一番「救えなかった命と、救おうとした心の物語」

これはどこかの物語。そっと手に取った、名前も知らない一つのカケラ。


暗い森だった。 鬱蒼とした木々が、無秩序なようでどこか規則的に並び、光の侵入を許さず、重たい闇を育てていた。


旅人は歩みを止め、その闇に問いかけた。 「何を、求めますか」


かすかな声が、闇の奥から返る。 「……水を。食べ物を……」


旅人は目を伏せ、一瞬だけ目を閉じ、頷いた。 そして森へと姿を消した。


しばらくして、戻ってきた旅人の手には、一匹の野ウサギがぶら下がっていた。 皮を剥ぎ、火を起こし、炙る。脂が火に落ち、小さく爆ぜた。


やがて再び、旅人は闇に尋ねる。 「食べられますか」


返事はない。 風も、葉も、炎も、息をひそめたように沈黙する。


そして、ひとつの死が、静かに明かされた。 森の奥、倒木のそばに、冷たくなった若者の身体。 彼が声の主であることを、旅人は知っていた。


旅人はぽつりと言葉をこぼす。 「結局の所、山に迷った人間を救うためにウサギを狩った。 小さなザックに、濡れた登山地図。足には擦り切れたスニーカー。 きっと、助けを求めながら何日も彷徨っていたんだろう。 ……ところがどうだろう。人間は死に、そして野ウサギの命も無駄になった」


一呼吸おいて、続ける。 「救おうとして、他の命を犠牲にして、それでも救えなかったら……全部、無駄になる? だったら助けようとしなければ良かった? 野ウサギは死なずにすんだ? いや、それは、結果論ってやつだ」


野ウサギの骨を火にくべながら、旅人はつぶやいた。 「たぶんまた、どこかで誰かを助けようとして、何かを失うんだろうね」


炎がパチパチと、まるで小さく笑うように答える。 「でもまあ、それも旅ってやつだ」


翌朝、焚火の消しカスだけが残っていた。 旅人の姿はどこにもなかった。


少女は、そこまで読み終えると本を閉じた。 古びた図書館の静けさのなか、小さく息を吐く。


「この旅人は……私だ」


そう、少女は思う。 ニュースで見た紛争、SNSで流れてくるいじめ、学校のすみにいる泣いている子。 どうしたって、どう足掻いても、救えないことがある。


「だったら救わないほうがいいの?」


ふと浮かんだ問いに、少女は首を横に振った。


「それこそ旅人さんの言う、結果論だ」


じゃあ、私がまず救うべきは── 「私自身だ」


どうせ救えないことがあるのなら。 「救えないのは怖いから、救わなかったんだ」 そんな言い訳だけはしたくない。


「やるだけやって、救えなければ──それは運命。 でも、救おうとした私の心は、きっと救われる」


少女は再び本を開く。 初めて手に取った時のワクワク感ではない。気付けば呼吸が荒く、頭のてっぺんからざらついた「何か」が心臓に流れ込む。 震えている?少女は本が小刻みに震えているのをみた。 まるで本の中のウサギじゃないか。 だめだ。ニヤニヤが止まらない。早く読ませろ。文字を食わせろと心が躍る。 「いいよ。食ってやろうじゃない。私は旅人か?遭難者か。はたまたウサギか。」

そこまで言って、首をふる。

「いや、私は何者にもなれるし、何者でもない」


この作者の物語は終わるが、図書館の片隅で小さな物語が始まろうとしていた。


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佐伯由羅(伏見もなか) とても、とても嬉しく思います。