ロズウェルにUFOの破片を探しに行った件(創作大賞2025中間選考通過作品)【短編小説】
創作大賞2025中間選考通過作品(2025年9月17日)
喪失と再生、そして記憶の断片を巡る旅。
モモカは、心を通わせていた女性・サキの突然の帰郷と音信不通により、深い喪失感に苛まれる。サキと共に過ごした記憶、言葉を手掛かりに、モモカはサキがこの世界で生きていける為の“免罪符”を探しにアメリカ・ニューメキシコ州ロズウェルへと向かう。 ロズウェルへの旅は、モモカにとって現実と幻想の境界を彷徨う体験となる。その過程で彼女はサキとの思い出や、戦争と平和について、そして自分自身の存在意義とも向き合うことになる。 やがて辿り着いたロズウェルのUFO墜落現場で、最後に彼女が得たものとは何だったのか。 作者の実体験をベースにしたロードノベル。
Ⅰ 東京
ユナイテッド航空のサンフランシスコ行きは二〇一九年三月二十日の午後四時五十分に成田空港を離陸した。窓側の座席だったので空を眺めることができた。電車の窓から見える景色に高揚していた幼い頃の記憶が蘇ってくる。少し開いた車窓から吹き込む風に飛ばされて、車内を転がり続ける私の小さな麦藁帽子を父親が追う白昼夢を見た。
黒人女性のキャビンアテンダントが、通路を挟んだ席に座る白人の少年が注文したジュースを運んできた。彼女はオレンジ色の液体が入ったプラスティックの容器をテーブルに置き、笑顔で少年に小さな玩具を手渡す。振り返り、私と眼を合わせると人差し指を唇に当てる仕草の後、テーブルに小さなトランプの箱を置いて行った。二十五歳になっても友人達からは、陶器というよりもまるで求肥みたいな肌だ、と揶揄われていたくらいなので、子供と勘違いされたのかもしれない。
機内はアルコールが自由に提供されていたので、別の白人女性のキャビンアテンダントにワインとビールを何度か注文していると、先程の黒人女性がワインのミニボトルを持って来て言った。
「御免なさい、お若く見えたものだから」
彼女はワインをテーブルに置き「トランプは差し上げます」と言って戻っていった。三杯目のワインを食道に通過させる。紫色の液体が胃酸と混じって発熱を始めると、次第に血流の速度が上がり始め、やがて両眼の焦点が合わなくなってくる。
「あのさ、前、西麻布のバーでドッグズ・ノーズを三杯飲まされて瀕死の状態で私の家に来たじゃない、モモカに死なれたら困るよ」
脳裏に聞こえたサキの声に従い、アルコールを切り上げてコーヒーを注文したけれど、その後の記憶がなくなっていた。次に気が付いた時にはテーブルの上に冷めたコーヒーが残されていて、身体には毛布が掛けられていた。
* * *
サキと過ごす週末の夜は、彼女のアパート近くのレンタルビデオ店に行き、お互いが見たい映画を借りてくるという習慣があった。どちらかが疲れていたり、或いは内容が退屈で鑑賞中に寝てしまっても文句は言わない、というルールを決めていた。その夜に彼女が選んだのはアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』で、私はスティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』だった。『ノスタルジア』は私が在学していた美術大学の友人達の間でも有名な作品で、映画好きの同級生にも度々勧められていたので良い機会だと思った。『未知との遭遇』は子供の頃にテレビの映画番組枠で何度か放送されていて、見逃していたので今更ながら触手が動いたのだ。
二人で洗濯したばかりのシーツを柔軟剤の薔薇の香りを撒き散らしながら布団に張り、その上に腹這いになった。枕元に置いたポテトチップスを摘まみながら穏やかに点滅を繰り返すモニターを眺める。時折スナックを噛み砕く音が台詞に覆い被さるけれど字幕なので気にならない。一本目の『ノスタルジア』が終わると、デッキの口から自動的にディスクが吐き出されてきた。サキは枕代わりにした自分の右腕の上に頭を乗せ、彼女の左側に寝そべる私を見つめながら話しかけてくる。
「最後さ、狂人というか老人がさ、温泉が湧いてる結構広いプールみたいな浴場の端から端までを、蠟燭の火を消さないで、灯したまま渡り切れば世界は救われるからって、主人公の男に蝋燭を手渡して、それを託したじゃん。で、映画の最後に男はそれを実行したけどさ、でも肝心の浴場はその日は清掃中でお湯が空っぽだったじゃん。だから、ほら、主人公はさ、服を着たまま普通に歩いて、まあ、途中で風に邪魔されて何回か蠟燭の火が消えたりするけど、最後には端から端まで渡りきったから、一応、成功したっていうことにはなるんだろうけどさ」
映画の前半に、湯が張られている浴場では煙草の火でさえすぐに消えてしまう、という模写があったことを思い出した。私は「お湯が入ってないんだったら何だか片手落ちっていうか、結局世界は救われない、まあ、比喩みたいな感じなのかな」と返事をした。
そうそう、と彼女は身体を回転させ、うつ伏せに寝ている私の下半身に脚を巻き付けた後、首に腕を回して私の右肩に唇を軽く押し当てた。
「ねえ、『未知との遭遇』観ようよ」
サキは逆方向に身体を回転させ私の身体から離れて、腕立て伏せをするように上半身を起こし、這い歩きながらビデオデッキに辿り着くとディスクの交換を手際よく進める。「結局、平和な世界なんて、この先もずっと来ないのかもね」と、再生を始めた画面に映るコロンビア・ピクチャーズのロゴを眺めながら、私の口が勝手に言葉を発していた。
布団の上に戻ったサキは「人類が仲良く平和に暮らす世界なんて、もう、ロズウェルで墜落したUFOの破片を見つけちゃうくらい、可能性は無いってことっす」と言い、パチンコ台の開いたプラスティック製のチューリップの花弁の形に広げた掌の上に顎を乗せて画面を観ている。
映画のエンドロールで主人公を乗せたUFOが銀河の彼方に消えていく。サキは枕元のポテトチップスの袋の中を覗き込み、空になっていることを確認すると袋を丁寧に小さく折り畳み、台所のゴミ箱に捨てに行った。布団に戻った彼女は仰向けになり、両腕を天井に向かって差し出したまま固まっている。私はエンドクレジットを眺めながら、奥歯の窪みに詰まったポテトチップスの残骸を舌先で掘り起こして味わい、口の中に溜まっていた塩味の唾液を絡め取っている。サキは「あ、歯、磨いてない」と言って垂直に伸ばした腕を振り、勢いを付けて起き上がり洗面所に消えた。
* * *
サキは美術大学の同学年で、私は絵画科で彼女は映画学科だった。彼女とは大学で映画撮影の課題の手伝いをしていた絵画科の友人に駆り出された現場で出会った。切れ長の眼と鎖骨のあたりまで伸びたストレートの黒髪が印象的で、眉毛のすぐ上で一直線に切り揃えられた前髪がまるでドイツ軍のヘルメットだと周りに揶揄われていた。線の細い体形はバレリーナを思わせる。撮影の休憩中に彼女と挨拶を交わしてから、好きな映画の話、美術や文学、音楽について話し始めると、遠く離れて暮らす幼馴染と漸く電話回線が繋がった感覚に包まれ、次々と洪水の如く言葉が溢れ出して会話が止まらなくなってしまい、撮影が終わってからも二人でファミリーレストランに移動して、お互いの二十年ほどの短い歴史を深夜まで話し続けた。
彼女は青森の弘前の出身で、元々友人も少なく、中学生までは弘前城の公園のベンチで小説を読んで過ごしていたらしい。高校に進学すると映画に興味を持ち、専ら近所のレンタルビデオ店で端からDVDを借りていったそうだ。上京後は大学に通いながら渋谷のミニシアターでヨーロッパの映画を観たり、下北沢の小劇場で無名の劇団の芝居を鑑賞したり、という生活を送っていた。
サキが課題で制作した映画の打ち上げに参加した夜、終電を逃した実家暮らしの私を彼女が自分のアパートに泊めてくれて以来、週末の夜は一緒に過ごすようになった。「モモカさん」と呼ぶ声も「モモカ」に変わっていった。ある夜に、私は隣で身体を横たえていた彼女の激しい呼吸音で眼を覚ました。
「怖い、怖い」
私はサキの魘されている身体を抱きかかえて上体を起こし「大丈夫、大丈夫」と背骨に沿って掌を上下に動かし彼女を温める。呼吸の波が穏やかになると、彼女は高校二年生の時に入院していたことを話し始めた。時折他の人には見えない、動く影らしきものが見えてしまったり、真夜中に周りから大勢の声や聴いたこともない歌が聞こえてきて、そのまま朝まで眠れなくなってしまうのだった。その他にもテレビで殺人や事故、戦争のニュースを見ると体調が悪くなり、学校を休むことになってしまう。心配した両親が病院に連れて行き、暫くの間投薬治療とカウンセリングを続けたけれど改善せず、入院することになった。退院後、自宅療養を経て復学したものの、一学年留年した影響で上手く友人を作ることも難しくなってしまった。テレビを観なくなった彼女は、借りてきたDVDで頻繁に映画を観るようになった。またある時には布団の上で胡坐をかきながら、中空の一点を見つめながら言った。
「あのね、私、両親が教師で、入学した高校にお父さんが務めてたの。で、私、それが嫌だったからお父さんに他の学校に移って、ってお願いしたんだ。そうしたらお父さん、他の高校に異動してくれて。でもお父さん、私の高校では人気があったみたいで、上手くやってたのよね。でも異動先の高校では難しかったみたいで、いつも不機嫌だった」
悪いことしたなって、いつも思ってる、と腫れて膨らんだ瞼を動かすと、睫毛に溜まった涙が溢れ落ち、眼尻から頬骨の形に沿って筋を作っていく。やがて落ち着きを取り戻した彼女は鏡を見ながら、蝸牛が這った跡みたい、と顔を左右に動かし鈍く光を残した筋跡を部屋の明かりに反射させて少し笑った。
* * *
大学を卒業して、私は企業のホームページやイベント広報用のデータを手掛ける会社に入社してデザインを担当していた。サキは映画の配給会社で広報の部署に配属されていた。今年に入り、抱えていたプロジェクトの納期に追われてサキとは三週間、会うことができなかった。度々連絡を取ってはいたけれど、携帯のスピーカー越しの彼女は元気がなく、元々の小さな声に加えて発する言葉の語尾の音が更に小さくなり、聞き取れなくなることが次第に増えていった。そして二月を過ぎた頃には電話を掛けても繋がらなくなった。私は頭皮から急激に汗が蒸発する感覚を覚え、何かあればすぐにでも駈けつけられるのだから大した問題にはならないだろうと考えていた自分の甘さに腹が立った。
電話番号を控えていた彼女の弘前の実家に連絡を取ると、母親が電話口に出た。サキは体調を崩して弘前に戻っていて、勤務先の会社は回復の様子を見て難しいようであれば退職する方向だということ、それから私から電話があっても取り次がないで欲しい、と言われていると話してくれた。
「何だか、サキみたいな子は、この世界では生き辛いのかもしれないね」
会話の最後に、母親が何かを諦めている様子で呟いた。
* * *
二月末に手掛けていたプロジェクトの納品を済ませると私は会社を辞めた。大学の先輩が起ち上げたベンチャーが軌道に乗り、誘われていたので四月から転職することにしたのだ。しかし何よりもサキを心配していた私は、三月一杯を彼女の為に使おうと考えていた。彼女の部屋へ合鍵を使って入ると、いつも私が訪れる時と何も変わらない、適度に整理整頓された空間が眼の前にあった。小さなテーブルの上に空になったポテトチップスの袋が残されている。普段の彼女であればゴミ箱に捨てる筈なので最後に菓子を食べ、そのまま衝動的に弘前に帰郷してしまったのかもしれない。
私は両親に転職することになったので、暫くの間は何も考えずに休みたいから放っておいて欲しいと頼んだ。この数日は全く何も手に付かず、腕を組み、空間認識機能を抜き取られた掃除ロボットを思わせる動作で部屋の中をぶつかり歩いては、ベッドの上に倒れ込んでしまう。食事と排泄以外は部屋から出ることがなかった。
その夜、仰向けに身体を投げ出していたベッドから、天井の壁紙に染み付いた汚れの輪郭を眼で追っていると、太平洋の向こうの見慣れた大陸の形状に見えてきた。サキが幸せに生きて行ける世界は何処にあるのだろう。彼女がその世界で生きて行ける為の、証明書、免罪符を手に入れたかった。最早冗談じみた方法でも、何でも良かった。三月の二週目の月曜日、私はアメリカ行きの航空券を手配した。
Ⅱ サンフランシスコ
ロズウェルはアメリカのニューメキシコ州南東部に位置している。一九四七年に郊外の農場にUFOが墜落し、破損した機体や宇宙人の遺体が軍に回収されて解剖が行われた、或いは生きたまま基地に連れて行かれた、というこの街に纏わる都市伝説が今も生き続けている。SF映画やドラマの中でこの街の名前が登場することも多い。
いつかの夜、私とサキは通い慣れたファミリーレストランで、もし宇宙人が存在するとしたら、どのように物が見えるのだろうか、という話をした。
「犬ってね、色を認識できなくて、世界がモノクロに見えてるんだってさ」
私は絵画科の友人から聞いた話題を持ち出して、宇宙人には私達よりも多く色を認識できるかもしれないから、モナ・リザもサイケデリックに見えるかもね、と言った。
「彼等、幽霊が見えたりしてね」
サキは形の良い歯を少し見せて笑う。今夜は過去の自分を自虐する余裕を見せていた。
「じゃあさ、空白の恐怖って聞いたことあるかな。絵を描くにしても、日本人は水墨画のように紙の白をそのまま活かして作品と見なすけれど、西洋人はその白い余白が怖くて、わざわざ白い絵の具で塗りたがる、っていう話」
「へえ、宇宙人の空間認識能力って気になるよね。そもそもさ、彼等はどうなのかな、絵とか描くのかな」
「地球の裕福層の人達が宇宙人のアートを買いたい、って言いそうだよね」
「あ、でも、宇宙人には地球のお金なんて、無価値でしょ。紙とか金属とかデータだし。この世にはお金で買えないものもあるって、実感するんじゃないかな」
それでも人類は結局お金の為に戦争を起こしたりするのよね、と私は頬杖をつき、白地に細い薄桃色の縦縞模様が入った店内の壁紙の一点を見詰めたまま呟いた。戦争が始まる理由が何なのか、正直なところ私には理解できていない。大学の図書館で調べたこともあったのだけれど、愚かな人類の歴史を綴る活字の列を眺めていたら、次第に胃酸が泡立ち沸騰していく感覚を覚え、気分が悪くなり本を閉じてしまった。モモカ、少し眼が据ってるよ、というサキの声で視点を切り替える。彼女は小さく笑いながら「ロズウェルにUFOの破片、残ってないかな」と言った。私はドリンクバーで注いだ三杯目のアイスカフェオレを飲み干し、窓に取り付けられたブラインドの隙間から、次々と通り過ぎる車のヘッドライトを眼で追っている。
* * *
サンフランシスコ空港に到着したのは現地時間の午前九時二十分だった。親指と人差し指を擦り合わせてみたけれど、身体に残ったアルコールが悪戯をしているせいで指紋の起伏を鈍く感じる。予想していたよりも寒かったのでダウンジャケットを着て来て正解だった。
空港から市内への交通手段について、手持ちのガイドブックに詳しい情報が掲載されていなかったので“EXIT”と記されている看板を頼りに進むと、メインゲートに辿り着いた。自動ドアを抜けると数台のタクシーが並んでいる。その並びの一台に観光客と思われる数人が荷物を積み込んでいる大きな白いワゴンがあった。私が眼を留めて眺めていると、運転手らしい初老の男が「ヘイ、ユー」と声を掛けてきた。「ユー」の後に続けて何かを言っていたのだけれど、くぐもった声に加えてかなりの早口だったので聞き取ることができなかった。男は突き出た腹を覆う白いティーシャツの上に沢山のポケットが付いたカーキ色のフィッシングベストを着ていただけだったけれど、特段寒そうな様子も見せず、乗客を車の中に誘導している。白髪と口の周りを囲む白い髭、腕にも細い白毛が密集して柔らかく絡みついていた。
「市内まで行くけど乗って行くか」
イエス、と答えると早口で恐らく二十ドルだけれどいいか、という意味と思われる言葉を投げつけられた。二十ドルを財布から抜き出して男に渡すと、二枚の紙幣を使って小さく扇ぐ仕草を見せた後、腰に巻いていたウエストポーチのジッパーを開き、その中に無造作に紙幣を突っ込んだ。私は飛行機の中で予め宿泊先の候補のホテルの名前と住所を三つ、ガイドブックとネットに載っていた記事から選んで記しておいたメモ用紙を取り出した。タクシーの運転手に見せればそこへ連れて行ってくれるだろうし、市内へのバスのチケット売り場で見せれば適切なバスのルートを案内してもらえると思ったのだ。メモを男に見せると「オーケー」と言って三つの候補の一番上に記述してあったホテルを指差し、ここで降ろしてあげるよ、と餌を求める鯉のように唇を動かしながら言った。
他の乗客の会話がスペイン語に聞こえたのでスパニッシュ系の連れ合いだろう。運転手を含め定員十名の座席は後部座席に既に八人が乗車していて満席だった。男は助手席に置いてあった書類や雑誌の束をフロントガラスに向かって放り投げた。その紙の塊はエアバッグの上のあたりで辛うじて居場所を確保している。運転手は「プリーズ」と右の掌で助手席を指した。私がシートベルトを装着すると同時に、座席の下が爆発したかと思わせる大きな振動を起こしてエンジンが始動し、ワゴンは動き出した。
「何処から来たんだ」
「東京です」
アメリカは何回目かと訊かれたので、初めてだと答えると運転手は「サンフランシスコ大学の留学生か」と質問を続けた。自分は学生では無くデザイナーで仕事を辞めてバックパッキングをしていると、英単語を繋げて説明したけれど上手く通じたか分からなかった。彼は何かに感心したように額と眉毛の間を縮める。暫くの沈黙の後「マイネームイズ、マイケル」と男は唐突に口を開いた。私が「マイネームイズ、モモカ」と鸚鵡返しに言葉を返すと、マイケルは頬の筋肉を少し吊り上げて笑った。
巨大な水引きを連想させる曲線を描いたハイウェイを十分ほど走ると、青空に向かって地上から巨大な長細い白い箱が密集して生えている、ビル群の景色が眼の前に開けた。
「サンフランシスコにずっと居るのか」
「いえ、ニューメキシコに向かいます」
「じゃあ、サンタフェか」
返答に困って「アー」と、放送終了後のテレビの自主規制音さながらに、一定の高さを保った間抜けな声を出してしまう。少しの沈黙の後「サンタフェ経由でロズウェルに行きます」と言うと、今度は運転手が「アー」と言いながら眉間に大きな皺を寄せた。それを最後に彼との言葉のキャッチボールは終了となった。
空に向かって垂直に生えているビル群の根元を走り抜ける。子どもの頃に遊んだ空き地の雑草の中を小人になって車で走り抜けたら草花の茎がこんな風景に見えたのかもしれない。やがてガイドブックに掲載されていた写真と同じ町並みが現れた。運転手が「ダウンタウン」と言いながら頭を右座席の私に向かって捩じった。やがてワゴンは煉瓦造りの古い建物の前に停車した。
「着いたよ」
マイケルが車から素早く降りてフロントを小走りに横切り、助手席のドアを開けてくれた。礼を言うと「ああ、ロズウェル、エイリアンか」と、その鯉の形をした口を開いた。UFOの破片を探しに行くんです、と言うとマイケルは「ナイスナイス」と微笑み、握手を求めてきた。手を重ねるとマイケルは静電気が体を駆け抜けたかのような反応を見せ、大きな肩を吊り上げた。私は極度の冷え性で、手首から指先までが冷たくなり、まるで氷に触れている状態になる。サキと手が重なった瞬間に、軽く悲鳴を上げられた記憶が泡となって立ち昇り、小さく破裂した。蝉の声に包まれた真夏のアスファルトの道の上で、彼女は私の左手の甲を自分の頬に当て「何これ、気持ちいい」と言った。彼女の頬から伝わる体温と皮膚から蒸発し続ける微かな霧状の汗、顕微鏡でも使わなければきっと見えないであろう産毛を感じていたけれど、このまま左手を頬に当てた状態で歩き続けるわけにもいかなかったので、私は強引に腕を引き戻した。あの蝉の騒音が脳裏で再生されると、体温が上昇して薄く全身に汗が滲み出してくる。
* * *
ホテルのレセプションには緑色のシャツを着た若者が、テーブルの上に手を突き、両腕をハの字に広げて待ち構えていた。一晩だけの宿泊を申し込む。レセプションの背後には金色のメッキが施されたフックがねじ込まれた木の板が設置されていて、いくつかの鍵がぶら下げられていた。彼は私のパスポートを確認し番号を控えて差し戻した後、振り返ってその中から鍵を取り「二階の三号室」と言って、小さなメモ用紙をカウンターテーブルの上に置いた。私がメモ用紙に名前と住所を記入して差し出すと、彼は中指と人差し指で摘まみ、コンビニエンスストアで出力された必要のないレシートを捨てる感覚で、メモの内容を見ないまま無造作にテーブルの引き出しの中に入れた。それから若者はレセプション裏の控室に姿を消してしまった。
数分の間、彼を待っていたけれど再び現れる気配がなかったので、二階に上がり三号室を探した。細かい傷の付いた木製のドアに二〇三と彫られた金メッキのプレートがあったので、鍵を差し込み時計回りに捩じってみると、何か小さな突起に邪魔されて引っ掛かりを感じる。構わずにそのまま力を込めて捩じり続けると、木槌で軽く机を叩くような硬質な音が響き、ロックが解除された。
暗い部屋の中は、開いたドアから差し込む光が空気中に漂う埃の微粒子に反射して、まるで片栗粉でとろみをつけた中華スープをかき混ぜたときのように空気の流れがゆっくりと動いているのが見えた。ドアを背にして右側にベッド、左側にはテレビを載せているキャビネット、正面に大きな窓がある。窓を開けて、この部屋の空気の粘度を薄めたかった。少しでもいいから空が見えればと正面の窓のカーテンを開くと、数十センチ先に隣の煉瓦造りの建物の壁があった。その手で触れられる距離にある壁面には、全体に青空を模した水色のペンキで塗られた背景と、その上に雑な距離感で配置された、肉饅頭を思わせる白い雲の絵が描かれていた。
* * *
硬く冷たいベッドに身体を横たえると眠ってしまい、気が付いた時には午後五時を過ぎていた。窓の外の水色の壁は既に暗い影を落としていて、大通りの街灯から分けてもらえた微かな光を煉瓦の凹凸が反射している。それはまるで照明が消されたギャラリーに残る、絵の具を分厚く盛られた絵画の粗い表面だった。
少し頭痛がしたので外の空気を吸いたかった。化粧を整えてから外に出てみる。ホテルに面した大通りを左方面に二十分ほど歩けば港がある筈だった。進行方向の遥か先に赤いネオンサインが見えた。眼を凝らすと“LOBSTER”という文字が読めたので、恐らくあのあたりが港なのだ。
フィッシャーマンズワーフと呼ばれている港は、周辺のレストランで夕食を楽しむ家族連れでごった返していた。海沿いには小型の漁船が無数に停泊している。巨人が発する大きな鼾の音が耳に届いたので、その出所へ向かうとアシカの群れが海に浮かぶ木製のデッキの上で寝ていた。時折思い出したように数頭が大きな飛沫を立てて海に落ちる。暫くすると海面に頭を突き出した後、器用に身体を弾ませてデッキに乗り上がり、元の自分達のポジションに戻ると再び寝転がったまま動かなくなる。
海沿いに流れる暖かい風を浴びている。アメリカの漁港もちゃんと生臭いのだ。ハリウッドの映画やドラマで登場する画面越しの無臭の港に慣れてしまっているせいで、この国の匂いまでは想像ができていなかった。日本と比べて空気が乾燥しているので、身体に纏わりつく不快さはない。サキにこの感覚を伝えたかったけれど、きっと彼女だったら「そんなの当たり前じゃない」と軽く笑い流したに違いない。
アシカの動きを見下ろせる桟橋の手摺に身体を預けていると、小型のスーツケースを引きずった男が隣に現れて話し掛けてきた。
「日本人ですか」
男は二十代前半に見えた。眼鏡と水色のティーシャツの上に紺色のダウン、ストレートのジーンズ。ティーシャツの首周りの汗染みが扇形に水色を濃くしていた。私は「うん、そう」と答えた。
「僕、サンフランシスコに初めて来たんです、というかアメリカ自体初めてなんですけど、取り敢えずフィッシャーマンズワーフに行けば何とかなるかなって思ってたんですけど、何だかよく分からなくって、不安っていうか、ちょっと限界になってしまって、思わず、あ、日本人かなって、声を掛けてしまいました、すみません」
彼はまるで、この長台詞は息継ぎなしで言え、と演出家に命じられた舞台俳優だった。私に話した後、空笑いしながら不器用に細かく呼吸を繰り返して肺を酸素で満たしている。頭皮とシャツの襟首の隙間から湯気が立ち昇るのが見えた気がしたけれど、眼鏡のレンズの下半分が白く曇ったり透明になったりを繰り返していたので、実際にその通りに水分が蒸発していたのだろう。
港から少し離れた中華料理店で二人で食事を済ませた。青年はミズサワという名前で、東京の大学の哲学科に通う学生だった。哲学を学んでいる学生は無口で大人しいという先入観を持っていたけれど彼は全く異なり、人懐っこい犬を思わせる仕草で人の前面に回り込み、身体を捻りながら早口で話し掛けてくる。彼も現地で宿泊先を決める予定だったというので、私がチェックインしたホテルに連れて行くと、いくつか空室が残っていたので彼は私の隣の部屋に宿泊することになった。ミズサワは「いやあ、モモカさんに会わなかったら今頃まだフィッシャーマンズワーフをうろついていたと思いますよ」と言いながらスーツケースを隣の四号室に運び入れた。
* * *
部屋でシャワーを浴びた後、ベッドの上で寝転びながら足先で点いているテレビの画面を眺めていると、ノック音がした。
「モモカさん、モモカさん」
ドアの覗き穴の向こうに、魚眼レンズで歪んだミズサワが立っているのが見えた。私は慌ててジャージを脱ぎ、ジーンズとパーカーに着替えた。ドアを開けると、彼は「すみません、ありがとうございます、ビール、買ってきたんですけど如何ですか」と言って部屋の中を覗き込む。私は彼を部屋に入れた。ミズサワは「僕のと同じですね」と首を数回左右に振り、テレビが点いているだけの空間を見回した。普段なら親しくもない男性と部屋で二人きりになるなどということは避けるのだけれど、彼が纏う限りなく無害な雰囲気に流されてしまったのかもしれない。
彼は手にしていた二本の缶ビールを私に手渡すと、部屋の隅にあった木製の椅子をベッドの横に移動させて腰を下ろした。私はベッドの上で胡坐をかいた。二人で腕を伸ばして乾杯をする。ミズサワの目的地はグランドキャニオンで、春休みを利用した一人旅だった。彼は昨年末に失恋したばかりで、さらに交際していた女性が新しい恋人と二人でロンドンへ旅行したことを知ったのだった。
「酷いですよね、散々好きだとか何とか言っといて。人間って分かんないっす。僕、お酒そんなに弱い方じゃないんですけど、なんか今日は酔いますね、やっぱ疲れてんのかな」
唐突に彼はハリウッドのSF映画『コンタクト』の話を持ち出してきた。
「モモカさん、知ってますか。ジョディ・フォスターが出てるやつ。僕ね、あれ、あれ、なんですよ。観測所で宇宙からの電波を拾ってるジョディ・フォスターがグランドキャニオンみたいな断崖絶壁のところで休憩してたりするんですけど」
「確かラストシーンも彼女が崖の端に絨毯を敷いて座りながら星空を眺めて、エンドロールじゃなかったかな」
「そう、そう、ですよ」
彼は私がこの映画を知っていることが嬉しかったのか、亀が甲羅の中から頭を突き出すように赤く染まった顔を近付けてきた。その顔から放出される熱が私の頬のあたりに届いたので、思わず身体を後ろに引いてしまう。
「僕ね、あのシーンを観て、あそこに行かなきゃって思ったんですよ。地球を感じたいって言うんですかね」
「ロンドンで仲良くしてる二人に勝つには地球を相手にするしか無いわね」
「あ、うん、そうっすね、うん、そうなんだと思います。うわ、モモカさん、鋭いっすね、うわあっ」
私が彼の話の内容に興味を持てなかったせいで、二人の会話は時折ぶつ切りになり無音の時間に支配されてしまう。私達は突然即席でペアを組まされて無理矢理舞台に立っている漫才コンビだった。沈黙に耐え切れず私は飛行機の中で貰ったトランプを思い出し、リュックサックの中から持ってきた。カードをシャッフルし、ベッドの上にランダムに配置して神経衰弱を始める。ワンゲームが終わった後「モモカさん、占いとか、やりますか」とミズサワが言った。
「トランプで占いなんてできるの」
「簡単なやつだったらできますよ、ワンオラクルってやつです」
まあ、色んなやり方があるみたいなんですけどね、とミズサワは最初にジョーカーを取り除き、慣れた手付きでカードを混ぜ始めた。彼は部屋の掛け時計を見た。時計の針は既に午前零時を過ぎ、日付を変えていた。
「今日はもう三月二十二日だから、二十二回シャッフルするんです」
彼は二十二回、口に出して数えながらカードの束から中指と親指を使って下半分を摘まみ出し、素早く上に重ねていく動作を繰り返す。じゃあ、この中から好きなカードを一枚選んでください、とカードの束を差し出してきたので一番上の一枚を選んでみた。私はダイヤの2のカードをミズサワに見せた。
「ダイヤの2は一条の光、っていう意味なんですよ」
* * *
サンフランシスコの長距離バスのターミナルで、ミズサワの為にマーセド経由でヨセミテに向かうチケットの発券を手伝った後、ベンチに座りながら互いの長距離バスが整備を終え、乗車場に到着するのを待っていた。抱えたリュックサックの表面に尖った感触を指先が感じたので、昨夜使ったトランプだと分かった。リュックサックの中から、その小さな箱を取り出してミズサワに差し出した。
「私が持っているよりミズサワ君が持っていた方がいいよ」
彼は申し訳なさそうに断ったけれど、最後には礼を言って受け取った。
「じゃあこれと交換しましょう。成田で二百円のガチャガチャで出たんですけど、同じのが二つ出ちゃって」
彼の手からプラスティック製の黄色い星型のキーホルダーを受け取り、ダウンジャケットのポケットに入れた。私はロサンゼルスからアルバカーキ経由でサンタフェへ向かうグレイハウンドを待っている。
Ⅲ グレイハウンド
アルバカーキからサンタフェへ向かうグレイハウンドは半分が空席で、車内の丁度真ん中のあたり、右の列に指定された席があった。隣に客が居なかったので二人掛けのボックス席を独り占めすることができた。通路側の席に荷物を置き、窓際の席に落ち着く。
朝九時の空は雲一つ無い、水色の絵の具で均一に塗られた絵画そのものだった。その下に広がる荒野の上をアスファルトの灰色の太い線が一本、地平線まで真っ直ぐに延びている。その上をバスは轟音を響かせながら走り続けていた。時折フロントガラスに黄緑色のゼリー状の小さな塊が衝突して音を立てる。飛んでいるバッタに似た虫が破裂して内臓をガラスに塗り付けていた。その音が小学生の頃の罰ゲームで手首に人差し指と中指を当ててひっぱたく“シッペ”の音を思い出させて、当時の教室の景色や何人かのクラスメイトの顔が記憶から引き出されてくる。
虫がぶつかる音を立てる度にドライバーは小さく文句を言いながら運転を続けている。度々洗浄液とワイパーでフロントガラスを掃除するけれど、粘液を洗浄するのには十分ではなく、ワイパーが擦る扇型の軌跡に沿って薄く引き伸ばされて、薄緑色の粘液質の筋が残った。
* * *
グレイハウンドは一時間から二時間程度の間隔でルート沿いのレストハウスに停車するスケジュールになっていた。乗客はそこでトイレに行き、飲み物などの買い物をする。乗客の殆どはレストハウスに向かったけれど、私は尿意を感じていなかったのでバスの窓から次々と店の中に消えていく乗客を眺めていた。左側に息遣いと熱を感じて顔を向けると、大男のドライバーの顔が迫っていた。
「ジャパニーズガール」
イエス、と答えると、ドライバーは何か早口で説明を始めた。上手く聞き取れなかったけれど「ヘルプ」という単語が混ざっていたので、何か頼み事があるのだろう。彼に手招きされるままに前列の座席に移動すると、ステッキを手にした小さな老婆が座っていた。背丈が低いので座席に埋もれてしまっていて、その存在に今まで気が付かなかったのだ。
どうやら老婆は脚が悪いので、一緒にレストハウスに付き添って行って欲しい、ということらしい。私は承諾して老婆の左側に立ち、抱きかかえる姿勢で左手で彼女の左手を握り、右手はカーディガン越しに浮かび上がる背骨の、今にも折れそうな細く枯れてしなった竹を連想させるシルエットに掌を当てた。ゆっくりとバスの乗車口の階段を降りる。老婆の地面への最初の一歩は宇宙飛行士が月面に降り立つ白黒映像の如く大袈裟な動作になってしまった。後ろからステッキを持ったドライバーが降りてきて老婆に手渡した。彼女は「サンキュー、サンキュー」と薄くルージュを引いた口元を三日月型にカーブさせながら微笑んだ。
レストハウスに入ると彼女はトイレのサインを指差した。老婆をトイレに連れて行きドアを開けて中へ入るように促した。ドアの前で暫くの間、店内を見回してみる。東京のサキのアパートの近所にあるセブンイレブンと内装が似ていた。週末の夜に二人で映画を観る時は決まってポテトチップスと紙容器のジュースの組み合わせをその店で買っていた。彼女のアパートでは缶やペットボトルの回収が月に二回しか無かったので、できる限り紙容器に入った飲み物を選んでいたことを思い出した。
老婆がコーラを飲みたがったので、私は冷蔵ケースからペットボトルを取り出し、レジでの支払いを手伝った後、バスに戻った。老婆を席に座らせるとドライバーは「サンクス、サンクス」と私の肩甲骨を軽く叩いた。ドライバーは点呼を始め、乗客が全員揃っていることを確認すると、最後に大きな声で「ヘイ、ジャパニーズガール」と私に向かって手招きをした。運転席に向かうと、彼は空席だった一番前のシートを指し「この席は眺めが良いから座るといい、ご褒美だ」と言った。
老婆はそこから一時間ほど走った停留所で下車した。家族と思われる中年の夫婦と二人の子供が彼女を迎えに来ていた。私はタラップを降りる老婆の肘を支えた。後ろにステッキを持ったドライバーが続く。彼女の靴の底が乾いた土埃を巻き上げ無事着地すると、中年の男が大きく腕を拡げ、彼女を包み込むように抱き締めた。子供達は抱き合う二人の周りをくるくると円を描きながら走っている。老婆が中年男の耳元で何かを囁く度に男は何度も頷いていた。
* * *
エンジンの振動音と共にグレイハウンドは再び灰色の線上に戻った。目の前では相変わらず小さな虫とワイパーの攻防が続いていたけれど、午後五時を過ぎたあたりから水色からコバルトブルーへと空の色が変化を始め、やがてフロントガラスに貼り付くのは薄緑色の粘液に代わり白い雪に変わった。次第に視界を覆う雪の量が増えていき、ワイパーの速度が追い付いていないように見える。暫くするとワイパーは電池が切れそうなオモチャに似て動きが鈍くなり、動きを止めてしまった。視界はまるで前方の暗闇から悪戯好きな巨人に大量の粉チーズを振り掛け続けられている状態だった。ドライバーは頭部を前方に突き出し、必死に眼を凝らしながら運転を続けた。
やがてドライバーは小さなガソリンスタンドの看板を見つけ、店の一番端の駐車スペースにグレイハウンドの巨体を止めた。彼は大きな鼻を拡げて一度深呼吸をした後、無線を使い通信を始めた。ワイパーが故障したので修理を手配しているようだった。彼は両方の掌を私に向けて「ノー、プロブレム」と右の口角を捩じって笑い、そして後部の座席に座る乗客に向かい説明を始めた。
* * *
サンタフェには午後七時に到着の予定だったけれど、おそらく数時間は遅れるかもしれない。予めモーテルの位置を確認しておいた方が良さそうだったので、ガイドブックを探してリュックサックの中をかき回していると、後ろから日本語が聞こえた。
「こんにちは、日本人ですか」
驚いて振り返ると、浅黒い肌の青年が立っていた。彼は「日本語、少し話せます」と言い、真後ろの空いている二人掛けのボックス席に座った。手招きされたので私も後ろの座席に移動した。
「僕は、フェルナンドです。イースト・ティモールから来ました」
少し唇からはみ出した大きな前歯、軽く巻き上げた黒髪の青年は、ファー付きのグリーンのダウンジャケットを着ていた。私は自分の名前と東京から来たこと、これからサンタフェに向かうことを告げた。職業を訊かれたのでデザイナーだと教えたけれど、もしかしたらアメリカでこの一連の質問にあと何回か答えなければならないとしたら、決まった台詞を用意しておいた方が便利かもしれない。
「私、ティモールって聞いたことがある」
「近いのはインドネシアかな。僕が子供の頃には戦争があったりして、大変だった国」
フェルナンドは二十二歳から二十四歳までの二年間、東京の八王子の工場で働いていた。日本語はその滞在中に覚えたという。彼の家庭は代々、三十歳あたりまで外国に出稼ぎに行くのが習わしとなっていて、四月からは兄が勤める工場で一緒に働くことが決まっていた。今はその兄が住むフィラデルフィアへ向かっている途中なのだ。
モモカは優しいね、とフェルナンドが言ったので理由を聞くと、老婆とのやり取りをずっと見ていたらしい。彼は少し突き出た前歯を見せて微笑みながら、リュックサックの中から透明なプラスティック製の保存パックを取り出し「お腹、空かないか」と言って蓋を開けた。中には衣をつけて揚げた肉の塊が詰めてあった。鶏肉だろうか、口に入れたらきっと嚏が止まらなくなるに違いないと思わせるほどの胡椒の香りがゆっくりとバス中に拡散していく。その微粒子を吸っただけで身体中の毛穴が開いて水分が蒸発し始めたように感じた。他の乗客の反応が気になって振り返ってみたけれど、皆ガソリンスタンドに併設されている小さなカフェに移動していたので安心した。
「僕が作ったんだ。良かったら一緒に食べないか」
彼は親指と人差し指と中指の三本をパックの中に突っ込み、衣の塊を摘まんで口の中に放り込む。私は、頭では無いと理解していたけれど、箸やフォークを探して眼を泳がせてしまった。手でいいよ、とフェルナンドは保存パックを私の前に差し出した。彼の真似をして塊をひとつ摘まみ口に入れる。案の定、想像していた通り拡張した毛穴から蒸気が立ち、水分が皮膚の表面を冷やし始めた。しかしながら辛さだけではなく甘さも含まれていて、東京のコンビニで買っていた辛味のチキンを思い出す。地球の反対側まで来て東京のコンビニの味と比較してしまうあたり、自分が異邦人であることを舌と身体で思い知らされた気がした。私は最後に油で光る指をジーンズで拭いて食事を終えた。携帯用のアルコールティッシュを持ってくれば良かったと後悔した。
フェルナンドはパスケースから一枚の写真を取り出して見せてくれた。白い花冠、白いワンピースを着た黒髪の美しい女性。
「フィアンセ。僕が生まれたイースト・ティモールはね、いつまた戦争が始まってもおかしくないって父親から聞かされていてね。だからもし僕がアメリカで生活できるようになったら、彼女をこっちに呼ぶつもりなんだ。やっぱり不安だからね」
彼が巻き込まれたのは恐らく「東ティモール紛争」だろう。以前、大学の図書館で戦争の原因を探ろうと近代史について調べていたときに読んだ記事を思い出した。私の腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。自分の人生の中で意識の隅にぼんやりと存在していた“戦争”が突然、隣にその姿を表したのだ。子供の頃、テレビ画面に映し出されたニューヨークの同時多発テロで、ツインタワーが崩れ落ちる光景を見てもハリウッドのアクション映画のワンシーンにしか見えず、現実感が全くなかったのだ。それどころか、爆発ってあんな感じなんだね、と地球を訪れた別の惑星の住人を思わせる態度で、全くの他人事として呆けながら両親に呟いたことを思い出した。私と同世代のフェルナンドは同じ頃、爆発音と銃弾が飛び交う中を家族と一緒に逃げ回っていたのだろう。
私は鼻から大きくゆっくりと空気を吸い、口から吐き出すという運動を繰り返して舌に残った辛さを和らげながら、フロントガラスの全面を厚く覆った白い雪を見つめていた。
Ⅳ サンタフェ
ワイパーの修理を終えたグレイハウンドがサンタフェに到着した時刻は午後十一時を過ぎていた。この場所でバスを降りた乗客は私一人だった。グレイハウンドの二つの赤いテールランプが暗闇に吸い込まれながら、ゆっくりと消えて行く。道路には街灯が無く、照明が消された小さなバスターミナルで唯一点灯している屋根付きベンチの蛍光灯だけが光を発していた。
予定では午後八時頃までにサンタフェ市街に出てホテルやモーテルを探す筈だったけれど、大雪でワイパーが故障するというアクシデントに見舞われ、更にこの暗転した舞台に一人取り残された状態では手も足も出なかった。
少し眼が慣れてくると、遠くに微かな光源を見つけた。モーテルの看板かもしれないと思った。ダウンジャケットの右ポケットに手を入れると硬い物に触れた。ミズサワから貰った星型のキーホルダーだった。真ん中にボタンが付いていたので押してみると、ゆっくりと全体が光り始める。リュックサックから水が半分残ったペットボトルを取り出し、近付けると光量が増幅されてちょっとした懐中電灯代わりになった。足元を照らしながらゆっくりと歩を進める。自分がホラー映画のオープニングで襲われて殺されてしまう脇役になった気がして、一刻も早くメインの登場人物達と合流しなければと、呼吸が粗く雑になっていくのを感じた。
* * *
光源はモーテルではなく、キンコーズという二十四時間営業のコピーやパソコンを使って作業ができるワーキングスペースを備えた店の看板だった。所謂ビジネスコンビニと称されて、東京でも見かけたことがあった。ドアを開けると、受付カウンターの金髪の中年女性と眼が合う。彼女は微笑みながら「ウエルカム」と小さな声で言った。
「コピーかしら、ワーキングスペースを使いたいのかしら」
「いいえ、グレイハウンドがアクシデントで遅れて、この時間にサンタフェに着いたんです。これから宿泊できる処を探さなければならないのですが、この近くでモーテルはありませんか」
ちょっと待ってて、と彼女は店の隅にあるドリンクマシンに行き、紙のコップにコーヒーを注いで手渡してくれた。店の窓ガラスに映った自分の顔の片方の鼻の穴から透明な液体が伸びて光を反射していたので、慌てて袖口で拭う。外は寒かったでしょ、サンタフェは寒いわよね、と彼女は小さな声で囁きながら店内を見回した。ワーキングスペースにはパソコンが十台ほど並んでいて、テンガロンハットの男と初老の女性の二人がそれぞれモニターに向かって作業をしている。
デニス、と彼女は男に向かって呼び掛けた。テンガロンハットの若い男が「ハロー」と言いながらゆっくりカウンターに近づいてきた。デニスと呼ばれた男が受付の女性と何か話を始めたけれど、会話のスピードが速くて聞き取ることができない。受付の女性の胸にネームプレートが留められている。ヴィクトリアという名前なのだ。彼女はカウンターの引き出しから小さなメモ用紙を取り出しデニスに渡した。彼はその紙にペンを走らせる。紙には“HERE”と描かれた丸印、店の前の大通りと、二つのポイントの星印が配置された簡単な地図が記されていた。
「このあたりには二つのモーテルがあるんだけど、一つ目の近い方は良いモーテルで結構綺麗だけど値段が高い。もう一つの遠い方はチープだけど値段は安い。方向は一緒だけど近い方のモーテルでも歩いて十分ほどかかるけど、大丈夫かい」
「大丈夫です、行ってみます、サンキュー」
私はデニスに握手を求めた。アメリカに来て以来、自分から握手を求めたのは初めてだった。ヴィクトリアにコーヒーのお礼を言った後、店を出て地図に従って大通りを左手に進んでみた。下車したグレイハウンドのターミナルの前を通り過ぎる。歩道の左端の所々に雪が溜まっていた。今日の昼間はこの街にも雪が降っていたらしい。道が凍っている箇所が続いている。日中は陽が当たらない場所なのだ。転んでしまわないようにゆっくりと大きく足を広げ、踵の着地点を選んで進んでいるので、都市を破壊しながら進む大怪獣になった気分だった。怪獣だって足元の住宅や電信柱を踏んだら痛いだろう。足の裏が余程硬い設定なのか、そういった模写のある作品は観たことがないと思った。地下鉄の駅の周辺だったら陥没して落とし穴になり、もしかしたら怪獣を捕獲する罠として使えるかもしれない。
* * *
時間は既に零時を過ぎていた。二十分近く歩いたと思うけれど、モーテルらしき建物は見つからなかった。やがて周りの空気が白く変化して私の身体を包み始めたので、霧が発生しているのだと分かる。今度は暗転した舞台に誤って大量のスモークが焚かれたようで、舞台袖のスタッフに両腕を広げて抗議したくなった。やがてキーホルダーとペットボトルの明かりが霧に反射して進行方向の視界が白一色に覆われてしまった。このままでは方向感覚がなくなり前に進むこともできなくなってしまう。最早キンコーズで店員のヴィクトリアにタクシーの手配を頼むしか手段が思い付かなかった。私は店に引き返すことにした。
結局店に戻れたのは午前一時近くになっていた。店内にデニスの姿は無い。ヴィクトリアが両目を丸くして私を見て、両手を大きく広げて「ワッツハプン」と言った。大きく見開かれたその青い瞳がビー玉に見えて、今にも転げ落ちそうだった。霧が濃くなってモーテルまで進めないのでタクシーを呼んでもらえないかと彼女に伝えていると、背後から女性の声がした。
「ジャパニーズガール」
振り向いてイエス、と答えると赤をベースに黄色や緑色の装飾を編み込んだ、中南米の民族衣装を連想させるセーターが眼に飛び込んできた。恐らく年齢は五十歳前後と思われる金髪の細身の女性が立っていて、手足はまるでセーターから木の枝が生えているように見えた。
「今夜宿泊するところを探しているのかしら」
再びイエス、と答えると彼女は笑顔を作って言った。
「じゃあ、今夜は私の家に泊まりなさい。私はポーラ。“ただ”のポーラ」
彼女の車の助手席に座ると、運転席との間から薄茶色の犬の頭部が現れた。後部座席で主人の帰りをずっと待っていたのだ。グレイハウンドよ、と彼女が教えてくれた。
「私はモモカです。ええと、ミス、いや、ミセス、ポーラ」
「ああ、“ただ”のポーラよ。ミスでもミセスでもない。何て言うか、私は一人の人間だもの。でも、混乱するかもしれないわね。ミスでいいわ」
車を走らせながら彼女は続けて言った。
「何処へ行く予定なの」
「ロズウェルです」
「ああ、ええと、あの街はエイリアンで観光地化されているだけで何もないわよ。それよりもメンフィスのエルヴィスの家をお勧めするわ」
ロズウェルに向かう理由は訊かれなかったけれど、何かを見つけなければならない、という想い以外は何も無かったのだ。何れにせよ詳しく説明する英語力を持ち合わせていなかった。
「私の家に泊まるのにいくつかお願いがあるんだけれど、いいかしら」
ミス・ポーラはハンドルを捌きながら、この犬の名前がマギーということ、もう一頭同じ種類の黒い色の犬を飼っており、その犬の名前がチョコレートということ、何日宿泊しても構わないけれど、毎日必ず二頭の散歩をしてあげて欲しいと言った。それからエネルギー代として一日十ドル貰ってもいいかしら、と申し訳なさそうに伝えてきたので、私は「ノー、プロブレム」と大袈裟に微笑みながら言った。
* * *
ミス・ポーラの家の赤いドアを開けると、おそらく三十畳ほどはあると思われるリビングが広がっていた。二階が無い分、天井の高い吹き抜けの空間になっている。黒い大きな犬が尻尾を振りながら小走りに近づいてきた。彼女は黒い犬にキスをして、私達二人の間で待機していたマギーの手と足を、玄関の隅に置いてある水の入った洗面器の中に沈んでいたタオルを取り出し、絞ってから拭いた。二頭の犬はじゃれ合いながらリビングの奥から二番目の開いているドアの部屋に消えていった。あなたも靴を脱いでね、といくつかの靴が並べられている小さなカーペットを指差した。生木を使用したフローリングの為、靴のまま歩くと床を傷つけてしまうのだろう。漆喰で塗られた白い壁に触れると、微細な束ねられた針のブラシで擦られた刺激を指先に感じた。
リビングには横壁に沿って四つのドアがあった。リビング奥のキッチンには飲水用のウォーターサーバーが鎮座している。ミス・ポーラが各ドアを開けて説明を始めた。一番奥のドアを開けるとトイレとバスルーム、奥から二番目は彼女と犬たちの寝室だった。三番目のドアは、そこは開けないでね、と彼女は人差し指を立てながら言った。
最後に玄関に一番近いドアを開くと、赤いカーペットが一面に敷かれた部屋だった。音楽室だというその空間には、アップライトのピアノが置かれていた。他には様々なパーカッション類が雑多に置かれた棚、一方の壁にアコースティックギターが二本飾られている。もう一方の壁一面にアナログ盤のレコードが隙間なく収納されている大きな棚があった。数百枚、もしかしたら千枚を超えているかもしれない。その棚の足元には大量のCDが乱雑に積まれて小さな山を形成していた。
「私、ミドルスクールの音楽教師でね。さっきは、キンコーズで生徒に配る課題を作っていたのよ」
ピアノの天板や椅子の上にそれぞれ数枚のCDが積まれていて、その中の一枚に眼が留まった。クリムトの絵画をモチーフにイラストを描いたと想起させる、赤いジャケットデザイン。「それはマルーン5のファーストアルバムね」と彼女はそのプラスティックケースを手に取る。昔サキが貸してくれた十数枚のCDの中の一枚だった。ミス・ポーラは首を左右に振りながらそのアルバムに収録されている『サンデー・モーニング』のメロディーを歌い始め、そのまま小さく踊りながらリビングに捌けていった。
暫くの間、棚に並んだレコードのタイトルを眺めていると、あなたにはこの部屋に泊まってもらうからベッドを作らなくちゃね、とミス・ポーラが戻ってきて言った。リビングの隅にあったリクライニングソファを二人で音楽室に運び込む。彼女はソファを持ち上げる前に、両手に唾を吐くジェスチャーをした。テレビの再放送で観た昭和のドラマに登場する中年の男以外に、現実にそんなことをする人を見たのは初めてだった。音楽室の中央にソファを配置して背凭れの部分を倒し、シーツと掛け布団をセットすると簡易的なベッドになった。
* * *
ミス・ポーラの家に宿泊してから三日が経った。朝七時に彼女が学校に出かけるので、それに合わせ六時に起床する。洗顔、歯磨き、犬に朝食を与え、彼女を見送ってからリビングのソファでテレビを観たり、本を読んだりして午前中を過ごす。この三日間の朝食と昼食はミス・ポーラが用意してくれたキッチンにストックしてあるシリアルで済ませていた。
午後はチョコレートとマギーを連れて散歩に行く。犬の世話は姉夫婦がチワワを飼っていたので、何度か経験した程度だったけれど、二頭とも初日から私に懐いてくれた。日本語で注意したり命令しても通じたので何だか不思議に思える。首の下からマッサージを始め、私を無害な対象だと認めてくれると仰向けになり無防備に腹を向けた。私が両手の指を鉤爪に立て、優しく腹を掻いてやると眼を閉じたまま、口の中で泡が沸き上がる音を出して喜びの声を上げた。チョコレートにマッサージをすると、マギーは横で大人しく順番を待っている。マギーのマッサージを始めると、チョコレートは全然足りないとばかりに舌を垂らし、早い呼吸で訴えながら私の座るソファの周りを尻尾を振りながら回り始めるのだった。
二頭を満足させると、リードを結んで近所を散歩する。サンタフェの日差しは強いからと、彼女が貸してくれたテンガロンハットを被って家を出る。ミス・ポーラの家は外壁を赤茶色の土壁で覆われていて、所謂サンタフェ・スタイルと呼ばれるものだった。建物の角が丸く施工されていて、まるで東京ディズニーランドのウエスタンランドのセットに見える。建物の周りには荒野と家に面した道路以外は何も無い、と言うよりも隣の家までの距離が三十メートル以上は離れているので、そう感じてしまうのだろう。
散歩のコースは決まっているらしく、勝手にチョコレートとマギーが先導して歩いてくれるので逆に私が散歩に連れ出されている気分になった。この三日間で近隣住民に会ったのは一度だけだった。二人の子供を連れた夫婦で、すれ違う直前に四人からハロー、と言われたので慌てて「ハロー、ハロー、ハロー、ハロー」と返事を四回繰り返してしまい、彼らに笑われてしまった。時折吹く柔らかな乾燥した風に包まれる。グレイハウンドのトラブルがなければミス・ポーラに出会うことも、ここで二頭の犬を連れて散歩をすることもなかったのだ。少し冷たい空気を思いきり吸い込み、味わい、ゆっくりと吐いた。空気が少し甘い味がしたのは、道端の所々に咲いている小さな白い花のせいかもしれない。
* * *
夕方近くなるとミス・ポーラが帰宅して私達の夕食を作る。毎日同じスープとパンだけの食事だった。スープは鶏出汁で野菜を煮込んだだけのシンプルなもので、痩せ過ぎとも感じる彼女の体型の理由が分かった気がした。お陰で私の体重も二、三キロは減ったかもしれない。以前より身体が軽くなった気がしていた。その夜、リビングのソファで懸命に英字の本を読んでいるとコーヒーカップを二つ持ったミス・ポーラが隣に座った。足もとで伏していたマギーが少し反応して彼女の方を向いたけれど、また頭を元の位置に戻して動かなくなった。
「話しておかなければならないことがあるのだけれど」
イエス、と答えると彼女は何処から話せば良いのか考えている様子で天井を少しの間見つめ、やがて話を始めた。
「私、二年前まで結婚していたのよ。三年間続いたかな。で、彼ね、バイオレントなところがあって、上手く行かなくなって。そこの部屋は彼の寝室だったの。今は物置に使っているわ」
彼女は開けていなかったドアを指差した後、言葉に合わせて両手を空中で上下左右に動かしながら話を続けた。
「彼、今でもたまにこの家に現れて、色々物色して、壊していくのよ。この前は泊まっていた私の女友達と言い争いになってね、警察を呼んだり、大変だったのよ」
私は彼女の動作に合わせて相槌を打つことしかできなかった。
「でね、もし、私が留守の間に彼が現れたら、日本から来たホームステイナーだと言って。モモカは学生に見えるから、きっと暴力を振るわれることはないわ。彼、口の周りに髭を生やしているからね」
私は「オーケー、オーケー、ノー、プロブレム」と言って笑顔を作ったけれど、血の流れが速くなって顔の色が赤く染まっていくのを感じた。彼女はそんな私の様子を見て「コーヒーを飲んで」と少し笑った。
「もう、結婚とか、男とか、女とかどうでもいいわ、私は“ただ”のポーラ。オンリー・ポーラ。今はね、もう“周波数”の合う人としか付き合わないと決めたの。それから誰でも泊めるわけじゃないのよ。あなたは波長が似てるかな、と思って。緑色のオーラが出てたのよ。ああ、マギーもチョコレートも彼のことが嫌いだから、よく吠えるのよ。二頭とも、あなたをガードしてくれるわ」
緑色のオーラがどういった意味を持つのか分からなかったけれど、もしこの赤茶色の家や柔らかな漆喰のリビングの景色を描いた絵画があって、そこに緑色の服を着た人物を配置したらきっと馴染むのかもしれないとも思った。
* * *
四日目の朝、ミス・ポーラが家を出てから二頭と戯れていると玄関のチャイムが鳴った。インターフォンのモニターには口髭の白人男性が映っていたので、私は「ハロー、アイムホームステイナー、シーイズ、ノット、ヒア」と答えてみる。通じたかどうか分からなかったけれど、スピーカーから「オーケー」と低い声が出て、最後に男の大きな背中が去っていく映像を残して画面は消えた。勢い良く血液が流れ始め、大きくなった心臓の鼓動が耳の鼓膜を震わせた。広がった毛穴から水分が蒸発し続けていく感覚があった。その日は犬の散歩を諦めて一日をリビングで過ごした。昼食のシリアルが入った皿を持つ手が震えている。ソファからはほとんど動けなくなった自分が、周りを天敵に囲まれていて何もできない小動物にでもなった気がした。
ミス・ポーラが帰宅して録画されていた映像を確認すると、ジョンだ、と言った。ジョンとは彼女の元夫の名前だった。
「モモカ、申し訳ないけれど、明日は市内の美術館にでも行って、一日外に出かけていて。マギーとチョコレートは食事を用意しておくから大丈夫」
* * *
翌日は午前中、郊外にあるミス・ポーラの家の近くからバスに乗り、サンタフェ市内のジョージア・オキーフ美術館で過ごすことにした。本来の予定ではこの観光地で二日間ほど過ごしてからロズウェルに向かう予定だったのだ。昨日の一件がまだ尾を引いていて、心臓の鼓動がいつもより速い。喉が渇いたので適当な店を探していると、珍しく自動販売機を見つけた。アルコールを摂りたかったのでビールと表記してある茶色い缶を選んだ。プルトップを開けて喉に流し込むと、砂糖の飴を溶かした味の液体が喉と口の中に広がり、咽て咳き込んでしまう。缶にはアルコール成分が表記されていなかったので、日本で言うところのビールではないらしい。
観光客向けのアクセサリーショップが十数件並ぶ通りを見て回っているうちに夕方になってしまった。今バスに乗って帰れば丁度ミス・ポーラも帰宅する時間だろうと思った。
ドアを開けるとリビングには書類が散乱していた。ミス・ポーラは眉間に皺を寄せながら電話で誰かと話している。嘆きながらオーマイゴッド、と言っていたのは分かったけれど、その他の言葉は速くて聞き取ることができなかった。リビングにはマギーが居た。マギー、と声を掛けると尻尾を揺らしながら寄って来たので両手で鼻から耳の後ろまでを繰り返し摩る。彼女は電話を終えると険しい表情を固めたままで言った。
「チョコレートが攫われたわ。助けに行かないと」
恐らく物色中にチョコレートに吠えられた腹癒せか、ジョンが連れ去ったらしい。
「彼、何をするか分からないから、ええと」
彼女は手にメモ紙を持っていた。街の名前が書いてあったので、そこに呼び出されているようだった。
「今日はもうこれからだと、夜は危険な場所だから、明日の早朝に行くわ」
「私も一緒に行きます。ミス・ポーラ、一人だと危ないし、心配だから」
彼女は一瞬迷った表情を浮かべた後、小刻みに頷きながらサンキュー、サンキューと言った。その夜は二人とも眠れなかったので、リビングのソファで夜が明けるのを待っていた。テレビが何かを映し続けていたけれど、画面の方向に眼を向けていただけで二人とも何も観てはいなかった。まるで腕組みをしながら一点を見つめている二体の彫刻作品がそこにあった。
* * *
天井近くに設置されている小窓が、黒から薄青い色に明るく変化したことに気が付くと、二人で準備を始めた。彼女は工具箱から小さなハンマーやバールなどをリュックサックに入れていた。武器になりそうな物を選んだのかもしれない。さらに音楽室で積まれている打楽器の奥から小さな黒い金属製の箱を持って来た。箱を開けると革のホルダーに収められた小さな銃が入っている。彼女は何かを小声で呟きながら薬室内に弾を装填し、ホルダーに戻してからリュックサックに入れた。それを眺めていた私は意外にも冷静になっている自分を発見していた。ソファで固まっていた時間に、サキと連絡が取れない今となっては、もしここで死ぬことになっても泣くのは両親と姉だけだと思えたのと、実際のところ自分がこの世から消えてもきっと誰も困らないのだと、腹を括ってしまったせいかもしれなかった。しかしそれよりも強いエネルギーで恐怖や他の思いを押しのけていたのは、いつも私とサキが観ていたハリウッド映画に登場する、所謂“アメリカ”に来たのだ、という高揚感が私を浸食していた為かもしれない。サキが今、ここに一緒に居たら一体どんな反応をしただろうか。
* * *
二人を乗せた車は市内とは反対方向の、郊外にある街に着いた。ミス・ポーラによると三十年ほど前にこの近くの大きな工場が倒産して閉鎖され、同時にほとんどの住民が転居してゴーストタウンになってしまったらしい。シャッターが下りた店だけが並んでいるメインストリートを進む。風が吹くと、その度に目の前が薄いオーカー色のフィルターで覆われる。時折大きな砂の粒が巻き上げられ、頬に纏わりつく。風は下手な口笛が奏でる調子の外れた音を出していた。
街の中心部なのか、円形の枯れた噴水がある。中心に剣とライフル銃を持った銅像が建っていた。この街の英雄的な人物だったのかもしれない。微かに犬の吠える声が聞こえた気がした。毛布を何重にも重ねて衝撃を吸収された声の塊。チョコレートの声だと思った。
その小さな声を拾って進むと、かつて雑貨屋だった店の前に辿り着いた。雑誌だったと思われる皺だらけの紙の束がショーウィンドウに並んでいる。ドアを開けると床にコーラの空き瓶が散乱していた。数本の瓶が粉々に割れている。その破片が表通りから入ってくる陽の光を反射して、スパンコールの生地が敷いてあるように見えた。
レジの脇を抜けると左手に階段がある。二階が住居になっていると思われた。階段を無視してそのまま奥に進むと、埃色の目地の粗いカバーが張られているソファと、小さな四角いテーブルがある控室が現れた。その部屋の一角に真新しい木製の箱がある。幅は両腕を広げた程度の長さ、高さは自分の膝くらいの大きさだった。杉の香りが鼻の奥を擽るので、新しい物だと分かった。何本もの細長い木片を釘で雑に打ち付けて拵えただけの作りだったけれど、中型犬を閉じ込めておくには充分な強度だった。
ミス・ポーラは背負っていたリュックサックを下ろし、紐を緩めバールを取り出した。彼女は木片と木片の継ぎ目にバールの先を押し込み、梃子の要領で隙間を拡げる。私はその大きく開いた隙間に指をねじ込み、板を引き剥がしていく。木片が剥がれる度に昔観たホラー映画のゾンビが喉の奥から絞り出す笑い声を連想させる音が耳障りで、右頬の筋肉を歪ませた。それでも板が外れる度に大きくなるチョコレートの吠える声が、そんな感覚を消していく。
木箱の上部の木片を全て外すと、チョコレートが生まれたばかりの小鹿を思わせる不安定な状態から頼りなく立ち上る。周りを見渡し、匂いを嗅ぎ、呼吸を短く荒くして状況を把握しているようだった。やがて勢いよく木箱の残骸から飛び上がり、ミス・ポーラに抱きついて彼女の唇の周りを舐め回した。勢いが良すぎてミス・ポーラが後ろに倒れて尻餅を搗いてしまう。チョコレートは構わず彼女に馬乗りになって頬のあたりを舐め回し続ける。
もし今、ジョンが戻ってきた場合、彼と争わなければならない状況になるかもしれないと考えた途端、背骨の下から上に向かって小さな虫の集団が這い上がってくる感覚を覚えた。私は腕時計を指さして、ミス・ポーラに急ぐようにジェスチャーで示した。彼女もジョンが戻ってきた場面が想像できたのか、グッドボーイ、グッドボーイと犬の頭から首に向かって優しく毛並に沿って両手で数回撫でると、リュックサックから新しいリードを取り出して首輪を取り付ける。その間も私の身体はエンジンが掛かったまま放置された車のように小刻みに震え続け、心臓の鼓動は加速を続けていた。
店を出て大通りを車に戻る。途中、ジョンに銃で狙われているかもしれないと思うと、腕と脚の筋肉が緊張で樫の木の棒にでもなってしまった感覚を覚えた。脇の下から汗が湧いてきて脇腹を通過し、腰のベルトのあたりに溜まって行く。腕と脚の付け根に硬化剤を注射されたらきっとこんな感じなのだろう、上手く歩くことができない。それでも手足を強引に前後に速く動かして前に進む。傍から見たらきっと間の抜けた人形劇に見えたに違いない。
噴水の前を通り、車に辿り着いた。ジョンはこの場所には居ないようだった。ミス・ポーラがエンジンをかけようと鍵を差し込もうとする。私は荒野の町で車が爆発する映画のワンシーンを思い出して「爆弾が仕掛けられているかもしれない」と心配そうな表情を作り上げて彼女に訴えた。彼女は軽い笑いを浮かべて、あの馬鹿にそんな芸当ができる訳がないわ、と言って構わず鍵を差し込んだ。エンジンが全員の帰りを喜ぶように大地を震動させて雄叫びを上げる。チョコレートが運転席と助手席の間に頭を突き出してきたので、その下顎から喉のあたりを左手の指で優しく掻いた。犬は目を閉じて私の指の動きを楽しんでいる。
ミス・ポーラの家に着き、赤色のドアを開ける。薄茶色の犬が尻尾を回転させながら玄関で待っていた。チョコレートはマギーの横をすり抜け、広いリビングを一周した。マギーも後に続く。二頭は並びながらさらにリビングを三周ほど歩いて、やがて彼らのそれぞれの定位置に落ち着いた。
戸締りを確認した後、ミス・ポーラがインスタントのコーヒーを入れてくれた。頭の中では彼女に話しかけたい事柄が散らかっていたのだけれど、言語に変換することができず、結局笑顔を送るだけになってしまった。彼女もそんな私の顔をみて軽く笑った後、小さく首を左右に振りながら何かを囁いた。アメリカの映画やドラマで何かを諦めたり否定したりする時に行う、この動作を実際に見たのは初めてかもしれない。独り言の最後の方は、関係無い人には聞こえてもいいわ、と言ったようにも聞こえた。
* * *
翌朝、サンタフェのバスターミナルへ向かう車にはチョコレートとマギーも同乗することになった。彼らにも恐らく私がもうこの家に帰って来ないことが分かっていたのだと思う。リュックサックの中を整理している私の手の甲を、二頭の犬が代わる代わる舐めていく。ミス・ポーラは、あなたを降ろしてからの帰り道が寂しくなるから連れて行くわ、と二頭を車の後部座席へ促した。
バスターミナルが近づく。あの夜に私が辿り着けなかった二件のモーテルの前を通り過ぎた。暗闇の中で気が付かなかったけれど、道路沿いには小さなカフェがいくつか点在していたのだ。
ターミナルの駐車場に着き、車を降り彼女に感謝を伝えると、右手を差し伸べてきたので握手を交わした。後部座席の二頭には長い瞬きで感謝をアイコンタクトで伝える。バイバイ、と彼らの速い息遣いがその音に聞こえたので、私は頬の筋肉を緩ませた。手を振りながら車を離れると「ウェイウェイウェイ」とミス・ポーラの声が後ろから聞こえたので引き返した。運転席の窓から伸びた彼女の手から、折り畳まれたテンガロンハットと小さなメモを渡された。紙には住所と電話番号が書いてある。私はダウンジャケットのポケットに入っていた星形のキーホルダーに気が付き、お礼としては釣り合わない物だったけれど彼女に手渡した。何時でもまたいらっしゃい、と彼女は微笑んで車をスタートさせ、来た道を引き返して行った。
車がほとんど通らない荒野の一本道。遠ざかり、次第に小さくなっていくミス・ポーラの車を見つめている。やがて車は午前の陽に温められた道路が起こす陽炎の中に溶けて、消えた。
上は青空、下は黄土色の大地の真ん中に灰色のアスファルトの太い線が延びている。そこには三色で構成された世界だけが残っていた。
Ⅴ ロズウェル
ロズウェルには予定通り午後一時に到着した。小さなバスターミナルのチケットブースには窓口が一つあり、中で受付の中年女性がゴシップ雑誌を読んでいる。彼女にこの近くのモーテルを探していることを伝えると、大通りを挟んだ向かい側にシビックセンターがあるからそこで尋ねると良いと教えてくれた。案内された方向に眼を向けると、東京のスーパーで売っている豆腐のプラスティックの容器を逆さまにした形の、学校の体育館ほどの大きさの白い建物があった。
入口の自動ドアを通ると、二人の若い金髪の女性が受付のカウンターテーブルの後ろで向かい合い会話をしていた。話しかけると共に電気が流れて、スイッチがオンになったアンドロイドを思わせる動作で姿勢を正し、二人同時に私の顔を見る。私は観光客でモーテルを探しています、と最早定番になってしまった台詞を言った。「ちょっと待ってて」と言って、右側に座っていた女性がバックステージからいくつかのモーテルのパンフレットを持って来た。どのモーテルも同じ宿泊料金だったので、ここから一番近いチェーンのモーテルに行ってみることにした。それから私は「ロズウェルのUFO墜落現場に行きたいのだけれど、誰か連れて行ってくれる人はいないかしら」と、彼女達に尋ねると、モーテルの案内をしてくれた右側の女性が「ああ、それならこの建物を出て、メインストリートを右手に十分ほど歩けばUFOミュージアムがあるから、そこで問い合わせてみるといいわ」と言い、左側の女性は首を縦に何度も振った。
* * *
サン・モーテルはシビックセンターからメインストリートを五分ほどの距離にあった。サンタフェの件があったので、宿探しにはもっと苦労するのではないかと覚悟していた分、拍子抜けしてしまった。街は通り沿いに雑貨店や中古車販売店などが数件あるけれど、東京と異なり有線のBGMが各店舗から氾濫している訳ではない。時折通過する車のエンジン音と、鋭く冷たい風が口笛を思わせる音を立てるくらいで、殆ど無音と言っても良かった。
二階建てのモーテルは一階と二階にそれぞれ八つの部屋があった。横長の建物には等間隔でスチール製のドアとアルミ枠の窓が並んでいて、私が東京で通勤に使っていた山手線の車両を思わせた。モーテルの並びに小さなログハウスがあり、そこが受付になっている。チェックイン後、突き出た腹を覆い隠すように大きなズボンを穿いた初老の男性スタッフが二階の部屋を案内してくれた。建物の端に設置された鉄製の外階段から二階のフロアに上る。彼はドアの前でカードキーの説明を終えると、重力に悪戯されて度々ずり落ちてくるズボンをたくし上げる動作を繰り返しながら階段を下り、ログハウスに戻って行く。
部屋に入って一通り設備を確認した後、洗面台に水を溜めて粉末の洗剤を溶かし、その中でこれまで着ていた下着を揉み洗いした。絞った後に布を両手で挟み叩くとアイロンを使わなくてもある程度は皺にならずに済む。後は折り畳み式の携帯用ハンガーに洗い終えた下着を掛け、カーテンのレールに吊るして乾燥させる。モモカは一人暮らししたことがないから知らないでしょ、と以前サキから教えて貰った方法だった。部屋はシャワー室とトイレが分かれていた。時計を見るとまだ十四時だったので、シャワーを浴びた後、新しい服に着替えてUFOミュージアムに行ってみることにした。
歩道の両脇には溶け残った雪が小さく積まれていた。ミュージアムに向かうにつれてメインストリートの両側に店舗が増えてきた。レストランの看板にはフォークとナイフを持った、灰色の肌に大きな頭と大きな黒い目をした宇宙人が描かれていたり、楽器店のショーウインドウの中には宇宙人のマネキンがドラムセットに陣取っている。円錐状の屋根のマクドナルドも見つけたけれど、これも宇宙船の形状を意識しているのかもしれない。
ロズウェルの街がミス・ポーラの言う通り、UFOと宇宙人を利用して観光地化されていると分かると、子供の頃に叔父から貰った誕生日プレゼントの箱を開けた時に、既に持っているオモチャを見付けてしまった記憶が不意に蘇ってきて、気が付くと何度目かの軽い溜息を漏らしていた。
* * *
廃館になった小さな映画館の建物を改修して運営されているミュージアムに着くと、今日は何かの記念日らしく無料開放されていた。館内は走り回る数人の子供の声が高い天井に反響して、屋内動物園の鳥類の檻の前で過ごしている錯覚を覚えた。展示物は当時の新聞や軍から発表された資料、ドキュメンタリー映画のポスター、解剖医が手術台に横たわる宇宙人の周りを取り囲む場面を再現したマネキンなどで構成されていたけれど、それが何かのテーマに沿った順番で示されている訳でもなさそうだった。映画館のスクリーン前の客席が全て撤去され、床にボルトの跡が残る広い空間に、不時着して破損したUFOの大きな模型が展示されている。
模型の隅にスタンド看板を見つけた。深緑色の盤面に黄色のチョークで「UFO墜落現場へ行きたい方はオフィスへ」というメッセージと、白いチョークで縁取られて強調された大きなピンク色の矢印が描かれていた。「オフィス」と書かれた小さなプレートがドアノブにぶら下がっている白いプレハブ小屋の中では、机に向かった老人が老眼鏡を額に乗せたまま何かの書類を確認している。老人が手にした書類の確認を終えて次の書類を探し始めたタイミングを見計らってドアをノックした。
ドアのガラス越しに老人と眼が合う。彼が手招きをしたので私はプレハブ小屋に入った。彼は小さな溜息を繰り返し、机の上の書類を片付けながら言った。
「君はジャパニーズかな」
イエス、と答えると老人は「じゃあ、墜落現場に行きたいんだね。インターネットでロズウェル事件や都市伝説でも配信しているのか」と、そんなことを考えている東洋人は日本人に決まっている、という口ぶりで言った。私は彼に同意した。
「ああ、いいよ、でも明日は雪かもしれないから、もし降らなければオーケーだ。雪が降ると現場に案内ができないんだよ。明日、晴れたら朝九時にここにおいで」
それから、と老人は机の引き出しから取り出した地図を広げた。人差し指でなぞりながら説明を始め、地図上の一点を差して「ミュージアムはここ」と言った。次に右に指を移動させ、その先に示した一点の周りで指先を回転させる。
「墜落現場はここ。ミュージアムからだと車で大体三十分くらいかな。現場は道路から外れた牧場の中でね、私有地なんで牧場のオーナーに許可を取らなきゃならないからな。彼に電話しておくよ。それから二十ドル貰うけど、いいかな。燃料代とガイド代だな」
老人は説明を終えた後、額に引っ掛かっていた老眼鏡をあるべき位置に戻し、私の顔から足元までをスキャンするように見た。そして初めて笑顔を見せて右手を差し出してきたので握手を交わした。私は「マイネームイズ、モモカ、明日はよろしくお願いします」と頭を下げると老人は「私はジョセフだ。ミュージアムの館長をしている」と眉毛を吊り上げて更に笑顔を作った。
* * *
モーテルに戻ると薄い壁越しに聞こえる隣部屋の宿泊客の大きな笑い声を聞きながら、マクドナルドで買ったビッグマックミールを口にした。テレビを点けるとコメディー番組が映り、隣部屋からの声が画面から聞こえる効果音の笑い声とシンクロしていたので、同じ番組を見ているのだと分かった。番組が終わると隣からは音が全く聞こえなくなったので、恐らく早々と寝てしまったのかもしれない。
トイレに入ると、目の高さに曇りガラスの小窓が付いていることに気が付いた。その窓を開けると冷たい空気が堰を外されて流れ込む川の水の勢いで入って来る。窓の外を覗くと左半分は隣の建物、右半分は野球のグラウンドが見えて、水銀灯の明かりの下でキャッチボールをしている十人ほどのユニフォーム姿が見えた。寒さで背筋に軽く痙攣が起きたので窓を閉めた。ベッドに入ると、サキの為に何かを手に入れられるのか、現実的に明確な当てもないままアメリカに来ている自分を発見してしまい、無力感という大きな波が押し寄せてきた。私はそれを締め切るように眼を閉じる。もしも、万が一本当にUFOの破片を手に入れることができたなら、彼女に何と言おうか。そんな微かな想像を抱くと身体が暖かくなり、そのまま眠りに落ちた。サキと最後に会ってから、もうすぐ三か月が経とうとしていた。
* * *
朝八時に窓のカーテンを開けると空は薄い水色で、雪も降っていなかった。車も人も疎らなメインストリートを通り、UFOミュージアムに向かう。指定された九時より少し前に建物に到着すると、まだ入口のドアが施錠されていたため、ミュージアムの向かいにある開店前の家具店の暗いショーウインドウを眺めたり、空を見上げては何か不審な物体が飛行していないかとも思い、眼を凝らしながら過ごしていた。
いつの間にか革のライダースジャケットを着た黒人女性が隣に並んでいた。細い脚にぴったりと貼りついたジーンズを履き、首に緩く赤いマフラーを巻き付けた彼女の姿は、まるでストリートスナップ撮影に登場しているファッション雑誌のモデルに見えた。彼女は正面の家具店のショーウインドウに飾られた、消灯している“OPEN”と描かれたネオンサインのあたりに眼を合わせたまま動かない。緩く曲がりくねった茶色い髪が鎖骨のあたりまで広がっていた。
背後から聞こえた金属音と共に入口の扉が開くと、女性スタッフが私達二人に中に入るように促した。UFOの模型の前を通り、昨日ジョセフと話したオフィスの裏に案内されると、そこにはスチール製の扉があり、ここで少し待っていて、と言って女性スタッフは去って行った。暫くすると扉が開き、グッドモーニング、と言いながらジョセフが顔を出した。扉の向こうはミュージアム裏の屋外駐車場に続いている。老人は赤いジープの後部座席のドアを開け、掌で扇ぐ仕草で私と黒人女性に車に乗るように導いた。
* * *
三人を乗せたジープはメインストリートを私が歩いて来た方向へと引き返す。マクドナルド、シビックセンター、サン・モーテルを順番に通過して行く。やがてフロントガラスに映るのはアスファルトの道路だけになった。視界の左右は乾燥した黄土色の大地の上に電信柱が等間隔で立っており、その間を黒く細い電線が垂れ下がっている。変化を見せない静止画の景色に飽きてきた頃、ジョセフは目印も何も無い場所でハンドルを突然左に回転させて、その黄土色の景色の中へ車を飛び込ませた。振り返って見たリアウインドウの先では車輪に巻き上げられた薄黄色の煙幕が視界を塞いでいる。
「あのさ、何でロズウェルに来たの」
黒人女性は私の方を何度か見た後、話しかけてきた。
「ああ、ええと、墜落現場で破片を探そうと思って」
彼女は大きな声で笑った後、クール、クールと言った。
「私はマリア。ヘルプするわ」
「モモカです。よろしく」
マリアはロサンゼルスに住むダンサー志望の大学生で一人旅の最中だった。小刻みに揺れる車の中で暫く続いていた沈黙を破るように、右の前輪が大きな石を撥ねて車体が左に傾く。彼女が上げた小さな悲鳴を合図に、更に大きく左右に揺れ続ける車内は私とマリアの叫び声で賑やかになった。
「ここは本来、車が通れる道じゃないんだ。酷い場所もあるから、何処かに掴まっていてくれ」
ジョセフが後部座席に顔を振り向けながら言った。途中からマリアは連続して起こる大きな衝撃がアトラクションに思えてきたようで笑いが止まらなくなってしまい、両腕を自分の腹に巻き付けながら、車の動きに合わせて顔を上に向けたり下に向けたり激しく動かし声を上げ続けている。アトラクションが終了すると車は比較的平坦な道を進むようになった。やがてジープは小高い丘の前で止まった。ジョセフは車を降りて後部座席のドアを開け、私達二人に降りるように促した。丘の隅には茶褐色の石を積み上げて作られた、高さ二メートルほどのオベリスクを思わせるオブジェが建てられている。
「こいつが目印なんだ」
老人はオベリスクに触り、次に丘の中腹のあたりに向かって右手を手刀の形にして何度か打ち付ける仕草を見せ、ここにUFOが突き刺さっていたんだ、と言った。示された丘の表面をマリアと一緒に観察してみたけれど、特段眼に付くものはなかった。
「ミスター・ジョセフ、私、UFOの破片を見つけなければならないの」
ジョセフは両掌を胸の高さまで上げるジェスチャーをしながら「それは無理だな。破片は当時、大勢の軍隊がやって来て、全て拾ってしまったんだ。何しろ百人以上が横一列に並んで半径二キロ以上をクローリングしたからな」と言った。
まあ、好きにすればいい、と老人は呟いて両腕を後ろに組み、足元の小石を爪先で転がしながら丘の周りを散策し始めた。ねえ、探しましょう、とマリアが笑顔で私の背中に手を当てた。私とマリアは丘から続いている、明るい黄土色の地面に眼を凝らし続ける。時折変わった形状の鈍く光る塊が見つかるので、指先で摘まみ砂埃を払ってみるけれど、それらは全て石だった。日差しが強くなってきたので、ジープに置いていたリュックサックから折り畳まれたテンガロンハットを取り出してマリアに手渡した。
しゃがみ込み、延々と亀の歩みで移動を続ける私達二人にジョセフが近づいて来て、ゆっくりと口を開いた。
「ここに来る人間は皆、不穏な自分の未来を変えてくれる何かを求めているんだ。お前達と同じく破片や痕跡を探したり、自分が変わり者だと証明する為に記念写真を撮って帰る人もいる。だが、本当に考えなければならないのは墜落した機体の中に居た連中のことだ。我々人類はお互いに殺し合い、ただひたすらに争いを続けてきた。恐らく彼等はそんな凶暴な生物をずっと観察していて、背筋を凍らせていたのだろう」
私とマリアは動きを止めて老人の話に耳を傾けていた。私の眼には夜中に目を覚まし、布団の上で「怖い、怖い」と呼吸を荒げていたサキを抱き締め、長く黒い髪に沿ってゆっくりと頭を撫でていた自分の姿が映っていた。
「彼らからしたら猛獣だらけのサファリパークに裸同然で放り込まれたようなものだ。瀕死の彼らが感じたであろう恐怖を想像できるかい。案の定、我々は彼らの遺体を解剖し、切り刻んだ。機体を回収して技術を盗み、新たな兵器を開発し、更に戦いを続けようとしていたんだ。それは今も変わらないよ」
私達は彼らに何ができたのかしらね、とマリアが屈伸運動を行う動きで両膝に手を置き、立ち上がりながら言った。
「“神”はわざと彼らの機体を墜落させたのさ。それは人類への試験問題だったんだ。そして我々はクリア出来なかった。少なくとも生き残った乗員がいたのなら、我々はもっと優しく接するべきじゃなかったのかな」
老人は私にも理解できるように、口をゆっくりと動かし、単語をはっきりと区切って話し続けた。
「正義を、正しい世界を、などと言ってる奴らがこの世界には溢れていて、そいつらが自らの正義を振り翳し、お互いに争い、虐げ、殺戮している。無理だ。この世界で、本当に大切なことに気が付いている優しい人間達は子供だろうが大人だろうが皆、閉鎖病棟に入れられてしまう。平和な世界なんて夢のまた夢。それに“神”がまた試験をしてくれるかなんて誰にも分からない。もう二度とチャンスは無いかも知れない」
マリアが差し伸べた両手が私の眼の前にあった。彼女は私と手を結ぶと上体を引き起こしてくれた。炭酸水を注入されたように痺れていた両脚が次第に回復していく。
私は丘を背にして、水色と黄土色で上下半分に分割された世界を、ゆっくりと、その地平線の果てに向かい、何処までも歩き始めた。緩やかに流れていた風が止み、砂利と靴底との摩擦で起こる音だけがそこにあった。
いつしか私はサキと一緒に観た映画『ノスタルジア』を思い出していた。あの映画のラストシーンで主人公の男が広い浴場の端から端までを歩いた距離は、私にとって東京からロズウェルまでの行程のように思えた。私もあの男も、結局は何も得られないのだろうか。
やがて私は歩みを止めた。
違う、と思った。私達の人生は映画ではないのだ。次第に血液の流れが速度を上げ、身体中の細胞が悲鳴を上げた。
私は一刻も早くサキを迎えに行かなければならなかった。あなたはこの世界に存在しても良いのだから。
伝えたい言葉が、いくつも、いくつも、溢れ出した。
「探し物は見つかったかしら」
いつの間にか傍に立っていたテンガロンハットのマリアが微笑みを浮かべながら囁いた。
「そろそろ帰ろう」
遠くで叫ぶ老人の声が乾いた空気を震動させた。
風が再び吹き始めた。
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