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日本人は、なぜ動物の霊を弔うのか

各地を車で走っていると、突然、鹿が飛び出してきたり、狐やタヌキが道路脇を駆け抜けたりする。そのたびにヒヤリとする。

そんな瞬間、僕は決まって子供の頃の記憶を思い出す。

父が運転する車の助手席で、道路に動物が飛び出した瞬間、僕は思わず顔を覆っていた。
「轢かないでほしい」
ただ、その一心だった。
そして何事もなく動物が走り去ると、心の底から安堵した。

大人になってから、僕は何度も人生の危機に直面した。イランでスパイ罪の濡れ衣を着せられて拘束されたこともある。
溺れたこともある。撮影でも、仕事でも、
「もう駄目かもしれない」と思う場面をいくつもくぐり抜けてきた。
そして、不思議なくらい間一髪で救われるたびに、なぜか子供の頃、動物を轢きそうになったあの場面が脳裏によみがえる。

もしかしたら、自分が奇跡的に助けられてきたのは、子供の頃に何の打算もなく「かわいそうだ」と思えた、あの純粋な心があったからではないのか。

もちろん、それを証明することはできない。

しかし、もし守護神という存在があるのなら、神は人間の行為だけではなく、その一瞬の「心」を見ているのではないか。そんなことを思うようになった。

そんなことを考えているうちに、日本という国には、動物の命そのものを慰めようとする文化があることに思い至った。

鎌倉時代に始まった放生会(ほうじょうえ)も、その一つである。

調べてみると、源頼朝が始めたとされる放生会には、由比ヶ浜で千羽の鶴を放ったという伝承が残されている。これは戦乱で命を落とした人々の鎮魂とともに、生きものへの慈悲を表す儀式でもあったと考えられている。

もちろん、「動物の霊を鎮魂するためだった」と史料に明記されているわけではない。しかし、日本には古くから、命をいただいた動物を供養する文化が息づいてきた。
鯨供養、魚供養、馬や牛の供養、狩猟獣の供養、さらには実験動物の供養まで、その対象は実に幅広い。

海外にも狩猟した動物へ感謝を捧げる文化はある。北米先住民、東南アジアの狩猟文化、チベット仏教などにも類似の思想はあるようだ。
しかし、日本ほど「命をいただいた動物の霊を慰める」という営みが、宗教や生活の中に深く根付いている例は決して多くない。

では、なぜ日本人はそのような文化を育んできたのだろうか。

これはまだ僕自身の仮説だが、日本人は動物や自然に対して、非常に強い共感能力を育んできた民族なのではないかと思う。

山や川、海と共に暮らし、獣と隣り合わせで生きてきた歴史。八百万の神々という世界観の中では、岩や樹木だけでなく、動物もまた霊性を宿す存在として受け止められてきた。

もしかすると、日本人とは、森羅万象と静かに共鳴し合う感性を育んできた民族なのかもしれない。

日本人は、虫の鳴き声を単なる音ではなく「声」として感じる傾向があることも知られている。それは自然を単なる環境ではなく、自分とつながる存在として感じる感性の表れなのかもしれない。

脳科学では「ミラーニューロン」という共感に関わる神経機構が知られている。ただし、日本人だけが特別に発達しているという科学的証拠は、現時点ではない。

それでも、長い歴史の中で培われた文化や自然との共生が、人間だけでなく動物にも共感を向ける認知のあり方を育ててきた可能性はあるのではないだろうか。

もしそうだとすれば、日本で熊を駆除し、あるいは狩猟によって命をいただきながら、その魂を慰める文化が受け継がれてきたことも、不思議ではない。

『HIGUMA KARMA』を制作しながら、ふと思う。

人間は、なぜ命を奪い、そしてその命を弔おうとするのか。

その問いの中に、日本という国の精神文化の核心が息づいているような気がしている。

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。