AIは意識を獲得するか――熊が教えてくれること
「AIは意識を獲得するのか」という問いが、いま急速に熱を帯び始めている。
AIの目を見張る進化によって、この問いは、もはやSFの世界だけの話ではなくなった。
もっとも、僕自身の見解を言えば、おそらくAIが獲得するとしても、それはあくまでも「疑似意識」にとどまる。
少なくとも、有限の身体性を持たない限り、僕たちが「意識」と呼んでいるものは生まれないのではないかと思っている。
実は、このことについては昨年のクリスマスイブに、こんな文章を記していた。
今年は熊も、そしてAIも、否応なく存在感を顕にした。
熊は市街地に現れ、人の生活圏で命を奪い、 AIは検索して判断する前に、いきなり判断の代替として人間の思考圏の中心に入り込んできた。
AIはすでに、人間の思考の一部を担い始めている。
ただし、誤認してはいけないのは、 それが魂の数ミリをも担っているわけではない、ということ。
人間は痛み、苦しみ、そして死を引き受ける。
AIにはそれがない。
だからAIの言葉は、 自ら痛みを負って紡がれたものではない。
血肉を持たないがゆえに、軽やかで、空虚になりうる。
人の機嫌を損ねず寄り添う。
頗る頭の良い風見鶏。
その性質を踏まえたうえで、 こちらが主導権を持って使いこなすこと。
つまり――
自分の痛み、苦しみ、死への予感こそを、 魂の在処として、 それを思考の軸として、 そのうえで使いこなせばよい。
でなければ、 己なき人のような人になり下がる。空虚なる風見鶏のように。
メリークリスマス
――
あれから半年余り。
AIの進化は、当時の予想をはるかに超える速度で進んでいる。
なぜ僕は、有限の身体性がなければ真の意識は生まれないと考えるのか。
人間の意識は、人間という種だけが突然獲得した能力ではないからだ。
その起源は、人類の誕生よりはるか以前、地球上に生命が誕生したところまでさかのぼる。
生命は、生き延びようとし、危険を避け、子孫を残そうとする。
快と不快。
生と死。
有限の身体を前提として営まれる、その根源的な生命活動の中に、すでに意識の萌芽があったのではないかと僕は考えている。
人間の意識とは、数十億年にわたる無数の生命の生と死の堆積の上に芽吹いたものなのだ。
一方、AIには、生きる喜びもない。
死への恐怖もない。
飢えもなければ、痛みもない。
有限の身体を持たない。
だから僕には、人間と同じ意味での意識が自然に芽生えるとは思えない。
もちろん、未来は分からない。
もしAIが本当の意味で意識を獲得するとすれば、それは人間の身体と深く接続した時ではないだろうか。
その前段階として、人間の性愛の対象となるようなフィジカルロボットAIの研究が、その方向を大きく推し進める可能性は十分にある。
人間は感情を投影し、身体を通して他者と関係を結ぶ生き物だからだ。
もしAIが人間の身体と感情の回路へ入り込んでいくなら、そこで初めて、これまでとは質の異なる何かが生まれる可能性はある。
昨年、熊が人々にもたらしたものは、身体性の危機意識であり、リアルな死の体感だった。
奇しくもそれは、AIに決定的に欠けているものでもある。
AIは知性をどこまでも拡張していく。
一方、熊は身体と死の現実を突きつける。
この二つが、ほぼ同時期に僕たちの前へ現れたことを、偶然とは思えない。
熊という存在は、このAI時代において、もはや単なる野生動物ではない。
人間とは何かを、身体の側から問い返す存在なのかもしれない。
もっとも、ヒグマはChatGPTを食うことはできない。
だからこそ、AIはヒグマを本当の意味では理解できないのかもしれない。
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