の延長のようなものだ。私は時々そこを訪れて、議論をしたり映画を見せてもらったり、彼女の友人たちと交わったりした。
いろいろな人が来たり泊まったりしていたが、その中には、のちに美術家や映像作家、演劇人として活躍する人もいたようだ。掲載の写真はその部屋で撮ったもので、右が山下信子、左が私である。

路地裏こそアヴァンギャルド
上映会の方は有名な前衛映画が多かったが、私が路地裏で見たのは、現在進行形の実験映画であり、山下自身が製作した詩的な映画も部屋の壁に上映して見せてもらった。この映画は、のちに藤本義一司会の11PMで、彼女の出演とともに紹介されたと記憶している。
在日韓国人2世だった文承根の実験映画もここで見たはずである。彼には、山下から「ふじの」さんと紹介されたと記憶している。本名を名乗ることが大きなリスクだった時代であり、その後本名を名乗るようになったが、勇気のいる決断だったに違いない。
映画は8ミリ?、タイトルは『発汗』?だったかな。ミニマルな作品構成のなかで汗の生理的な現象だけが生々しく映し出される、刺激的な作品だった。彼には当時から重い持病があると聞いていたが、美術界から嘱望されながらも34歳の若さで亡くなった。
腐りかけた野菜、そして美談
いろいろな出会いがあった。こういうケースもある。ある日、フリースペースの玄関前に段ボール箱が一つ、腐りかけた野菜が詰め込んであった。本人は留守だったので山下に〈 これは何 〉と聞くと、その人が八百屋でもらってきた食料だという。部屋の中に入ってみると、壊れかけた障子やなんやらでいっぱいだったので、もう一度〈 これは何 〉と聞くと、その人が自分流のインテリアに凝っていて、気に入ったゴミを拾ってきて飾ったとのことだ。数年後に〈 あの人はどうした 〉と聞くと、アメリカに渡って行方不明になったという。
発行しているミニコミが過激すぎて何度も警察に呼び出されている、と語っていた大工もいた。ある時ある喫茶店でしゃべっていたら、急に小声になって、危ない話をしてくる。まあ、本気ではないなと思い、聞き流した。
その数年後、私は帰郷して働いていたが、時々は京都に遊びに出かけた。そんな京都でのある日、中華料理屋で昼食を食べながら新聞を読んでいて、思わず〈 エーッ 〉と声を出しそうになった。山下とその大工が顔写真入りで載っていたのだが、近所のおばあさんが何かの事情で家を失ったので、彼らが小屋を建ててあげたというのだ。まさかの美談に意表を突かれ、驚いたのである。
映像分野で多彩な活動
山下は何をする人なのかと、時々考える。映像作家と名乗ることが多いから、映像分野の人と言っても間違いではない。映画製作、映像パフォーマンス、自主上映会、映画解説、等々である。映画『リトアニアへの旅の追憶』などで知られるジョナス・メカス、彼の1983年の初来日の際には素晴らしいインタビュー記事をものにしている。上映会では、1985年に海外に出かけている。映画作家・オルガナイザーのブルース・ベイリーの招待で、日本の実験映画を上映するフィルム・ツアーをおこない、2ヵ月間アメリカ各地をめぐった。その他、映像分野において多彩な活動をおこなったようだ。
しかし、映像界とか美術界とか、そういった業界のシステムには不適応だし、枠には収まらない。やりたいことしかやらない類いの人である。
美しい生活
説明がむずかしいのだが、山下が求める「美しい」ものがあるとして、その「美しい」ものと生活の間に、できるだけ隙間を作らないようにしている、と私には見えた。それは彼女のポリシーというより、彼女の資質+美意識なのではないか。ただし、一般的な意味での「美しい」ではない。彼女にとっての重要なこと、必要なこと、楽しいこと、刺激的なことなどの総称としての「美しい」である。
そうした美のために、常識を踏み越えることがあるし、まったく理解できない逸脱もある。彼女独特の美のルールがあり、そのルールが生活全体に根を張っているようなのだ。そうした生活は苦労も多いと推察するが、彼女の日々は優雅さを失わない・・・やはり不思議な人である。(了)
(雑02| 「オルフェの袋小路」の山下信子 おわり)
