イギリス在住のKさんが久しぶりに来られ、何故か「熊」の話になった。
僕が「イギリスでは熊は400年前に絶滅していますよね」と話すと、Kさんは「それは知らなかった」と驚き、そして少し間を置いて、「次作は熊の映画を撮られるんですか?」と尋ねてきた。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
映画のことは何も話していない。
にもかかわらず、なぜそう感じ取ったのか。
Kさんは「私は昔から直感が鋭いんです」と少し控えめに呟いた。
一般的には「霊感」と呼ばれるものなのかもしれない。
僕が既に熊の気配をまとっていたのかもしれないが。
イギリスにおける熊絶滅の話は、昨年知って以来、ずっと頭から離れない記号となっている。以下は、昨年11月4日に書いた制作日記である。
スウェーデンとイギリスを旅してきた娘が生き生きと帰ってきた。
早朝ランニングが習慣の彼女は「熊、出ないかな」と気にしていたという。
ロンドンで尋ねると、「熊? もう400年前に絶滅したよ」と笑われたらしい。
イギリス人の中の熊は、森を歩く野生ではなく、「くまのプーさん」だった。
かつてイギリスの森には熊がいた。
熊は森の多様性を司り、果実を運び、命の循環をつないでいた。
だが森林開発と乱獲、そして杭にくくりつけた熊にブルドッグをけしかける
「熊いじめ」の娯楽文化によって、その姿は消えた。
捕食者を失った森は沈黙し、人は「自然を支配できる」と信じ始めた。
やがてその思想は産業革命を生み、
自然を管理・利用する文明が築かれていった。
畏怖を失った自然は神の森ではなく、人間の資源となった。
そして野生を失った国は、空想の中で熊を甦らせた。
それが「くまのプーさん」である。
プーさんは、熊を喪失した悲しみを封印した潜在意識の産物。
牙を抜かれ、森から追放された熊の、優しくも悲しい幻影だ。
Kさんはまた呟いた。
「プーさんはメランコリーなのかも」
僕がひっかかりを感じるのは、イギリスが熊を失った喪失を
まだ深く受け止めていないからだ。
自然支配の思想を反省しないまま、
「日本では熊に注意せよ」といの一番に呼びかける(昨年、日本列島で『熊被害』報道が過熱するや、日本への渡航注意を世界各国でいの一番に呼びかけた)。まるで、自然を支配する文明圏の代表者のように。
熊を失った国が、野生と共に生きる国への注意を促す。
その構図こそ、文明という名の傲慢を映しているのかもしれない。
僕の脳裏にはこの昨年の投稿内容が過っていたが
Kさんには語らなかった。
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