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ヒグマカルマについて、今語れること――作品は1個の生命体

先日、傑作ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』を34年ぶりに劇場スクリーンで観た。

静かで、まっすぐで、誠実な映画だった。

撮る者と撮られる者の距離はいつしか溶け、カメラは観察の装置ではなく、同じ時間を生きる眼差しへと変わっていく。

上映後、本作の撮影カメラマン・小林茂さんの話を聞き、さらに直接お話を伺う機会にも恵まれた。

なぜあの距離が生まれたのか。 なぜあの時間が撮れたのか。

その答えを探しているうちに、ひとつのことが腑に落ちた。

傑作は監督一人の力では生まれない。

撮る者と撮られる者の熱量が交錯し、その総量が臨界に達した時、映画という時空が立ち上がる。

そこには人間だけでなく、風も、水も、土地も、時間も加わっている。

映画とは、人と自然がともに奏でる大いなるシンフォニーなのだ。

ふと考えた。

これまで僕が深く心を動かされたドキュメンタリー映画にも、同じものが流れていた。

『ハニーランド 永遠の谷』 『ゆきゆきて、神軍』 『阿賀に生きる』 『アクト・オブ・キリング』 『どうすればよかったか?』 

どれも忘れ難い作品だ。

しかし改めて見返してみると、その多くは一人の人物、あるいは一つの共同体を深く掘り下げている。

ドキュメンタリー制作の王道とは、本来そういうものだろう。

一人の人物を追う。 一つの地域を追う。 一つの出来事を追う。

対象を定め、その奥へと降りていく。

ところが、僕が今制作している『ヒグマカルマ』は、その王道から大きく逸脱している。

主人公は一人ではない。
猟師もいる。 研究者もいる。 被害に遭った人もいる。 熊を畏れる人もいる。 熊を敬う人もいる。 
一つの中心人物を定めてそこを掘り下げる構造ではない。
だから制作途中の今でさえ、ときどき不安になる。
だが同時に、奇妙な確信もある。

ドキュメンタリーには、設計型と生成型がある。設計型は、狙いと確信から始まる。
生成型は、好奇心と畏怖、そして祈りの中から立ち上がる。
『ヒグマカルマ』は明らかに後者だ。

撮影を続ける中で、こちらが考えもしなかった出来事が起こる。
偶然の出会い。 奇妙な符合。 説明しきれない物語の連鎖。
それらが集まり始めると、監督の意図を超えた場所から映画が動き始める。

前作『虚空門GATE』でも感じたことだが、作品はある段階から監督の所有物ではなくなる。
作品は一個の生命体となり、自ら物語を紡ぎ始める。
そしてやがて、至福にも似た感覚が訪れる。

撮っているのは自分ではない。
時空が撮っているのだ、と。
それは監督としての万能感ではない。
時空との一体感だ。

『ヒグマカルマ』がどんな作品になるのか、まだ語れない…
だが、もし完成の日が訪れるならば、それはもちろん、僕一人の力ではない。

熊も、森も、人々も、風も、雪も、時間も。
そのすべてが共に紡いだ映画なのだと思う。
それだけは言える。

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#ヒグマカルマ

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。