【訃報】ハンク・アーロン氏を悼む(1)715号本塁打をめぐる喧噪と事件、その後


 米MLBで通算755本塁打を放ったハンク・アーロン氏が亡くなった。享年86だった。

 僕が物心ついてから初めて耳にしたメジャーリーガーの名前は、ベーブ・ルースハンク・アーロン氏である。いずれも、王貞治さんが彼らの通算本塁打記録を抜いたという文脈でだと思う。ベーブ・ルースはすでに伝記の中の人であったが、アーロン氏は生きたレジェンドであった。1990年代後半に野茂英雄さんが海を渡るまでは、日本ではメジャーリーグのテレビ中継はおろか、情報そのものも少なく、いまのようにYoutubeもなかったため、アーロン氏の動く姿、ホームランを放つ姿をはっきり見たのは、だいぶ後になってからだと思う。

ハンク・アーロン、ベーブ・ルースを抜き通算755本塁打は33年間トップ

 ハンク・アーロンこと、ヘンリー・ルイス・アーロンは1934年、アラバマ州出身で、1954年、ミルウォーキー・ブルワーズで20歳でメジャーリーグデビューを果たした。その後、”Hammer”、”Hammerin’ Hank”というあだ名の由来にもなったハンマーでたたくような力強いスウィングと走力を活かして、右打席から長打や本塁打を量産した。アトランタ・ブレーブスに移籍し、1974年、ベーブ・ルースの最多本塁打記録である714本を抜いて、MLB歴代トップに立つと、23年間で積み重ねた755本塁打はその後、33年に渡って、破られることはなかった。MLBでの通算打点2297、通算塁打数6856は、依然、歴代トップである。引退後に即、米国野球殿堂入りを果たし、ブルワーズとブレーブスで背負った背番号「44」は、両チームで永久欠番となった。

人種差別、脅迫と闘ったアーロンは記録達成にも淡々


 アーロンが戦ったものは、幼い頃は貧困、そして、野球人として成功を掴んだ時は、人種差別だった。近代MLBで初となる黒人選手だったジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューしてからまだ間もない時代である。アーロンが住む街に、ロビンソンが遠征でやってきたときに、アーロンは学校を抜け出し、ロビンソンから直接、話を聴くことができたという。これが、貧しいヘンリー少年が野球に打ち込むモチベーションとなった。

 アーロンは、ベーブ・ルースを抜く715号本塁打を放ったとき、特に喜びを爆発させることもなく、淡々とダイヤモンドを一周した。黒人のアーロン氏に対する差別的侮辱、脅迫が寄せられるという強烈なプレッシャーから解放されたアーロン氏は偉業を達成後、“Thank God It’s over(やっと終わった。神様に感謝します)”とコメントした。

 アーロン氏はこの時のことを「私の人生で最も困難なことの一つだった。715号本塁打を打った直後のことも、あまり覚えてはいない。当時のことは、あまり話したくない」と述懐している。
 アーロンの偉業達成をめぐる喧噪と困難とは一体、どんなものだったのだろうか。



その① 漫画「スヌーピー」で、アーロンの記録達成前の喧噪を取り上げたエピソード


   1973年のシーズンを39歳で迎えたアーロンは通算673本塁打に達しており、ルースの通算本塁打数まであと41に迫っていた。
   黒人のアーロンが、白人のルースの偉大な記録に追いつき、追い越すことに対して、あからさまな不快感や憎悪を向ける者たちがおり、それは日に日に、増していった。
   漫画「スヌーピー」の作者、チャールズ・シュルツは、こうした騒動を見かねたのか、「スヌーピー」の中で、スヌーピーがベーブ・ルースの本塁打記録に迫っている、という設定の作品を描いて、その年の8月に発表した。
 スヌーピーはルースの本塁打記録に挑む気満々であったが、スヌーピーの元には抗議の手紙が殺到する。「ハンク・アーロンがベーブ・ルースの記録を抜くのはいいが、スヌーピー、おまえはだめだ!」というものだった。
 スヌーピーはルースの記録まであと1本と迫り、シーズン最終戦を迎える。そして、9回2死、スヌーピーが走者を二塁に置いて、バッターボックスに入る。すると、相手投手はセカンドに矢のような牽制球。二塁走者のチャーリー・ブラウンは飛び出していてタッチアウト、試合終了。スヌーピーは記録達成を逃してしまった・・・というオチ。
 作者のシュルツはスヌーピーを通して、ジョークを交えて、アーロンに差別や憎悪を向ける人々の心を融和させようとしたのかもしれない。


その② ベーブ・ルースの本塁打記録にあと1本まで迫りながら迎えた長い、長い冬~中傷、脅迫、殺害予告も


   そんな喧噪をよそに、アーロンは39歳で迎えた1973年9月29日の試合で、自身8度目となるシーズン40本塁打に到達した。ベーブ・ルースの通算本塁打記録にあと1本に迫ったのである。だが、その異時点で今シーズンは残り1試合で、翌日の最終戦ではルースの記録に並ぶことが期待された。
 9月30日の最終戦、アーロンのタイ記録達成を観ようと、地元アトランタのフルカウンティ・スタジアムには4万を超える観客が集まった(前日の試合の観衆は1万8000人だった)。アーロンは3打席連続安打を放つが、いずれもシングルヒット。2点ビハインドの8回裏に迎えた最終打席は、セカンドへのフライに倒れ、大記録は翌年に持ち越しとなった。
 はからずも、チャールズ・シュルツの「預言」が的中してしまったのである。
 そして、1本を残してシーズンが終わってしまったことが、アーロンの「双肩」に重くのしかかっていく。

 かつて1961年、ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが、ベーブ・ルースのシーズン本塁打記録を追いかけていた際も、同様のことが起きていた。マリスは白人であったが、ルースを狂信的に神格化するファンから嫌がらせや脅迫が相次いでいた。ましてやアーロンは黒人であり、その中傷や脅迫は想像を絶するもので、中には殺害予告まであり、アーロンの家族に対する危害も懸念させた。アーロンは孤独の中にいた。

 そんな中、アーロンの心の支えは、偉大なる先達のジャッキー・ロビンソンであった。アーロンがルースの記録にリーチをかけたその1年前、1972年10月にロビンソンは53歳の若さで他界していた。

 ージャッキーは差別に屈せず、MLBで足跡を遺し、後に続く者たちに道筋をつけてくれた。その遺志を引き継ごうー。

その③   アーロンに励ましの手紙が全米から93万通

 そして、アーロンに対して、人種差別主義者からの嫌がらせがあったことが報道されると、全米からアーロンを励ます手紙が殺到した。その数、実に93万通。これは、当時の記録となり、米国郵政公社(U.S Postal Service)は、アーロンに表彰の盾を送ったという。アーロンに向けられていたのは差別と憎悪だけではなかった。


その④ アーロンが715号ホームランを放った瞬間に起きた「事件」 ~銃を持った警察官が引き金に手を懸けた

 1974年4月4日、40歳のアーロンを擁するアトランタ・ブレーブスのシーズン開幕戦は敵地のシンシナティであった。アーロンは「4番・レフト」で先発出場した。
 初回、走者を二人置き、アーロンはいきなり左中間スタンドに叩きこんだ。714号、ベーブ・ルースと並んだのである。だが、アーロンは翌日の試合を欠場し、その次の試合は4番・レフトで先発に復帰したが、見逃し三振、見逃し三振、サードゴロと、精彩を欠いていた。開幕戦の後、観衆の少ない敵地で、記録達成のモチベーションが上がらなかったのかもしれない。
 1974年4月8日、ブレーブスは本拠地フルトン・カウンティ・スタジアムに還り、ロサンゼルス・ドジャースを迎えた。この日はホーム開幕戦のナイトゲームということもあり、53,775人の観衆が詰めかけていた。
 ブレーブスのエディ・マシューズ監督はアーロンを「4番・レフト」で起用した。相手はかつてジャッキー・ロビンソンが在籍したドジャース。
 2回裏に廻ったアーロンの第1打席は四球だった。そして、ブレーブスが1-3とリードされて迎えた4回裏、無死1塁でアーロンに第2打席が廻ってきた。ドジャースの先発は左腕のアル・ダウニング。アーロンはこれまで打った本塁打は、右投手から508本、左投手からは206本だった。ダウニングが投じた初球はワンバウンドになる変化球でボール。スタジアムからは「ストライクを投げろ」とばかりのブーイングが起こった。

 そして、カウント1-0で迎えた2球目。アーロンは外角高めの球を叩いた。打球は高く舞い上がりレフトへ。レフトとセンターが打球を追う。レフトを守るビル・バックナーがフェンスによじ登る。しかし、ボールはバックナーの頭上を越え、ブレーブスのブルペンに飛び込んだ。推定飛距離は117メートル。味方のブレーブスの控え投手がその歴史的なボールをダイレクトキャッチすると、大歓声で沸くフルカウンティ・スタジアム。
その瞬間、自分以外の世界が止まったように、ゆっくりと、ベースを廻るアーロン。ドジャースのセカンドもショートを守る選手たちもアーロンと祝福のタッチを交わす。

 しかし、アーロンが二塁ベースを過ぎた辺りで、猛ダッシュで駆け寄る人影があった。
 それはガストンコートネイという二人の少年で、共にまだ17歳だった。
 ガストンとコートネイは、ゆっくり走るアーロンの両脇に回り込んだ。そして、アーロンの肩のあたりをポンポンと叩いた(その後、テレビ中継のカメラは切り替わってしまう)。

 その時、観客席では、拳銃を手にかけた男がいた。アトランタ警察の警官、カル・ウォードローである。アーロンは度重なる中傷や脅迫を受けていたので、アトランタ警察がボディガード団を結成し、ウォードロー氏もその一員だった。その日は非番だったが、観客席でアーロン氏を見守っていたのである。
 その目の前で、少年たちがアーロンに駆け寄ったのだ。ウォードロー氏は拳銃に手をかけながら、様々な考えが頭をよぎったという。しかし、咄嗟の判断で、ウォードロー氏は引き金を引くことを思いとどまった。その少年たちが危害を加えるものではないと判断したからである。
 ガストンとコートネイはアトランタ警察にあえなく拘束され、牢獄にぶち込まれたが、その日の深夜には釈放された。一緒に試合を観戦していたガストンの父親が、保釈金として100ドルづつ、支払った。翌朝、裁判所で二人は無罪放免となった。アーロンは「二人が大事に至らなくてよかった」と語ったという。

その⑤     アーロンと「少年たち」の後日談

 その後、1984年にブレーブスが催した、アーロンの本塁打新記録達成10周年記念のイベントに、二人も招待された。二人はさらに1994年に、アーロンのドキュメンタリー映画のリリースを記念するイベントにも呼ばれたが、二人はアーロンとは「握手する程度」の接触だったという。

 そして、「事件」から36年後の2010年、ついに三人は会話の機会を持つことができた。二人はアーロン氏側に連絡して、もう一度、会わせほしいと頼んだという。アーロン氏は快諾し、ブレーブスの本拠地での試合前に、三人の対面が再び実現した。すでにアーロンは76歳、ガストンとコートネイの二人は共に53歳になっていた。二人によると、面談したアーロン氏は、二人がその後どうなっていた気にしていたと言ってくれたという。そして、三人はにこやかに、プレス向けの記者会見に臨んだ。

 あの夜、確かに、17歳の少年たちは過ちを犯したかもしれない。だが、アーロン氏の寛大な心で、二人の青年は赦された。そして、あの瞬間、二人の白人の少年がアーロン氏の「双肩」にのしかかっていた重荷を叩いて少しは振り払ってくれたとアーロン氏も感じたのではないか、そんな象徴的な「事件」だったのではないかと思いたいのである。

R.I.P. Hammering Hank



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