#625【旧ブログ2019年6月3日投稿】京都の定義について~147万通りの心理的御土居~
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京都の定義について~147万通りの心理的御土居~
2019年6月3日
http://blog.livedoor.jp/moneylight/archives/52234804.html
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お久しぶりです。
しばらく更新しない間に、このブログもついに14周年を迎えた。
私は今27歳なので、人生の半分、まさに半生がこのブログに記録されていることになる。
もう今更やめらんないよね、という謎の使命感さえ生まれている。
さてつい昨日、京都新聞にこんな記事が載った。
全文コピペさせてもらう。
北陸新幹線ルート案、京都市中心部や伏見酒造エリアなどは回避
(京都新聞 2019年06月01日)
https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20190531000181
整備新幹線を建設する鉄道建設・運輸施設整備支援機構(横浜市)は31日、京都府内を通る北陸新幹線敦賀(福井県)―新大阪間のおおまかなルート案に当たる事業実施想定区域を発表した。京都市中心部や伏見区の酒造エリア、原生林が広がる「芦生の森」(南丹市美山町)はルートから外すとしている。
敦賀―新大阪間は全長143キロで、東小浜(福井県小浜市)付近、京都駅(京都市下京区)、松井山手(京田辺市)付近を経由する。ルート案は駅間が幅4~11キロ、駅周辺は直径5~12キロで示されており、この範囲を本年度から4年かけて行う環境影響評価(アセスメント)の対象とする。
ルート案の範囲は府内に入ると広がり、京都市の市街地はほぼ含まれるが、機構は生活環境や地下水への配慮から「京都市中心市街地、伏見酒造エリアを回避した区域を選定する」と説明。ただ回避範囲は現時点で明確ではないという。
また京都、綾部、南丹3市と京丹波町にまたがる京都丹波高原国定公園(約6万9千ヘクタール)はトンネルで通過するものの、公園内の芦生の森(約4200ヘクタール)は避けるとした。ルート案の範囲に滋賀県は含まれていない。
機構によると、京都、大阪両市とその周辺は基本的に地下トンネルで、一部は用地買収の必要がない地下40メートル以上の大深度地下となる。2021年夏に公表される環境影響評価準備書ではより絞り込まれたルート案が明らかになる見通し。
京都府など沿線府県は敦賀―新大阪間の着工時期について、金沢―敦賀間が開業する23年春から間を空けないよう求めているが、実現には建設費2兆1千億円の財源確保が必要となる。
西脇隆俊京都府知事はルート案公表を受け「機構は、引き続き自然環境や生活環境の問題などについて、慎重な調査と十分な環境保全対策の検討、丁寧な地元説明を実施しながら、環境影響評価を行ってほしい」とのコメントを出した。

とある。
北陸新幹線敦賀~京都~新大阪のルート決定に関する記事だ。
金沢~敦賀の延伸は数年後までに迫っているが、敦賀から先はいったいいつになるのか。
関西から金沢に行くには今はサンダーバードで1本だが、敦賀~新大阪が開通しない限り、何十年も敦賀での乗り換えが強いられてしまう。そんなことをしているあいだに、北陸と関西の歴史的なつながりがどんどんと薄れてしまうのではないか…。
…といったことは、今回はどうでもいい。
記事本文中にサラッと書いてある、この文言。
「京都市中心市街地、伏見酒造エリアを回避した区域を選定する」
これである。
皆は特にひっかかる点はないだろう。しかし、京都人からすると、これは”戦争”を起こしかねない言葉が含まれているのである。
それは、京都の中心市街地って、具体的にどこだ!?
という問題だ。
記事における「京都市中心市街地」というのは、単純に繁華街を避ける的な意味なのだろうから特に気にすることはないのだが、この文言を見た瞬間、京都人が年がら年中行っているある論題に行き着くわけである。
そう。
「いわゆる”京都”というのは、どこの範囲を指すのか問題」である。
これは大変議論の多いものであることは説明不要であろう。
ここでいう”京都”というのは、観光都市京都、文化と伝統の街京都、古都京都という意味である。
皆が想像する京都はどこだというものである。
「京都=行政単位としての京都市」とは京都人のみならず、日本の誰もそんなことは思っていない。
単純に「京都」と言うとき、花背の山奥や、免許試験場のあたりは含まれないことが常である。いわんや、京都府下の各自治体、つまり福知山や丹後半島を指して「京都」という人は皆無であろう。
すなわち、「京都」というのは少なくとも京都市という行政単位よりも狭い範囲を指すわけだが、ここで京都人(※)が言う「京都」というのは、千差万別である。
※そもそも「京都人」という定義が「京都」とはどの範囲を指すかというこの問いとイコールであるが、そこを論ずるとややこしいので置いておく)
というよりも、京都人の数だけ京都の定義があると言える。
洛中はどの範囲を指すかというのは、江戸時代以前からあった議論らしい。
先程述べたように、京都がどの範囲を指すかというのは自らが京都人か否かというアイデンティティの問題に直結してくるものであるから、基本的に自分の住む(あるいは生まれた)場所を含む形で定義されることになる。
一方で、あまりにも範囲を広くしすぎると意味がないから、自分を含む形で最小限の範囲を各々設定していくことになる。
さらに京都においては、口にはしないもののかつては根強い差別問題(要するに部落差別など)があったことから、ことは余計に複雑である。
さて、みなはどこが京都の範囲と考えるだろうか?
これは京都人でなくとも、なんとなく考えることはできるだろう。
京都の定義は京都人の数だけあると言ったが、きょうはいくつかよくある定義を紹介しようと思う。
まずは、京都人以外にたまに見受けられる定義がこれ
定義1:平安京

これは、小中学校の日本史の授業で知識が止まっている他府県の者に、たまに見られる。
794年に建てられた平安京、その中の範囲が京都だ、というわけだ。
さすがに、この定義はほぼ間違いといえる。
これが平安初期なら、たしかにこのとおりである。
しかしながら、右京と呼ばれる平安京西半分は、湿地帯が多かったため早々に廃れる。南側も荒れ、平安末期に成立した今昔物語集などには「羅生門には鬼がいる」とか書かれる始末。この部分が再び市街地されるのは、昭和に入るころになってようやく、といった具合である。市域については、東京極大路(今の寺町通りに相当)から更に鴨川へと伸びていくため、この点においても間違いといえる。
またこれも、2chなどで他府県人が議論しているのによく見られる定義である。
定義2:○○区と○○区と○○区が京都!(行政区による定義)

よくあるのが、「下京区と中京区と上京区が真の京都!南や伏見、山科は論外!」といった論調である。
間違いとまでは言わない。下京・中京・上京は京都の中心部にほぼ匹敵する。ただ、京都の行政区は特段明確な線引きがされてできたものではないという点に注意しなければならない。
例外もある。それは、もともとは別の自治体だった場合だ。伏見区はもともと伏見町・伏見市だし、山科区は山科村だ。
では、例えば下京区全域が完全に「京都」か、というと、そうでもない。下京区の西部についても、もともと西七条村、大内村といった京都とは別の市町村だったりする。中京区についても西部はそうだ。いずれも大正から昭和初期にかけて京都市に編入されるが、それまでは京都市ですらなかった。
確かに、江戸時代以前、応仁の乱のころから「上京」「下京」というものはあった。しかし、かつての「上京」=上京区というわけでもない。上京区の下半分と下京区の上半分があわさって中京区ができていたり(つまり中京という言葉は新しい)と、全くのイコールというわけではない。皆が京都扱いしない南区にしたって、東半分についてはもともと下京区から分区したものであったりする。
これは、祇園祭の山鉾町などに住む選民思想の高い京都人や、成り上がりの億ション(京都市中心部のマンションは異様に高価)に住む人々に見られる定義である
定義3:田の字エリア

五条通、河原町通、堀川通、御池通に囲まれたエリアを、田の字エリアという。
不動産屋がよく使うワードである。
このエリアが京都の中心街であるということは、特段異論はないだろう。四条烏丸~御池のオフィス街、四条河原町といった繁華街を含んでいるばかりか、概ね祇園祭の際に山鉾を取り扱う山鉾町が並ぶエリアでもある。
当然ながら家賃も高い。住めるのは成り上がった成功者か、それこそ昔からここに住んでいる山鉾町の町衆たちである。
しかしながら、あまりにも狭すぎる。
そもそも京都御所が入っていない。天皇は洛外の人間だったのか?上京・西陣も入っておらず、あまりにも乱暴である。
それでもこのエリアに住む人たちは、エリア外に住む人々とは違うという意識を持っているのである。
次は、京都人の中にも結構見られるし、他府県にもこういう認識をしている人の多い定義である。
定義4:京都駅(あるいはJR東海道本線)より北側が京都!

これは、極めて簡単で分かりやすい定義である。
何々区がどうだとか、何々通りと何々通りの間だとか、そんな定義ではない。
ざっくりと、京都駅より北側が京都!範囲はぼやっとしているけど、なんとなくそこから北が京都!というものである。
この定義で認識している人は多い。もちろん、詳細を聞けば「ま、まあ花背とか岩倉までは行かない」とか人によって違うかもしれないが、分かりやすいことと、何よりも住民にとっても観光できたことのある人にとっても、体感と定義がほぼ一致するからではないかと思う。
京都に住んでいると、基本的に生活は京都駅よりも北側の部分で完結する。買い物は四条河原町界隈で済ますか、まあ来たとして近鉄百貨店(もうない)やせいぜい京都駅の伊勢丹である。大阪や東京へでかけるにしても、阪急に乗るか、京都駅まで来て新快速や新幹線に乗るにとどまる。京都駅より南に行くことはないのだ。
観光にしても、京都駅につくと基本的に観光客は京都駅のバスターミナルで206系統で清水寺にいくか、205系統で金閣寺に行くか、地下鉄烏丸線に乗って北に行くか、である。南に行くのは東寺と伏見稲荷のみである。
京都で行動するその範囲が京都駅よりも北側なので、こういう定義になる。
南区民としては、これは完全に南区を排除する論理なので悲しくはあるが、かといって著しく間違っているとは思わない。
ただ付け加えたいのは、京都駅の南側もアツいということである。イオンモールはできて発展著しいし、高速道路もおりている。また、先程出た伏見稲荷についても、関西でもトップクラスの観光客数を誇り成長著しいわけで、これを京都ではないと言い切ることは難しくなってきているのではないか…と思わないでもない。
これは、我々の親世代に見られる定義である。
定義5:市電外周線

京都市電の外周線(地図の青い部分)が走っていたその内側のことである。
京都市電は廃止されてもう何十年と経っているので、市電外周線という言葉自体は中年以上の京都人にしか伝わらないが、この定義自体は聞けば少し納得するものである。
市電外周線はもうないが、要するに西大路通、九条通、東山通、北大路通で囲まれたエリアである。
ここが京都市域である、という。
中年以上の人々には、まだこの意識がある場合が多い。
あながち間違いではないと思う。それもそうだ、市電は当然市街地化されたところを走るわけである。この路線網が完成したのは戦前であるが、外周線の外(特に九条通以南や西大路以西)はまだ田畑が広がる風景であったという。
いまでこそ葛野大路通ができたりして市域は拡大しているが、それでも外周線の外と内とでは、まだまだ発展の度合いは異なっていると思う。
また、市電を引き継いた市バスの路線網もこれに近くなっており、205系統などの循環系統は、市電外周線とその内側を循環するルートとなっていることからも、いまなお市域の定義として生きているように思える。
これは、ある種物理的な定義であり、歴史をかじったことがある人が主張する定義である。
定義6:御土居

その名の通り、御土居で囲まれた中が京都であるというものだ。
知らない人のために説明しておくと、京都にも堀・城郭があった。
wikipediaの記事をコピペしておく。
御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある。築造時の諸文献には「京廻堤」「新堤」「洛中惣構え」などと記される。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。
秀吉が作ったもので、天下が統一されて戦乱も落ち着いてきたころ、応仁の乱以来荒廃していた京の街の大規模な都市計画の一環で作られたものである。京都の市域を取り囲む土塁を建設したのである。
その目的からしても、御土居の中が京都の市街地であったということは、間違いない。
洛中洛外図屏風などで言われる洛中は、基本的には御土居の内側のことと考えられる。
基本的にはこれも間違ってはいない定義であろうと思う。
しかしながら、いささか古すぎるような気もする。
御土居は秀吉の時代に作られ、江戸時代も存続していたが、東側の御土居については早期に破却された。市域は鴨川を超え、東山にまで伸びていくこととなる。
つまりこの定義に従えば、御土居の外に位置する清水寺や祇園は、京都ではないということになる。
江戸時代をさかのぼり、安土桃山時代の定義をそっくりそのまま当てはめるのは、いくら京都とはいえいろいろと不都合であるような気がする。
さて、最後となったが、これは私が一番推している定義である。
定義7:番組小学校の元学区

あまり一般には普及していない定義だが、個人的には一番しっくりきている。
番組小学校というのは、明治維新すぐの明治2年に、京都の町衆たちの手で作られた64の小学校のことである。
これは江戸時代から続く京都の町衆の自治組織が元となってできたものであり、以後小学校の学区は京都の自治組織の単位として機能していく。
今では小学校も統廃合が進み、かつての「学区」と「小学校の通学区域」は一致しないことが多くなってきたが、今もこれらの学区は「元学区」として、自治会や社協、防災などのあらゆる行政単位としてかなり機能しているのだ。
時代がうつるにつれて京都市は周辺の市町村を合併していき成長していくが、その場合でも学区が作られ、自治の単位とされてきた。
京都市全域が元学区ごとに区分けされているのである。
しかし、ここで京都の定義として用いるのは、最初に作られた64の元学区である。
上の地図は一部誤りがあるのだが、概ねこれが最初の元学区の名前と区域である。
私はこれが、今の所いわゆる京都・洛中に相当するところであろうと思っている。
理由は、この範囲が、ちょうど明治維新時点で「京都」とされていた場所であるからだ。この範囲の外は、基本的には全て「○○郡○○村」であった。
その後どんどんと合併していき、今の京都市が出来上がるわけだが、明治の最初はこれだけが京都であったのだ。
また、この範囲であれば、ちゃんと東山の祇園界隈なんかが入っている。南区民としては東寺一帯がギリギリ含まれていないのが残念だが、実は東寺一帯も、かつては葛野郡西九条村であったことから、たしかに明治維新の時点では狭義の京都ではなかったということになる(残念)。
なお、この元学区、確実ではないが見分け方がある。
それは住所である。
元学区の名称は住所には現れないが、ある程度の法則がある。
それは、番組小学校の元学区と、それ以外、つまり明治維新以降に京都に編入したエリアの住所は、表記の仕方が違うのである。
例えば、上の例で出た西九条村については、かなり早い段階で京都市に編入されるのだが、今では
「京都市南区西九条○○町」
となっている。
同じように、上賀茂神社の付近も昔は「愛宕郡上賀茂村」であったが、今では「京都市北区上賀茂○○町」となっている。
他にも、
葛野郡西院村は京都市中京区西院○○町、
紀伊郡下鳥羽村は京都市伏見区下鳥羽○○町、
という具合になっている。
そう。
明治維新以後に合併したエリアは、かつての村名や大字の名前が、町名の前に大字のような形で残っているのだ。
一方で、64の元学区のエリアについては、このとおりではない。
かつて村ではなかったから、町名の前に大字みたいなのはつかない。
よって例えば、
京都市下京区丸屋町
京都市下京区長刀鉾町
京都市中京区上本能寺前町
という具合に、単独町名になる。
しかしながら、ここで問題が起きる。
例えば丸屋町は、下京区には3つもあるのである。
単に上記のように表記してしまっては、判別がつかない。
そこで、他府県には悪名高い(?)あの表記が生まれるのである。
京都市下京区御幸町通仏光寺上る丸屋町
京都市下京区堀川通正面下る丸屋町
といったように、通り名の座標で区別するアレである!!!
あの住所表記は、他府県人にいけずをするためではなく、重複町名の判別という意味もあって生まれたわけである。
つまり、番組小学校の元学区のエリアについては、旧村名がついていない住所表記で、かつ通り名が示されているものが多く、それ以外の明治維新以降に合併したエリアについては、旧村名がついている場合が多い、という見分け方ができるのである。
ただし、もちろん例外は少なからずある。単独町名でも番組小学校元学区ではない地域もあるし、旧村名がついている住所でも、便宜上通り名を併記している場合も多い。また、元学区についてもほぼそのまま踏襲しているとはいえ、多少の変遷はあるから、これが完全とは言えないが、一つの参考にはなろう。
番組小学校元学区=洛中とすると、我が家や親の実家ももれなく外れて名実ともに洛外の人間となってしまうわけだが、まあ、なんというか、「洛中洛外図屏風」という言葉にもあるとおり、九条ネギなどの京野菜を洛中に献上していた洛外含めて京都だといえるから、気にはしていない(目には大粒の涙)。
