「何もしない」
社福士として、ソーシャルワーカーとして、
支援をする時、
人間はついつい「何かしなくちゃ」と思いがちだ。
ついつい介入する。
自分がその状況について、悪化させる要因とも知らず。
生活困窮者の主任相談支援員をしてるとき、
よく役所の係長たちとケンカしたものだ。
「何もしなくていいの?支援してないじゃないの?」
とか、よく言われた。
うるせぇな、こっちは相手を信頼してるからこそ、
頑張ってる相手に何も言わねぇんだよ。
みたいな言葉の応酬を何度したことか。
沈黙は信頼の証だと、
大人になってつくづく思う。
仕事だってそうだろう。
なんやかんや言うてくる奴は
絶対に私のことを信頼していないわけだ。
部下に仕事を任せたら普通は
いちいち介入したりしないだろう。
一方で、似て非なる言葉が福祉界隈にはある。
「見守り」だ。
「見守り」と称して放置しているという状況を
私は何度も見てきた。
「見守りをしています」
とか言いつつ、
後手後手になってSOSをようやく受け取る。
最悪、ことここに至ってもとり逃すことがある。
これは明らかに怠慢だ。
しかしこれら二つは傍目にはわかりにくい。
係長が言ってきたことも今になるとわからんでもない。
が、当時は相当にウザかった。
私と当事者で立てた支援プランに介入するんじゃねえ。
部下への割り振りと介入タイミングの指示は、
上司たる私が指示するから黙ってろとよく思ったものだ。
人間は信頼されているかどうかについて、
敏感に感じ取る生き物だ。
両者を分けるものは何か。
私が思うに、
責任を引き受ける覚悟があるか、
相手を信頼し、自分が信頼されているという確信が
あるかどうかという点に尽きるのではないだろうか。
親という立場からしてもそうだ。
大体の場合、親を無条件に信頼するものだ。
親が加害行為を子にしている場合は除くが。
「親」って文字は
木の上に立って見るって書く。
見てないとダメなんだ。
私の子も至らないことはたくさんある。
というか、至らないことだらけだ。
けど、私は基本あまり叱らない。
妻が叱るからだ。
妻は見つつ介入する。
私は見つつ、本当に必要時だけ介入する。
立派な役割分担だ。
けど、両者共に、相手を見つつ信頼し、
されているという点では共通だ。
この点、どちらがいいか悪いかはない。
話をソーシャルワークに戻そう。
結局のところ、
信頼が成立していないところに
余計な介入は生まれがちだということ。
それがさらに信頼喪失を生むということ。
愛だってそうだろ。
不安になるから「愛してる」という言葉が欲しい、
不安になるから「愛してる」という言葉をかけたい。
まぁけど、
愛は言葉にしなきゃわかんないことだってあるから、
私は大切にな人には言いたいね。
あいしてる、と。
他に余計な言葉はいらねぇかな。
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ご清読ありがとうございました。
