ピンを抜け。少女が吐き出した初恋『チェンソーマン レゼ篇』感想篇
藤本タツキの頭の中を、シェイクする。
口から出てきたゲロの、虹色の美しさ。

砂と、血の味。
容赦のない暴力。
不安になる、浮遊感。
ぐちゃぐちゃになる身体。
救いのない、悪魔と地獄の世界。
誰かオレを抱きしめてくれ。
助けて、チェンソーマン!
400スキ達成❗️
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|映画館

静かに、ジェーン・ドウを聴いていたんだ。
明るくなって、物語の終わりに気がつく。
隣の子供がポップコーンを食べていて、カップルが笑顔で何かを話している。
不意に、胃液が上がってきた。
足早に映画館をでる。

なにか言葉にしたいけど、出てこない。
ジリジリ、と胸を突く痛み。
ずっと、ずっと2人のことが頭から離れなかった。
シャツで、目元をぬぐった。
ネタバレちゅうい❤️

呪いだよ。
映画を観た後、キミは必ずここに戻ってくる。
私は、預言者だからわかるんだ。
|上田麗奈と少女レゼ
まず、レゼ篇で特筆すべきこと。
レゼ役・上田麗奈さんの演技だ。
彼女の演じるレゼは、掴みどころのなさが魅力。

大人びているようで、どこか幼い。
ファムファタール。男を破滅させる魔性の女。
妖艶なスパイの顔と、年相応の少女の顔。
艶やかな瞳に張り付く笑顔。
頬は朱に、触れ合う距離感。
デンジでなくても、恋に落ちる。
冷酷さと可愛さの境界線を、反復横跳びするような複雑で難しいキャラクター。
漫画では表現できない『声』でレゼを演じあげた。
印象的だったのが、デンジに問うシーンだ。

教訓としては、
豪華な食事で恐怖に震えて生きるより、
質素でも心穏やかに生きる方が幸せだ。
つまり、『平和の尊さ』を説いている。
レゼは、なにをのぞむか?
間違いなく、田舎(平和)だ。
「私と一緒に逃げない?」
しかし、デンジは都会(豪華な食事)を選んだ。
レゼの声色がわずかに変わる。微かな落胆。
「都会のほうがウマいモンあるし、楽しそうじゃん」
デンジらしい回答に呆れる。
「キミは食えて楽しけりゃいいのか?」

花火を見る高台でも、同じ質問をしている。
それは、自分自身に語りかけているようだった。
「16歳で学校にも行かせないで、悪魔と殺し合いさせるなんて、国が許していい事じゃない。」
「仕事やめて…私と一緒に逃げない?
私がデンジ君を幸せにしてあげる。
一生守ってあげる。お願い。」
声がつくと、とたんに陳腐になる作品もあるが、
杞憂であった。
上田麗奈は、声という諸刃の剣を見事に操った。
レゼの声は、魂の叫び。

上田麗奈さんが、この作品を傑作へと変えたのは疑いようもない。どのセリフも何パターンも取って、全てのセリフにこだわったという。
圧倒的な演技力。
観客の心を、レゼ一色に染め上げてしまった。
誰も、彼もが、レゼの虜になる。勿論、私もだ。
|宿命の少年デンジ
ジャンプヒーローの中でも、とびきり可哀想で、とびきりイカれた主人公のデンジ。

「映画館のデート」
「学校の夜デート」
エゲツない属性のイベントに遭遇する。
しかし、その全てのフラグをへし折る。
後のストーリーでも、様々な誘惑・女性に拐かされ、揺れ動き、グチャグチャに凹む。
自分を見失い続ける、格好悪い主人公デンジ。

そんな不器用な少年はレゼを想い、花束を用意していた。色彩に、彼の純粋さが表れている。

マーガレット には、心に秘めた愛、信頼。
白いガーベラには、希望、律儀の意味がある。
ブルースターは、信じあう心、幸福な愛である。
デンジが、レゼを信じて待つ心情そのものだ。
結婚式のブーケによく使われる花でもある。
デンレゼ過激派の方も、腕組みして頷いている。
アルストロメリア。
未来への憧れ、持続。
最も残酷な意味を持つ。
デンジがレゼと逃げて暮らす、
『始まるはずだった生活』を象徴している。
その未来は訪れない。
色鮮やかであるほど、2人に影を落とす。
「一緒に逃げねえ?」
デンジにとって、変え難き幸せのはずだった生活。投げうってでも、レゼと居たかった。
デンジが、いかに可哀想で愚かでも。
ホールケーキを手づかみで食べたり、人よりもネコを助けたり、金的したりされたり。飲みかけのコーヒーを飲もうとしたり、してもだ。
何故か、デンジに惹かれる。
誰かを好きになったり、家族を想ったり、教訓を得たり、学んでいる姿。
少年少女時代にそうして大人になってきたように。
私たちは、デンジを見ている。
狂おしいほど、愛おしい。
赦されたり、離されたり、堕とされる。
愛する者と別れ、ボロボロでも、生きていく。
もがき、苦しみ、身体は切り裂かれる。
絶望と、闇に覆われる。
それでも、助けを呼ぶ声には立ち上がる。
それでも、チェンソーのエンジンを吹かしていく。

カッコいいぜ、チェンソーマン!
コミックス20巻。
デンジが、死の淵でレゼを思い出すシーンがある。
「レゼを忘れられない女性にしたい。」
藤本タツキ御大の言葉だ。なんてヤツだ。
物語上でも、レゼ篇はターニングポイント。
作者はレゼ篇でのデンジは流されっぱなしの姿を描いたと話している。
考えとは裏腹に、デンジというキャラクターが意思をもって動いた瞬間だったのかもしれない。

|脱・製作委員会
それにしても。
こんなヤバい映画を作った会社が気になった。

日本のアニメ制作は、製作委員会方式をとる。
テレビ局、出版社、玩具メーカーなど複数社が出資し、赤字リスクを分散させるシステムだ。
絶対にコケられないビジネス。
これは、鉄則の防御策である。
しかし、チェンソーマンにおいては違う。
製作会社MAPPAの大塚社長は、チェンソーマンのアニメ化に100%単独出資という決断を下している。レゼ篇の制作費は、〜10億円とみられる。
もしコケれば、会社が傾きかねない大博打だ。
なぜ、そんなリスクを負うのか?
話す前に、似た志を持った会社マングローブ(サムライチャンプルー、虐殺器官)の例をお伝えしたい。
クオリティの高いオリジナル作品を作ることで有名だったが、2015年に破産した。
製作委員会こそあったが、原作のない作品に注力。
こだわりで作り続けた結果、製作費とスケジュールの維持が困難になり、資金がショートした。

クリエイティブへのこだわりと、経営のバランスが崩れた例として語られている。
理想と現実のジレンマが起こした悲劇である。
製作会社が100%単独出資は、極めて稀だ。
倒産のリスクがあるので、銀行がお金を貸さない。
それでも、多くのスタジオが自社主導の夢を見る。
なぜならば興行的ヒットが出なければ、製作費という莫大な借金だけが残り、即座にキャッシュフローが死ぬからだ。
それでもMAPPAが賭けに出る理由は、2つある。
現場アニメーターに利益を還元する
予算が委員会に握られている。
アニメーターの給料を上げられない。
給与が上がらない。
そうなると、理想のアニメを作り上げられない。
クオリティも下がる。
MAPPAの狙いは利益を直接確保すること。
拘束料(固定給)を支払い、新人育成や設備投資(CGI部など)に回すサイクルを作ることだった。
アニメチェンソーマンは、新人アニメーターを高待遇で募集したことも話題となった。
ここで雇ったアニメーター達が育った。
レゼ篇を彩るスタッフ。
社長の考え方に、間違いは無かったということだ。

今回の監督である𠮷原達矢氏。
(TVアニメチェンソーマン第4話演出)
1988年生まれ、若手が中心だ。
素晴らしいことだ。
若くて腕の良いクリエイターを集めなければ、業界で生き残れない。
MAPPAは、捨て身の攻めを体現した。
全責任と全権限を、自社で持つ
製作会社は、製作費を貰えば終了。
作品が世界中で何百億円ヒットしても、製作会社には1円も入らないことがザラだ。
100%出資なら、グッズ、配信権、海外ライセンス料がすべて自社に入る。自社音楽レーベルとしてmappa recordsを持っているのもこの為だ。
これにより、自転車操業(次の制作費で今の食い扶持を繋ぐ)から脱却し、内部留保が作れる。
この挑戦は、屍に気づかないふりをして地雷原を走るような狂人に見える。
しかし、それは社長である大塚氏の、確かな確信のもとに成り立っているビジネスモデルであった。
社長就任時、
「生き残る。そして、創り続ける。」
をスローガンに会社と向き合ってきた。
変わり続けて、進化していく。

スクリーンの中で、レゼは自らの首のピンを抜き、肉体を爆破、その爆風で加速して戦う。
「リスクを負って、火力を上げる」
安全圏から石を投げるのではなく、
自ら血を流して最前線に立つその姿勢。
ヒリヒリするような緊張感。
画面の端々から漂う、本気の圧。
MAPPAの覚悟が、観客を圧倒していたのだ。
|漫画表現と映像表現
原作において、レゼの物語は非常にドライだ。
マキマという絶対的な強者の前に、簡単に処理される無慈悲な結末。
その後も支配され、手駒として使い捨てられる。
残酷である。

しかし、今回の劇場版では、処理の瞬間に少しの救いが描かれていたように思う。
任務を放棄、デンジと逃げることを選択するレゼ。
いつもの道を通り、喫茶店へ向かう。
路地裏を駆けるレゼは、恐らく初めてであろう自分の選択をした。
「デンジ君」
という動きに見える口元。
セリフはない。
あくまで、そう見えるだけだ。

細かな表現は、藤本先生が望んでいたマンガでは出来ないコマとコマを埋める表現。
結果として、願いはマキマによって断たれる。
しかし、原作にはない音楽、声、演出によって印象を大きく変えた。
上田さんの演技によって、どうしようもない悲恋の物語へと、さらに高みへ昇華されている。
「デンジ君、ホントはね。私も学校行ったことなかったの」
最期に残した言葉。
嘘が、死の間際に真実の告白となる。
彼女自身を傷つける言葉。
同時に、あなたと同じだよという証明でもある。
兵器では、なくなった。
レゼという少女として、自由意志を取り戻した。

ラストシーン、デンジの後ろすがた。
原作漫画では、花束を持っていない。
映画では、花束を持つ描写がなされている。
レゼの記憶の中のデンジかもしれない。
その姿を、見れたのではないかと想像が膨らむ。
非常に細やかな点まで練られ、再構築されている。
レゼは、自分の愛を選んだ。
魂は、孤独から解放された。
残酷な中にも、選択が残されている。
だからこそ、最期はより一層美しく儚いのだ。
|名作の条件は、賛否両論
「いい評価9割だと、嬉しくない。衝撃を与える作品は、10人が喜ぶべきモノではない。
賛否両論あって、記憶に残る作品になる。」
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||、君たちはどう生きるか。ジョーカー、ミッドサマー、TNET。
演出の方向性で、賛否両論があった。
チェンソーマンのアニメ化もそうだ。
中山竜監督は、苦労しただろうと思う。
しかし、この劇場版を見ればわかる。
否の声すらも燃料にして、制作陣は加速する。
当たり障りのない作品は、消費されて消えていく。
観た人の心に爪痕を残す作品。それは、
いつだって歪で、過激で、賛否が分かれるものだ。

|隣の席は、空いたままで
映画で、心を揺さぶられるとは思わなかった。
ストーリーを知っていても、雰囲気に飲まれた。
冒頭に預言者を装ったが、レゼ篇を観た後、誰かと想いを共有したくなると分かっていたからだ。

間主観性(かんしゅかんせい)という言葉がある。
難しく聞こえるが、
共有することで現実は作られるということだ。
美しい夕日を見る。
それは、私だけの主観的な幻影かもしれない。
隣の人に「綺麗だね」と言う。
相手が「本当にそうだね」と答える。
その時、美しさは客観的な事実になる。
他者と共有することで、世界は確かな現実となる。
私もそれが出来ていたら、嬉しいものだ。
「レゼ篇、良かったよね?」
|おわりに
来るはずのないレゼを待つデンジ。
花束を持ったまま、隣の席は空いたままだ。
もしもの未来を、夢みた。
まだ、夢はつづいている。
自爆覚悟で飛び出した、少女の生きた証。
私は爆発を浴びに、もう一度足を運ぼうと思う。
藤本先生も言っていた。
「何回でも劇場に行けば、レゼは何度でも甦る」

あなたはどうする?
これも、呪いだろうか?
(了)
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