なぜ僕は、完成前の映画について書き続けるのか
完成前の映画について、制作の途中から語り始める監督は、おそらく多くはない。なぜなら、それには少なからずリスクが伴うからだ。
作品の核心に触れればネタバレにつながる可能性がある。断片的な情報だけが先行すれば、完成形とは異なる憶測を生むこともある。
だからこそ、多くの映画制作者は、作品が完成するまで沈黙を選ぶ。
それでも僕は、あえて書き続けている。
現在制作中のドキュメンタリー映画『HIGUMA KARMA』の制作日記として——。
では、なぜ僕は書いているのか。
理由の一つは、自分自身の思考のプロセスを客観視したいからだ。
迷い、揺らぎ、懊悩。まだ言葉にならないぼんやりとした思念を、文章を書くことで少しずつ輪郭のあるものにしていきたい。
例えば、なぜこの映画を『HIGUMA KARMA』と名付けたのか。
実は、最初に意味があってタイトルを考えたわけではない。
ある日、「HIGUMA KARMA」という言葉が、ふっと降りてきた。妙にしっくりきた。そのあとになって初めて、「これは何を意味しているのだろう」と考え始めたのである。
「カルマ」とは何なのか。
もちろん辞書には意味が書かれている。しかし、その説明だけでは、どうしても自分の中で腑に落ちなかった。
だから、ずっと考え続けてきた。
現時点でたどり着いている僕なりの答えはこうだ。
カルマとは、現象を生み出す目には見えない、理解し難い構造のことではないか。
ヒグマは、人間の制御が及ばない野生の象徴である。
そして考えてみれば、人間一人ひとりの人生もまた、自分の意思だけで制御できるものではない。いつ生まれ、いつ死ぬのか。それすら自分では決められない。
しかし、その背後には無数の情報が絡み合い、因果が重なり、一つの構造が存在している。
その構造はあまりにも複雑で、人間には簡単には理解できない。
だからこそ、理解しようとすること自体に意味があるのだと思う。
『HIGUMA KARMA』には、おそらく安易な答えも、分かりやすいメッセージもない。
少なくとも、僕はそんなものを映画に求めてはいない。
むしろ、「分からない。でも分かりたい。」
その切実な欲求、その強度こそを、この映画に宿したい。
というか、『HIGUMA KARMA』のほうが、僕に問いを投げかけているのかもしれない。
だから僕は、この映画が完成する日まで考え続けるだろう。おそらく完成してからも。
その思考の軌跡が、このnoteである。
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