【訃報】ハンク・アーロン氏を悼む(2)/王貞治とのホームラン競争
1974年オフ、日米のホームランキングが後楽園球場で激突
ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜いてMLB通算本塁打新記録を樹立し、日本では長嶋茂雄が現役を引退した1974年のオフ、日米野球が開催された。来日したのはニューヨーク・メッツである。11月2日、後楽園球場ではメッツ対全日本の第6戦が行われることになっていたが、その試合前に日米のホームランキングである、王貞治とハンク・アーロンの本塁打競争が行われた。
ホームラン競争に破格の”ギャラ”を提示したCBS
この「世紀の対決」を仕掛けたのは、米国の三大テレビネットワーク・CBSのエグゼクティブ・プロデューサーである、フランク・チャーキニアンである。チャーキニアンは長年、ゴルフ中継のプロデューサーを務め、特にマスターズの中継に尽力した男で、世界ゴルフ殿堂入りも果たしている。
チャーキニアンはアーロンに5万ドル(当時の為替レートで1500万円)、王には2万ドル(同じく600万円)のギャラを提示した。アーロンはMLBトップの通算本塁打記録を更新し、通算733本塁打、34歳の王貞治は2年連続の三冠王に輝き、通算634本を積み上げていた。アーロンの年俸は20万ドル(同じく6000万円)、一方の王の年俸は18万ドル(同じく5400万円)だった。驚くべきことに、MLBとNPBの年俸格差はまだそれほどなかったのである。
日本に物見遊山気分で自前のバットすら持参しなかったアーロン
本塁打競争のルールは、打球がフェアゾーンに飛んだ5球ごとに交代し、計4ラウンドを行うというもので、ホームラン数が多いほうが勝利というものだった。実はアーロンにとって、物見遊山のついでにたった数十分ほど打席に立ち、わずか20回のスウィングで、年俸の1/4にあたる報酬を手にすることができたのである。
しかし、アーロンの旅行の荷物にバットケースはなく、勿論、自前のバットも持参してはいなかった。
第3ラウンドで「事件」が起きたー
第1ラウンド、先攻の王がいきなり3発をスタンドインさせると、後攻のアーロンは2発。続く第2ラウンド、王3本に対して、アーロンは4本を放り込み、6対6で並ぶ。
そして、第3ラウンド、「事件」は起きた。
王の2球目は、ライトスタンドのポール際に飛び込んだ。線審の佐藤清次は、手をグルグル廻して「ホームラン」の判定。しかし、主審を務める審判が「ファウル」と判定。線審の判定を主審が覆したのである。実はその審判こと、かつてアーロンのホームランを取り消した男だった。
アーロンのホームランを取り消した男
1965年8月18日、セントルイスで行われたアトランタ・ブレーブス対セントルイス・カージナルス戦、3-3で迎えた8回表、打席に入ったアーロンはチェンジアップをとらえると、特大のホームランを放った。これがブレーブスが勝ち越し点になるはずだった。しかし、審判のクリス・ペレクーダスは、「アウト」の判定を下した。アーロンが打った際に、左足が打席を踏み出していた、というのがその理由だった。ブレーブスのボビー・ブレイガン監督は猛抗議するが判定は覆らず、退場となった。アーロンのホームランは「幻」となったばかりか、ブレーブスはカージナルスに5-3で敗れた。もし、この1本が本塁打と認められていれば、アーロンの通算本塁打数は「756」だった。「あんなひどい判定は見たことがない」-31歳のアーロンは報道陣にそう語った。
この時の主審であるペレクーダスが日米野球のために来日し、ホームラン競争の主審を務めていたのである。
第4ラウンドでも王のホームラン判定が覆り、アーロンが勝利
第3ラウンド、王は結局、1本に留まると、アーロンが3発を放って、9-7とリードし、最終ラウンドへ。
第4ラウンド、王は一発目、二発目をライトスタンドに放り込む。続いて、またもライトスタンドポール際に大飛球。線審の佐藤は「ホームラン」と判定したが、今度は、アーロンが判定に抗議した。すると、主審のペレクーダスはアーロンの抗議に従って、「ファウル」と判定を覆した。その後、王は一発もスタンドに放り込むはできず、9本でフィニッシュ。この時点で9対9とアーロンに並んだが、一方のアーロンは3打球目にレフトスタンドに10本目のホームランを放って、「勝利」が確定した。
疑惑の判定にも沈黙を貫いた王貞治
2回の「疑惑の判定」があったにも関わらず、王は一言もペレクーダスに異議を唱えなかった。こうして、MLBのホームラン王であるアーロンの面目は保たれた。王は笑顔でアーロンに駆け寄り、アーロンも王に応じた。
40歳のアーロンはこの年、ルースの記録を更新したものの、長打力には陰りがあり、シーズンの本塁打数はわずか20本にとどまっていた。20本塁打で年俸6000万円を稼いだあと、この10本の「ホームラン」でCBSから1500万円を手にし、おいしい「ボーナス」となった。
アーロンは勝負を終えた後、王の打撃を評して、「年齢を考えれば、800本は打つだろう」と予言した。一方、その場に居合わせた、現役引退したばかりの長嶋茂雄は「かつてアーロンのことをフロリダのスプリングトレーニングで3度、見たことがあるが、彼のスウィングは変わっていない。(来日した)飛行機から降りたばかりで、練習なしであんなによくバットが振れるなんて驚きだ」と語った。
東京のアーロンにかかってきた国際電話
しかし、王の800本超えを預言したアーロンだが、自身の身にふりかかる運命をこの時、知る由もなかった。翌日、東京にいるアーロンに電話が届いた。声の主は、アーロンの古巣であるブルワーズのオーナーだった。ブルワーズがブレーブスからアーロンをトレードで獲得する、という内容だった。当時、ブルワーズはアメリカン・リーグに所属していて、1973年からDH制度を導入したばかりだった。翌年、41歳を迎えるアーロンにとって現役を続けるなら打ってつけの環境である。まだ時差ボケが治らないアーロンだったが、やがて全てを理解した。
つまり、アーロンにとって、このホームラン競争に参加した時に着用したブレーブスのユニフォーム姿はこれが現役最後となったのである。そして、声の主は、のちにMLBのコミッショナーとして辣腕を振るい、数々の改革を進めることになったバド・セリグである。
アーロン、通算755本塁打で現役引退、王はアーロンを追い抜く
翌1975年、41歳ののアーロンはブルワーズで127試合に出場したが、そのうち先発出場で守備についたのは1回だけで、残りの126試合はすべてDHでの出場だった。しかし、12本塁打に終わり、往年の打棒は戻らなかった。翌1976年7月20日、アーロンはシーズン10本目、通算で755号本塁打を放った。これが自身最後のホームランとなった。その2か月半後、10月3日にアーロンは現役最後の打席をショートへの内野安打で終えた。
その1週間後、日本では王貞治が10月10日に、ベーブ・ルースの本塁打記録に追いつき、翌10月11日に通算715号を放って追い抜いた。
1977年9月3日、王貞治は通算756号本塁打を放ち、アーロンの記録をも抜いた。そして、アーロンの預言通り、1978年8月30日に王は通算800号本塁打を放った。
王貞治とアーロンが育んだ友情
王貞治とアーロン氏は、この後、友情を育むようになり、王がアーロンの記録を抜いて756号本塁打を打った際、アーロン氏は王氏に「一本足打法」を象徴するフラミンゴの剥製を寄贈した。そして、二人は缶コーヒーのテレビCMでも共演し、2006年に第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催され、米国サンディエゴのペトコパークで行われる決勝に日本代表が進出した際、キューバ代表との試合前の始球式で、アーロン氏が登場した。その時、日本代表の監督は王貞治だった。王氏が率いる日本代表は、アーロン氏の眼前で初代WBC世界一の称号を手に入れた。
ホームラン競争以来、意気投合したアーロン氏と王氏は共に「世界少年野球推進財団」で、世界に野球を広めようと活動を始めた。1990年、2人が発起人となって、「世界少年野球大会」をスタートさせ、2015年の大会が千葉で開催された際には、アーロン氏も来日して、開会式に参加した。
王氏にとっても、アーロン氏との知己を得たことは野球人として、「2万ドル」や「勝利」以上の価値があるホームラン競争であった。
