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平等院鳳凰堂と構造――失われた霊性と時間の層

現在制作中のドキュメンタリー映画『ヒグマカルマ』について、この2か月様々に書いてきた。

熊のこと、狐のこと、ドローンのこと、資金のこと、映画制作のこと。
そして、最近になってこの映画を支えている「構造」についての理解がより深まってきた。

とはいえ、この映画の核心については、まだうまく言葉にできない。
いや、正確には言葉にすると痩せてしまう気がしている。

ただ、その核心へ向かう感覚の断片なら、過去の日記の中にもすでに現れていたのかもしれない。

以下は、今年の2月に平等院鳳凰堂を再訪した際に書いた日記である。
――――
三十年ぶりに宇治・平等院鳳凰堂を訪れた。
僕が初めて見た鳳凰堂は、彩色をほとんど失い、
木肌には千年の時間が沈殿し、
圧倒的霊性をまとって時を刻んでいた。

僕はその姿に、ただ息を飲み、立ち尽くした。
風化は劣化ではなく、歴史そのものだった。
 
平等院鳳凰堂は、2012年から2014年にかけて大規模な保存修理が行われ、
2014年に修理後の姿で公開された。

今回目の前にあったのは、
鮮やかに塗り直され、
宝珠は金色に輝き、
創建当初の姿に近づけたという完成形。

だが、僕は強い違和感と幻滅を覚えた。
あまりにも整えすぎたその姿は、
歳月を覆い隠すために厚く塗り固められた
大量生産された仮面のようで、
唯一無二だったはずの建築は、
平凡な「観光資源」へと変質していた。

構造を補強することに異論はない。
見えない土台や支柱を修復し、
朽ち果てさせない努力は当然だ。
しかし、時間を刻んだ表層まで塗り直す必要があったのか。

単色の自然環境に生きた平安の人々と、
極彩色に囲まれて生きる現代人とでは、
色の受け取り方そのものが違う。

創建当初の色を再現したところで、
当時の感性は再現できない。
現代人の心を揺さぶるのは、
むしろ色褪せ、
時間の層をそのまま抱えた、
もはや木材建築というより巨大な木霊のような存在ではないのか。

僕は目の前の変わり果てた鳳凰堂に、
霊性よりも経済の気配を感じてしまった。

文化財保存には莫大な予算が動く。
職人の技術継承という大義もある。
だが、その循環の中で、
霊的な気配よりも整った見栄えや観光的価値が優先される。
僕が失望し幻滅したのは、
霊性よりも経済が先に立つ構造、
そして時間の層を削ぎ落としても良しとする
近代的合理主義の保存思想に対してだ。

千年の時間が染み込んだ木肌を、
僕はもう一度見たかった。

あれは朽ちではなかった。
あれこそが、霊性だったのに。

【2026年2月13日の日記より】

今読み返すと、この時すでに僕は「時間の層」について考えていたのかもしれない。

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。