曇りガラスの向こう側 #023「それぞれの宿題」
本邸の一角にある「書庫」は、高い天井まで届く書架に囲まれた、静謐な空間だった。凪の指示を受け、つづるは鉄平とひなに連れられて、この自習室へとやってきていた。机の上に広げられたのは、三者三様の「宿題」だ。「すず」を見たときこそ興味津々だった鉄平とひなも、今は眼前の課題に集中して取り組んでいる。
鉄平は、ラグビーの試合映像をタブレットで解析しながら、複雑なフォーメーション図をノートに書き起こしているようだ。
「……このフェーズでの接点の作り方、数的優位の作り方が甘いな。沙織さんの指揮なら、ここはもっと最短距離で……」
彼がまとめているのは、部活動の枠を超えた一種の戦術論だった。個々の特性を把握し、盤面を俯瞰して最適解を導き出す。その思考プロセスは、新月部隊での実戦経験に裏打ちされた、極めて知的な作業に見えた。
その隣で、ひなは古典のテキストを開きながら、余白に小さなスケッチを描き込んでいる。
「この歌の背景にある『残り香』っていう表現……単なる匂いじゃなくて、そこにいた人の『存在の定着』だと思うの。色の階調で言うなら、淡い藤色から銀鼠に変わる瞬間みたいな」
つづるの興味深そうな視線に気づき、ひなは丁寧に言葉を重ねる。情景を色彩と形で捉え、論理で再構築していくその様を見て、つづるが「昨日経験した定着と似ているのかな」と漏らすと、ひなはふふっと笑った。
「あんなあ、つづる君の『定着』は、すごすぎて正直ついていけへんわ。でも、その論理を理解して次につなげることなら、うちにもできるかもしれへんな」
「つづる、お前の方はどうや?」
鉄平に声をかけられ、つづるは顔を上げた。
「……物理と数学は終わった。今は現代社会の『京都の都市計画』についてのレポートに向けた準備をしているよ。鎌倉とは街の引き方や作りが全然違うから……」
「よっしゃ、そこまで!」
つづるの言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、鉄平が勢いよくペンを置いた。
「集中しすぎても効率落ちるだけや。凪さんからも指示出てたやろ? 『京都を知れ』ってな」
「そうだよ、つづる君。もうお昼だしね」
ひなもテキストを閉じ、目を輝かせる。
「実はね、ここから歩いてすぐのところに、今の時期しか食べられない絶品の『ふわふわかき氷』があるの。あたし、あそこの天然氷の質感をスケッチする……ふりをして、お腹いっぱい食べるのが夏休みの目標なんやから」
「スケッチは建前かよ」
鉄平が笑い、つづるの肩を叩く。
「つづる、お前も行くやろ? 鎌倉の海風もええけど、京都のこの夏の殺人的な暑さには、あの氷が特効薬やぞ」
二人の自然な誘いに、つづるは少しだけ戸惑い、それからふっと表情を緩めた。
「……うん。行ってみたい。案内してくれる?」
「任せとき! 現地案内は『新月』の得意分野やからな」
自習室の静寂を、三人の足音が軽やかに踏み越えていく。
肩に乗った「すず」が、まるで行き先を急かすように、つづるの耳元で「ミュイッ!」と短く鳴いた。
