「歯石除去での麻酔による死亡事故」のニュース。「やっぱり麻酔は怖い」で終わらせてはいけない本当の理由
日頃から愛玩動物看護師として、OCEPアニマルオーラルケアアドバイザー、として家族の一員である動物たちのオーラルケア、デンタルケアがなぜ必要なのかをお知らせする記事を書いておりますが、
本日、とても悲しいニュースを目にしました。 数年前、動物病院での歯石除去の全身麻酔中に、愛犬が急死してしまったという飼い主様が、カルテの矛盾を突き止めて勝訴したという記事です。
愛犬を失った飼い主様の無念と、ご自身で真実を突き止めるに至った計り知れない労力に、心からお見舞い申し上げます。
このニュースを見て、ネット上でも様々な意見が飛び交っています。それを見て 「やっぱり麻酔は怖い」「無麻酔でやってくれるところを探そう」「うちの子も処置を勧められているけれど、怖くてやめようかな」……と思った方もいらっしゃるかもしれません。
全身麻酔が怖いからと踏み切れずにいた方が「ああ、やっぱり」と逃げの選択をしてしまったり、やっと定期検査や歯科処置を始めた方が「怖いから」と歩みを止めてしまわないか。私はプロとして、そこを強く危惧しています。
だからこそ、少し小難しい話になりますが、愛犬の命を守るために避けては通れない「麻酔と歯周病の真実」について書きたいと思います。
「適切な管理」と「怠慢」は全く別物です
記事で飼い主さんの言い分が認められた理由として以下の事が書かれていました
病院側から説明されていた「心肺停止」の時刻より後にも、血圧を測定した記録が残っていた。
「血圧が測れるということは、心臓が動いて脈があるということです。やっぱりおかしいと思いました」
病院側によると、チロルが亡くなった日は北九州市が雪に見舞われたため、歯石除去に立ち会っていた看護師を帰宅させていた。
その後は、獣医師が一人で、麻酔をかけたチロルを処置
まず大前提として、今回の事故と「適切な管理下で行われる麻酔処置」を混同するべきでなないと思います。
記事によれば、当日は獣医師がたった一人で麻酔をかけ、処置を行い、バイタル(血圧など)の異常を知らせるサインを見落としていた(あるいは適切に測定・対応していなかった)とされています。
麻酔には確かにリスクがあります。だからこそ、術前の詳細な血液検査や心エコーなどの検査を行い、術中は処置をする獣医師とは別に、専任のスタッフ(動物看護師など)がモニターを監視し、異常があれば即座に対応できる「複数人体制」が不可欠なはずです。
恐れるべきは「麻酔という薬」そのものではなく、「麻酔に対する安全管理が不十分な環境」や「怠慢」です。そこを一緒にしないで欲しいと思います。
がんなら悩むのに、なぜ「歯周病」は放置されるのか
愛犬がもし「がん」だと診断されたら、皆さんはどうしますか? 「麻酔が怖いから何もしません」と即答する方は少ないはずです。麻酔のリスクと、がんが進行して命を落とすリスクを必死に天秤にかけ、獣医師と相談して決断するでしょう。
では、なぜ「歯周病」だと、いとも簡単に「麻酔が怖いからやらない(放置する)」という選択になってしまうのでしょうか。
これについて考えた時、私は多くの人が歯周病を「単なる口の臭い」「歯の汚れ」だと軽く見ているのでは?と感じる事が多いです。 歯周病は、顎の骨を溶かし、24時間365日、血流に乗って心臓や腎臓などの全身の臓器へ細菌を送り込み続ける「恐ろしい全身疾患」です。
専門チームによって極限まで安全性を高められた「麻酔下での適切な治療」のリスクと、100%確実に愛犬の体を蝕み、激痛を強いる「放置」のリスク。 本当に愛犬の命を縮めるのはどちらなのか、冷静に考えてみてほしいのです。
「歯石除去」という言葉の罠と、無麻酔の限界
「無麻酔での歯石除去」を求める声もありますが、なぜ多くの獣医師がそれを推奨しないのか。 それは、無麻酔では「適切な検査ができず、適切な治療につなげられない」からです。
ここで最近私が最近感じているのは、今の日本のペット業界では、処置のレベルがすべて「歯石除去」という一つの言葉でまとめられてしまっているからでは?という事です。
本来の歯科治療では、以下のように明確な違いがあります。
スケーリング: 歯の表面(見えている部分)の歯石を取ること。
ルートプレーニング(SRP): 歯肉の奥(歯周ポケット内部)の歯根表面についた歯石や感染物質を除去し、再付着を防ぐこと。
フラップ手術: さらに進行した場合、歯肉を切開して目視下で確実に汚れを取り除く外科処置。
少し専門的な話になりますが、「歯周病」と一口に言っても、初期の「歯肉炎」と、組織が破壊され進行した「歯周炎」に分けられます。 もし初期の「歯肉炎」であれば、ルートプレーニングまでは必要なく、表面のスケーリングと適切なホームケアのみで改善する場合もあります。だからこそ、今愛犬の口の中がどのステージにあるのか、歯科レントゲンやプロービング(歯周ポケットの測定)による「確定診断」が絶対に不可欠なのです。
ここで最も知っていただきたい重要な事実があります。それは、歯周病がすでに進行している場合、ルートプレーニングをしない限り、決して「治らない」ということです。
なぜなら、ルートプレーニングを行って歯根の表面を清潔な状態にリセットしない限り、炎症によって剥がれてしまった歯周組織が再び歯にくっつくこと(上皮性付着などによる再付着)はありません。いつまでたっても、歯肉がキュッと引き締まった健康な状態には戻らないのです。
つまり、進行した歯周病の「治療」として本当に必要なのは、ルートプレーニング以上の処置です。無麻酔でパキッと表面の歯石を取って歯を白く見せても、それは単なる「美容」であって「医療」ではありません。
いまだに無麻酔歯石除去を実施しているサロンや業者の中には、「私たちがやっているのは治療ではなく、あくまでケア(美容)です」と主張するところがあります。獣医師法などの法律的な解釈はさておき、実際の処置の次元として見れば、彼らの言い分はある意味で「間違ってはいない」とも言えます。根本的な治療には全くなっていないのですから。
しかし、本当に恐ろしいのはここからです。 表面の歯が白くなったことで、飼い主様が「綺麗になった、治った」と錯覚し安心してしまう。その一方で、一番恐ろしい歯周ポケットの奥の汚れは手付かずのまま放置されます。それどころか、無麻酔での無理な処置の刺激によって、ポケットの奥へさらに汚れや細菌を押し込んでしまい、かえって状況を悪化させる(見えないところで病気を加速させる)可能性すらあるのです。
見えない部分を正確に「確定診断」し、必要な処置(SRPなど)を根本から行う。そのためには、どうしても「適切な麻酔」が必要になるということを知って欲しいと思います。
最も恐ろしい「手詰まり」を迎えないために
「麻酔が怖いから」と、若く体力があるうちの処置を見送り続けた結果どうなるか。
高齢になり、いざ顔が腫れたりご飯が食べられなくなったりした時には、重度の歯周病が進行し、内臓機能も低下しています。そこで初めて「もう高齢で麻酔には耐えられないから、痛み止めと抗生剤で騙し騙し看取るしかない」という、最も悲しい「手詰まり」を迎えることになります。
これを防ぐための最大の防衛策は、病院選びと早期からの予防です。 病院を選ぶ際は、スタッフが麻酔に関する講習を受けているか、あるいは麻酔専任の担当者がいるかなど、麻酔管理に対する姿勢が一つの基準になります。
そして何より、将来麻酔をかけずに済むようにするためにこそ、パピー期など若いうちから正しい口腔ケアを習慣化し、定期的なプロのチェックを受ける「本当の予防歯科」が重要なのです。
もし将来、愛犬がどうしても麻酔をかけられない状態になったとしても、それまでにしっかり口内環境をリセットし、ホームケアの土台ができていれば、維持できる可能性は飛躍的に高まります。
今回の痛ましい事故のニュースを「やっぱり麻酔は怖い」で終わらせず、愛犬の口内環境と、それを守るための環境を今一度見直すきっかけにしていただければと強く願っています。


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