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花09| 古典という観念のオーラ ② 氷結の古典花

2025年12月3日/記
(敬称略)

 古典という言葉は、前回述べたとおり、近代化した用語として広まり、多くの人が愛用する言葉になった。ただし、決して身近な内容を指し示す言葉ではない。非常に抽象的だし、どこか近寄りがたい荘厳な輝きを放つ言葉である。そのまばゆさに幻惑されてなのか、この言葉を出されると、なんの抵抗もなく受け入れてしまいそうな気分になる。古典とは何なのか、専門家たちの研究に学びながら、いけばなの場合を検証してみたい。

古典か、伝承か

 いけばなにとっての古典、その実体に迫ろうと思う。しかし、迫る手前で早くも言葉が事故ってしまった。いけばな人の松井清志と、大坪光泉の「古典花」について話した時のこと、〈 古典花は大坪さん個人の言葉 〉であって一般的ではないのではないか、「伝承花」の方が普通だというのである。不意を突かれた感じがしたが、言われてみれば、合点のいく話なのである。

 いけばな作品は、モノとして創出されるが、モノとして残らないので、古典花作品そのものは存在しない。誰も古典花作品を見ていないのである。いけばな人が向き合っているのは、モノではなく、古典花という観念である。ただし、ただの観念ではない。観念の周りを、今に残された情報、すなわち写生絵図や資料、流派に伝えられた伝書などが取り囲み、中心部の観念にまばゆい輝きを与えている。そのまばゆい観念の中で、私たちは、現実には見ることができない古典花作品を幻視しようとする。
 ただ、モノが不在だから、周囲の情報によって成立する様式(形式)に力点が置かれることになる。そして、モノの不在はその再現を誘い、再現された作品もまた次々と消滅していく。かくして伝承に大きな価値が生まれる。伝承による古典様式作品の再現は、いけばな分野の一大特色である。美術では狩野派や浮世絵などを制作する人もいるだろうが、非常に限られた専門家と、彼らから学ぶやはり限られた人たちだけである。ところが、いけばなでは古典様式の再現に携わっている人は膨大である。
 この、いけばなの人たちがおこなう再現は、おそらく模写模造という意識ではなく、研究といった客観的な姿勢でもないだろう。優れた文化の継承という矜持が再現行為を支えているのではないか。

 では、古典という言葉は止めて、伝承にしたらと思うのだが、そうすると新たな問題に遭遇する。伝承の花は流派によって違うし、伝承花のない流派だってある。現状では、とりあえず古典という言葉の方がよいと判断する。

 いけばなでは、近代になっても、モノが残らないのが基本である。私は近代以降のいけばなを検証したけども、手がかりは作品写真であった。写真で想像鑑賞するわけだが、実物鑑賞との差は当然ながら大きい。近代以前の場合、作品を描いた写生絵図である。絵図だから実在感が乏しいし、制作数も限られている。また、いけばなが素晴らしいのか絵が上手いのか、迷うこともしばしばある。
 文人画と文人花の名手である田能村竹田(1777~1835)の場合、絵が素晴らしいし、描かれたいけばな作品の魅力も伝わってきて、実物を見たかのような気になる。これは稀であろうが、それでも実物鑑賞との差は大である。結局のところ、古典花の精髄は想像鑑賞で幻視するしかない。


立花は個性の花

 いけばなの古典様式には、古くは立て花、立花(りっか)、なげいれ、生花(せいか)、文人花、等々とあるが、ここでは立花に絞って考えてみたい。様式とはいえ、当然ながら人が生み出したもの、すなわち創始者がいる。立花(立華)という様式のいけばなは、江戸時代初期に二代池坊専好が創出したのである。もちろん、いきなり様式を生み出したわけじゃなくて、先行するいけばながあった。
 1594年頃のことだが、秀吉が前田利家邸を訪れた時の座敷飾りの花は、初代の池坊専好であった。記録によると、松の大枝を長くなびかせた、大きないけばなだったようである。四幅対の掛け物に描かれた猿20匹が、ちょうどその枝に止まっているかのようにいけた、と伝えられている。豪快な機知に富んだ、まさに戦国時代の空気を伝える花である。そうした先行する時代の変革のエネルギーを受け継いで、二代専好が完成度の高い立花を開花させたわけである(注1)。なお、以後は「二代専好」を「専好」と略して表記する。

 しかし、もう一歩踏み込んで、創造の現場に目を向ける必要がある。ここでは様式ということを一旦忘れた方がよい。創始の時点では、立花はまだ様式ではなく、専好の個性の花にすぎなかったからである。現代の個性のあり方とは違うにしても、強い個性があったと思われる。『槐記』(注2)に、あるエピソードが書かれている 。

 公卿の近衛信尋(応山)が茶人の金森宗和を招いて茶会を催した。茶会の中立ちで宗和たちが席を外した時、出先から久しぶりに京都に帰ってきた専好がご機嫌伺いにやってきた。これ幸いと、内緒で専好に花をいけさせた。ところが宗和が席にもどって、花を一見しただけで、専好はいつ京に帰ったのかと語ったという。信尋は驚き、どうしてそれが専好の花だと分かったのかと聞く。宗和は、〈 彼ガ細工ノ手段(テギワ) 〉は信尋にできるものではない、と答えた。
 この時の花は、立花ではなく、簡素な形式の花だったようだが、宗和は見事に専好作と特定したし、特定できるだけのテギワが発揮された花であったことが分かる。
 ここでテギワを技術と理解するか、個性とするかで見方が変わる。技術が高い=個性とは限らないからである。が、一目で専好だと見破ったとなると、この時のテギワには、格段に高い技術はもちろんのこと、個性の要素も色濃くあったと見るのが妥当ではないだろうか。

 ただし、この逸話、出来すぎの感があるし、事実をありのままに伝えているという保証はない。なにしろ「古昔」で始まる文であり、伝聞の記録である。しかも茶書『江岑夏書』(注3)にも、時と人を変えて、似たような話が記されている。こちらに登場するのは千利休で、やはり茶会の中立後の花を見ただけで〈 この坊主に久しくあわぬ 〉と、その場にいない初代専好の手によるものと見抜いたという話である。執筆時期はこちらの方が早いのだが、書いた宗左は利休の曾孫であり、当然ながら伝聞である。
 だから、事実の記録というより、作者と目利きの双方をほめるための、常套的な逸話だと見てよいのではないか。ただ、そうだとしても、これらの逸話は、それぞれの時代でその時代なりの個性が重要視されていたことを物語っているように思える。さらに『槐記』には、もう一つ、注目したい記述がある。

 1611年に皇位についた後水尾天皇(注4)は、学芸に熱心で、立花も達者だったらしい。そのおかげで宮中では立花会が頻繁に開かれ、秀吉の北野大茶会にも劣らないと評された大立花会も開催された。その時の専好の出品作が桜の花だけでいける立花だったらしく、『槐記』には〈 専光ガ桜一色ト云(イフ)事ハ、此時ヨリゾ始マリケル 〉とある。(専光は二代専好)。
 いけばな史研究者の伊藤敏子によれば、専好は一色物を〈 杜若、水仙、蓮などのまっすぐに生育した草花にも応用している。この一色物は定型となって 〉いろいろな人に影響を与えたという(注5)。個性による新領域創造が評判を取り、新しいいけばなの形として広がっていったものと思われる。

(注1)『いけばな総合大事典』主婦の友社、1980年刊によると、生没年は初代池坊専好(いけのぼうせんこう)が1536~1621、二代池坊専好が1570~1658となっている。異説もあり、とりあえず目安として記しておく。
(注2)山科道安『槐記』(『日本古典文学大系96 近代随想集』岩波書店、1965年刊)。
(注3)江岑宗左(こうしんそうさ)『江岑夏書』(『茶道古典全集』第10巻、淡交社、1956年刊。
(注4)後水尾天皇(ごみずのおてんのう1596~1680) 在位1611~1629、以後上皇
(注5)伊藤敏子『いけばな』教育社歴史新書、1991年刊。また、前掲書『いけばな総合大事典』によると、専好は蓮、杜若、菊、水仙、松の「五一色」を初代専好から引き継ぎ、それに桜と紅葉を加えて「七一色」としたという。

個性の花から古典の花へ

 いけばなとも深い関わりのある山根有三は、専好についての、もっとも鋭利な分析をおこなった美術史研究者である。その山根は、〈 二代専好の作風が寛永6年から同12年の間に様式的な完成に達し、以後も最晩年の明暦3(1657)年に最高傑作の柳真の立花を生む 〉(図1)など、豊かな発展を示したとする。専好は1658年に逝去したという説が有力なので、まさに〈 死ぬまで進歩を続けた 〉ことになる(注6)。

(図1)《専好立花図》 柳真立花、明暦3(1657)年、旧曼殊院蔵 

 では創造の勢いはここで行き着いたのだろうか。否、まだ続くのである。専好の弟子の中でトップと目されていたのが大住院以信である。専好に並ぶ、あるいは超えるといった評判さえあった立花の名人だった。興味深いのは、その作風が師匠とは対照的と言ってよいほど違うことである。2人の作品の写生図を比較すれば違いは明らかである(図2)。専好の「静」に対して大住院は「動」といった感じだし、専好が「縦方向」に作品を展開する作風であるのに対して大住院は「横方向」である。同じく「調和」に対して「奔放」、あるいは「自然」重視に対して「装飾」的表現が顕著といった違いがある。

(図2)『大住院立花砂之物図』 延宝6(1678)年刊、MOA美術館蔵

 立花はもともと造形的傾向が強い様式なのだが、それでも専好の立花は自然らしさを重視し、造形性と巧みにバランスをとることで作品をまとめ上げ、見る者に深い精神性を伝える。これに対して大住院は華やかな花材を多用し、曲線の多い枝を好み、さらに人為的に曲げて、きらびやかでダイナミックないけばなを生み出した。大住院は、当時としては、抜群の自己表現に到達したのである。このように当時の創造の現場には活気が満ちていて、弟子であっても別の個性を発揮できたわけなのだ。その結果、今日の私たちは、2つの個性による古典花をえた。素晴らしい、誇るべき伝統をもちえたのである。

(注6)山根有三「立花様式の完成」『花道史研究(山根有三著作集7)』中央公論美術出版、1996年刊。
(図1)出典 『いけばな美術全集3』集英社、1982年刊。 (図2)出典  工藤昌伸『日本いけばな文化史2』同朋舎出版、1993年刊。

氷結する古典花

 大住院以信(注7)は、本能寺の塔頭寺院の一つである高俊院の4世、大住院日甫上人である。僧侶としてかなり高い地位にいたと思われる。専好の晩年、大住院は10年ほど江戸に出て、数々の武家屋敷で花をいけるなど、武家社会の中で活躍した。その間に専好、その跡を継い養子の専存も死去。専存の子である専養はまだ幼く、帰京した大住院が公家社会でも活躍したようである。
 しかし、池坊宗家、すなわち、専養というより、専養を取り巻いていた、かつての専好の高弟たちとの関係がよくなかったようだ。1677年頃に大住院の花興行を宗家が不当だとして京都町奉行所に訴えたこともあった(注8)。一種の権力闘争ではないかと思えるのだが、しかし、宗家との対立には作風の違いも一因だったと山根有三は言う。大住院の強い個性は、〈 彼が専好の一の弟子であるに拘らず、全く新しい作風を生ましめ、専好の遺風を固守する池坊一門と相争わせるに至った 〉(注9)のだと。
 権力闘争か作風の争いなのか、まあ、どちらも関係しているような気がするのだが、この問題には深入りしない。それよりも、いつ個性の花が古典の花となり、立花が様式として確立したのか、を知りたいのである。

 専好は死ぬまで進歩を続けて、数多くの代表作を生み出したが、その時点では開拓者の花であり、古典の花ではない。当然ながら立花様式もその時点では、開拓者が模索を続ける現在進行形の様式であって、古典の殿堂には入っていない。古典化されるのはもう少し後なのである。しかも問題は、専好の死後に大住院が大いに活躍していたのに排除されてしまったことにある。本来なら、巨大な2つの個性を通底するものとして、立花様式が浮上してこなければならないはずなのだが、そうはならなかった。
 巨大な2つの個性の内の1つを排除すれば、残るのは1つ。専好の個性のみである。大住院を排除した段階で、創造の勢いは大きく後退し、専好の遺風を守りながらの発展に縮小するほかなかった。専好の高弟の1人である安立坊周玉は、専養を守り育て、花技を教えた。こうして池坊の中心となるはずの後継者に専好の遺風は引き継がれていく。やはり高弟の1人だった十一屋太右衛門は理論に優れ、『立花大全』(1683年刊)を著して専好の立花を理論づけた。立花様式の殿堂入りがこの辺りだとすると、専好の死から25年後ということになる。

 なお、それまでは「立花」と書いてタテバナと読んでいたのが、この書で初めてリッカと読むようになった。専好が開拓した花がそれまでの立花(タテバナ)と異なる様式だという認識の下に、変えたということだろう。もっと早くからリッカと呼ばれていただろうが、重要な書物に書かれ読まれるということは、いわば公認を意味するし、古典様式として立花が確立したことにもなる。この書は版を重ねて広く読まれ、立花の聖典になっていった。
 この書以後、立花の定型化が進む。例えば、立花といえば「七つ枝」というのが定番であるが、専好の弟子たちが主要な枝7つを立花必須の要件にした結果である。専好自身はそうではなかった。なにしろ死ぬまで進歩、すなわち模索を続けた人であり、彼の立花は変化を止めなかったからである。山根有三は次のように語る。

◆〈 専好は、客観的統一の必然の要求から、力のバランスを取るための基準として、各々の枝を使ったのであった。だから各枝は個々のばらばらのものではなく、有機的に生きて動くものであった。寸法は勿論数なども一定してはいない。問題は、各枝が構成して作る空間、和合の気をいかす為であった。そこに美が生まれたのである。しかるに弟子達は、専好の美のための方法を、目的とし形式として絶対化したのである。美は失われ、技術が残ったのである 〉(注10)。

 創造の現場感が失われ、形式だけが進むと、いつの間にか冷気が忍び寄って、花も様式も凍りついていく。偉大な師の花は、古典の領域に殿堂入りし、遺風が絶対視されて、門弟たちの花を萎縮させる。しかし、問題は、門弟たちの萎縮に止まるのではなく、専好の個性的な花に対する見方を変えてしまうことになるのではないか。古典という観念のオーラが鑑賞者の心理に忍び入ってくるとしたら、ここだ。専好の遺風を見ているようで、実は創造の現場から切り離された氷結の名作を幻視している可能性がある。元は本物だから氷結しても美しい。生々しさが薄れている分、かえって美しく見えるかもしれない。

 ただし、ここを結論にするのはまだ早い。氷結した美しい古典花の是非については、さらに一考する必要があるからだ。

(注7)大住院以信(だいじゅういんいしん1607~96)。本能寺は法華宗本門流の大本山であり、信長が光秀に襲われた「本能寺の変」で知られる。高俊院はその重要子院の一つ。
(注8)森谷尅久「大住院以信とその周辺」『いけばな美術全集4』集英社、1982年刊。
(注9,10)山根有三「桃山・江戸前期の花道」、前掲書『花道史研究』。


(花09| 古典という観念のオーラ ② おわり)


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