花女04|変わる上流女性の意識
2025年6月27日/記
(敬称略)
明治41年、石川啄木は、与謝野鉄幹に連れられて、森鴎外が主宰する歌会に参加した。この時に佐佐木信綱に初めて会い、日記にこんなことを書いている。〈 信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理がないと思う 〉と(注1)。女弟子!千人!、等々で驚いてはいけない。その女弟子には上流階級の人が多かったのである。
これはどういう社会現象、どんな文化的意味をもつのか、非常に興味深い。実は、少しだけ時代が下るが、いけばなにおいても同様な現象が起きていた。文人花の家元西川一草亭のもとに、上流の女性たちが殺到したのである。その一人が九条武子だが、彼女の場合は、信綱と一草亭の両方に学び、活躍した。彼女は、並みの上流女性ではない。大正3美人の1人と騒がれたばかりか、短歌集『金鈴』で一世を風靡したカリスマ女性である。
また、平塚らいてう(雷鳥)らと一緒に『青鞜』を立ち上げた藤浪(物集)和子も、一草亭に入門している。なぜ藤浪は一草亭を選んだのだろうか。身分的・物質的には恵まれていても、強い抑圧の下にあったのが上流階級の女性たちである。しかし、どうやら、上流女性の意識も変わりつつあり、もはやおとなしいばかりではないようなのだ。彼女たちの求めた文化とは何であったのか。九条武子についてはのちに詳しく述べるとして、まずは急変する一草亭の周辺から探ってみよう。
(注1)『石川啄木全集 第5巻』筑摩書房、1978年刊。
🔴一草亭、一代で上流夫人たちを門下に
(初出「日本女性新聞」2015/8/1 第11回)

京都の去風流7世・西川一草亭(明治11~昭和13)がたいへん興味深い。彼は上流階級の数多くの女性を弟子としていたが、親の代まではそうでなかった。圧倒的に一草亭の一代で変わったのである。いったい何が起きたのだろうか。
父親の一葉は、少年時代から苦労が多かった。西川家に養子として入ったが、まもなく養父が亡くなり、花技を学べなかった。しかも幕末の動乱で京都は焼け野原となり、西川家も焼けて財産を失った。一葉が花を習ったのは養父の弟で、紙問屋をしていた人である。そして食うために、15歳頃にはもう人に教え始めた。懸命に花技を学びながら必死になって人に教えている少年の姿が思い浮かぶ。
幸い京都では人に知られた古い流派であり、代々門人だったというような旧家の旦那衆が、辛抱強く一葉の成長を見守ってくれた。ただ、稽古だけで暮しが成り立っていたのではなく、切り花を売る商売もやっていた。屋号は「花源」だった。
父一葉が亡くなったのは大正2年である。追善の花会では社中参詣が77名だったと記録されている。そうした一葉門人の一部が引き続いて一草亭の弟子になってくれたようだ。そこまでは普通の家元継承なのだろうが、すぐに大変化が起きる。入門者が殺到し、またたく間に門人数が激増するのである。5年後の大正7年に201人となり、大正12年に407人、継承から18年後となる昭和6年には495人になった(注1 )。その大半が女性であり、しかも上流階級の女性がやたらと多い。
例えば、大正4年に入門した日野西広子の夫は、明治天皇の元侍従で、子爵であった。大正5年に入門の外山治子の夫は、大阪の富豪で、今羽女学校を創立した人だという。大正6年に九条武子が入門したが、彼女は西本願寺法主(伯爵)の二女であり、九条男爵に嫁いでいた。この人についてはのちに詳しく述べよう。
その後も続々と上流女性が入門してくる。吉川子爵(旧岩国藩主)夫人、大岡子爵(大岡越前の後裔)夫人、鳥尾子爵夫人、前田侯爵(旧加賀藩主家)夫人、東本願寺法主(伯爵)夫人といった人たちである。実業界の夫人も多く、東洋綿花社長夫人、銭高組社長夫人、大林組副社長夫人、日本紡績社長の子息夫人などが入門した。大学教授や医者などの夫人も多い。以上は『瓶史』(注2)による。
それにしても彼女たちはなぜ去風流を選択したのだろうか。古い流派にはちがいないが、大きな流派ではないし、しかも父一葉の代には細々としたものになっていた。去風流を選ぶ理由が見当たらないのである。
しかし現実に上流の女性たちが殺到したわけだから、彼女たちの求める何かが一草亭にあったと推測しなければならない。次回、この問題を大正10年頃に入門した藤浪和子の書いた文から考察してみよう。彼女は『青鞜』を立ち上げた平塚らいてうら5人の発起人の1人である。旧姓は物集(もずめ)、かつて「新しい女」として騒がれた彼女だが、去風流を選んだその理由は何だったのか。
(注1) 熊倉功夫「西川一草亭論」『西川一草亭・風流一生涯』淡交社、1993年刊。なお、一草亭の場合、ほとんど中間教授者を置かず、彼が直接指導するやり方を基本としているようであり、この門弟数が限界ではないかと、熊倉や工藤昌伸らが指摘している。
(注2) 大正6年から発行している流派誌『去風洞社報』を、昭和5年1月に改称して『瓶史』とした。昭和6年4月の陽春号から定期公刊雑誌に発展、いけばなだけでなく、日本文化を総合的に研究する、貴重な雑誌となった。昭和14年夏号まで続く。
🔴「新しい女」は、なぜ一草亭を選んだのか
(初出「日本女性新聞」2015/8/15 第12回)

平塚らいてうの〈 元始、女性は実に太陽であった 〉を掲載して創刊されたのが『青鞜』である。明治44年に日本初の女性による文学雑誌として出発し、のち女性運動誌の傾向を強めた。偏見や非難と闘い、女性の覚醒を促したが、5年後の大正5年に廃刊となった。
5人の発起人の1人が藤浪和子(明治21~昭和54)である。当時は旧姓の物集(もずめ)で、高名な国語学者の物集高見を父にもつ、れっきとしたお嬢さまであった。姉とともに漱石門下の新人小説家としてデビューしたばかりだったが、『青鞜』創刊に誘われて参加した。青鞜社の事務所も彼女の部屋ということになり、『青鞜』はここを拠点に創刊された。しかし順風満帆というわけにはいかない。翌年、発禁処分で物集邸が家宅捜索を受け、和子は青鞜社退社を余儀なくされたのである(注1)。
彼女は、日本のレントゲン学の草分けとなる医学者藤浪剛一と結婚し、令嬢から令夫人へと変わった。そして、若い頃はそうでもなかったが、〈 いつとはなしに花でも活けてみたいという気持ちに 〉なったという。「新しい女」たちも、時とともに変わっていく。悲劇的な結末を迎える人もいるが、彼女は比較的穏健な方向へ変わったようだ。とはいえ、従順な古い女に回帰したわけではない。
大正10年頃のこと、藤浪は花を学ぼうとして近所に住む相当に有名な宗匠に出稽古を頼んだ。〈 それは全く宗匠という名に相応しい人 〉で、60歳くらいで、十徳を着て、腰の低い、雨の降る日など蛇の目の傘がよく似合う人であった。それはよいが、その人は弟子が多いことや多忙さを吹聴するばかりだった。それでいて出稽古を断るわけではなく、いつも定められた時間にやってきては忙しい忙しいを繰り返すのである。〈 単に挿花という技術だけなら、一流の師匠に相違ありますまい。しかしその外には何もないお人のようでした、新聞種の世間話か、お天気 〉の話ばかり。なんだか〈 たよりなく 〉なったという(注2)。
〈 何もないお人 〉とはずいぶんキツイ言い方だが、こうした宗匠への不満から、親交のあった津田青楓に相談し、青楓の実兄一草亭を紹介された。この頃一草亭は東京に進出していたのである。しかし彼女は去風流の名を知らなかったし、一草亭の名も知らなかった。彼女が自分の目で確認した一草亭の花、教養、学識、洞察力などに感心したことが入門の理由である。
一草亭は14歳で高等小学校を卒業したのち、商家に1年間行儀見習いに行かされた。だから正規の中等教育や高等教育とは無縁であった。彼の多彩な教養、深い学識の多くは独学で獲得されたものであり、努力の賜物である。その結果、職人的ないけばな人から文化人としてのいけばな人に脱皮した。そしてこの時期の女性たちが求めていたのが、こうした文化人としてのいけばな人だったのではないか。
『青鞜』はごく少数の前衛だが、あまり間をあけずに、女性本隊の前進が始まっていたのかもしれない。前衛ほどの激しさはないが、もはや親や夫の言うままではない、少しずつ自我を強めていく女性たち。とりわけこの頃の上流の女性は一定の学歴をもつようになっていたから、目覚めは早かったはずである。そうした女性たちが文化人一草亭のもとに流れ込んだと、私は見ている。
(注1)参考 堀場清子『青鞜の時代』岩波新書、1988年刊。
(注2)「お花を始めた時の事」『瓶史』1931年陽春号(去風洞刊の瓢箪堂復刻版)。
(図1)出典『瓶史』1934年新春特別号(去風洞刊の瓢箪堂復刻版)。
🔴葛藤の兄弟愛、一草亭と津田青楓
(初出「日本女性新聞」2015/9/15 第13回)

西川一草亭が継承してからの去風流には上流女性が殺到した。その点についての分析は前回おこなったので繰り返さない。ともかく親の代とはまるで違った流派になったし、力をつけた。それがよくわかるのが流祖の建てた花堂「一時庵」の再興である。天明の大火(1788)で焼失したものを大正15年に復興したのである。費用は2万1千円余りで、巨額というほどではないが、その内1万6千円余りは寄付である(注1)。家元継承から10年余りで門弟たちからかなりの寄付金が集められる力がついたわけだから、急成長である。
上流階級に依存する体質を強烈に批判したのが実弟の画家津田青楓である。この兄弟、実に不思議な関係だ。弟の青楓は辛辣に一草亭を批判するが、一草亭はその批判を迷惑と思いながらも受け入れる。例えばある集まりで門弟を前にまず一草亭が話をし、次に講演を頼まれた青楓が話をする。すると一草亭がいまいま話したことへの反対論を述べて散々こきおろす。こんなことの繰り返しなのだが、だからといって兄弟の縁が切れることはない。結局のところ異常に仲がよいのである。昭和8年の暮れに2人は電話で喧嘩をする。一草亭によるとその喧嘩の中身はこうだ。
〈 津田が余の欠点を挙げて、上流にこびて、落ち目になった人に冷淡なのを批判する。津田と話していると自分くらい下らぬ人間はないような気がする 〉。しかし批判の仕方が酷すぎるとも思う。私は〈 欠点だらけの人間なれど、それほどの悪人でなし、津田は私のタビの先に泥のくっついているのをとがめ 〉、そればかりを汚がっている。〈 私が死ねばタビの先の泥ばかり見つめないで、もっと全体を見てくれると思う 〉(注2)。
当時の一草亭は50代半ば、いけばな人としてだけでなく、文化人としての評価も高まっていた。その割には若々しい、むしろ青臭いような煩悶だが、それをまた無造作に公表してしまうところが面白い。
一草亭が上流女性の流入を予測していたとは思えないし、それを望んでいたかどうかも疑わしい。複雑に動く歴史の一場面にたまたま居合わせ、たまたま彼の文化重視の姿勢が上流女性の新動向と合致した、そう見た方が自然だ。
では上流階級に対する一草亭の見方はどうか。若き日の一草亭は、『読売新聞』連載の河上肇(筆名-千山万水楼主人)の「社会主義評論」を愛読した。のちに河上は「貧乏物語」を書いて有名になるが、しだいにマルクス主義に接近していく。そして非合法活動に入った河上をかくまったのが青楓で、その場所がなんと一草亭の東京稽古場なのである。一草亭は事情を薄々知りながら見て見ぬふりをしたらしい。また、一草亭が書いた文の中には「茶の湯は民衆のものか貴族のものか」( 注3)などがあることからして、問題意識をもっていたことは明らかである。
ただし社会変革を考えるような人ではなく、彼の願望はあくまで日本文化の復権にあった。そのために上流との関わりを利用した。だから弟にタビの先の泥だけをとがめるなと言いたかったのであろう。
この点を女性側から見たらどうなのか。もちろん上流女性は利用されるだけの存在ではなく、彼女たちなりの意思がある。むしろ時代を動かすのは彼女たちであり、大正時代の上流女性は抑圧に抗しながら新しい生き方を求め始めていた。大正のカリスマ的人物・九条武子を通してそれを見てみよう。
(注1) 「花堂一時庵再興会寄付収支決算報告書」『去風洞社報』丁卯(ひのとう、1927年刊?)
(注2)「去風洞日抄」『瓶史』1934年新春特別号(去風洞刊の瓢箪堂復刻版)。
(注3)『瓶史』1933年新春特別号(去風洞刊の瓢箪堂復刻版)。
(図1)出典 津田青楓『老画家の一生 上巻』中央公論美術出版、1963年刊。
(花女04|変わる上流女性の意識 おわり)
