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「三極志の会」~第4回歴史好きライター交流会~


はじめに

今年も去年に引き続き、歴史好きライター交流会を開催出来ることになりました。メンバーであるしまのかみ@経学×日本史さんには心から感謝します。この会は不定期に仲間のライターが作品を寄せ合って紹介しあうという集まりです。不定期にしているのは、定期にすると義務になるからです。義務になると詰まらなくなりますし、続けるのが面倒くさくなります。何事もやれる時にやるのが良いと思います。

さて前置きはそれまでにして、今回の作品をご紹介していきましょう。

今回の参加記事は…

吉田松陰に関するハートフルなストーリですね。私は特段幕末に詳しくないから、松陰といえば維新の英傑達の先生、ぐらいにしか思わないんですが、こういう記事を見ると、何かホッとしますね。しまのかみ@経学×日本史さんは、時にこういう歴史の偉人の心温まる歴史の一コマを記事として書かれるので、中々センスの良い歴史ライターさんかなあと思っています。

誰だって表の顔、プライベートな顔の二つを使い分けていると思います。きっと松陰もそうだったんですね。歴史上の人物というと、教科書でしかお目にかからないという人もいるでしょうが、舞台を降りたら彼らも普通の人間なんです。家族もいますし好きな人もいます。仲のいい友達だっています。そういう人の前では「素」の自分をさらけ出せますね。気の置けない仲と言うヤツです。最近では、気の許せない仲だと勘違いされてるようですが、気が置けないというのはラフに振る舞える間柄ということで良い意味ですね。龍馬も確か仲の良い姉に対してよく手紙を書いてましたね。龍馬の本当の役割は、薩長同盟や船中八策といったカッコいいことは一切やっておらず、幕末の群雄の書いた手紙を届けるポストマンだった、ということのようですね。しかし単なる郵便配達じゃあありませんからね。龍馬だから伝えらることがあるんですね。彼でないとダメだった、と私は思います。龍馬は表舞台で派手に立ち回るよりも、裏方に回って、維新の屋台骨を支える役割だったんですね。

まあ、当時はlineもないしメールもありませんから、手紙を書くしかありません。しかしこの手紙と言うのは、基本的には直筆(大名なんかは別)ですから、周りの空気感まで一緒に伝えることが出来ると言いますかね、ある意味リアルな感情が伝えられるのかなあ、なんて思いますね。直筆ってのは、見えない物を伝える力があると思うんですよね。

松陰が妹のことをもしかしたら好きだったかも?みたいなワクワクさせる記事でした。是非皆さん、しまのかみ@経学×日本史さんのnoteへ訪れてみてください。

しまのかみ@経学×日本史さん今回もありがとうございます。次回もよろしくお願いします。では次に、私が書き下ろしたエッセーをお届けします。

典型的日本人マインドが引き起こした歴史的事件~“元禄赤穂事件”を通して「日本人」を見る


すっかり地上波から消えてしまった仇討ち物語

昭和な私からすると、ひと頃の年末「第九」「紅白」「忠臣蔵」だったんですけども、最近は第九紅白は相変わらずですが、「忠臣蔵」についてはさっぱり見かけなくなりました。まあ確かに“仇討ち物語”なんて若い人にはウケないでしょうね。

屈強な47人の男たち(赤穂浪士)が、ヨボヨボな一人の老人(吉良上野介義央)を集団で襲ったテロ事件。そんなショッキングな事件徳川綱吉治下の日本で起こりました。これを日本史上元禄赤穂事件と呼びます。

忠臣蔵とは何ぞや?「元禄赤穂事件」を元にして江戸時代に作られた人形浄瑠璃や歌舞伎の有名な演目です。忠臣が蔵一杯に詰まってる、そんなイメージから名付けられたとかなんとか…。江戸時代版AKB48とでも言ったら良いでしょうか。

物語はこうして作られる…

「忠義」はいつから?

実はこの元禄赤穂事件というのは、日本人が持っている典型的なマインドによって引き起こされた事件だと私は思っています。ですから、この事件を通して「日本人とは何ぞや」ということが透けて見えて来るのです。典型的な日本人マインドとはいかなるものか?

①過度な同調圧力
②他人のことがやたらと気になる
③上の言うことには素直に従う(忠義心)

まあこんなところです。私の持論ですが、この3点はいずれも江戸時代に確立されて行ったと思います。この中で特に③の忠義心ですね。これは明らかに江戸時代以前にはスタンダードな考えではありませんでした。例えば戦国時代ですね。明智光秀が信長を「裏切り」ましたけれど、これは信長の視点から見た場合であり、光秀の視点からすれば裏切ったわけでなく、それなりに理由があってやったことです。(その理由は定かではありません)この時代はまだ主君に対する忠義などという考え方は武士たちに定着していません。戦国時代は文字通り生き死にを懸けた戦いの時代でしたから、そんな思想にこだわって命を捨てる武士はほとんどいませんでした。それが戦国時代の実情なんです。面白いのは、光秀が書いたとされる「明智軍法」に「塵芥のような自分が信長に拾われて出世したから、信長に忠義を尽くす!」なんて書いてあるんですね。この文章を書いた1ヶ月後位?に本能寺の変をやっちゃってますから。言ってることとやってることが違うじゃん光秀。でもそれが当時の常識なんですね。忠義という物の存在は知っていても、武士たちにとってそれが全く足枷にはなっていないのです。状況が許せばどんどん主君を裏切ります。当時はそんな認識だということです。それが江戸時代になるとガラッと変わります。朱子学(儒教)が日本の隅々にまで浸透したからですね。

仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌


「南総里見八犬伝」
でお馴染みの漢字ですね。ざっくり言うとこれが儒教の精神になります。文字を見ただけで何となく何を言っているのか分かりませんか?それだけ私たちのマインドに、儒教の精神がしっかり刻まれているという証拠です。この中で「悌」は少し分かりにくいかもしれませんね。兄や目上の者素直に仕えることを意味します。

儒教は孔子の教えがベースとなっています。その昔、日本では貴族や僧侶の間の「教養」として儒教は親しまれていました。その程度でした。ですから武士は基本的に内容を知らないんですね。でも、もしかすると家康は若い頃から知っていたかもしれません。今川家で人質となっていた頃、禅僧太原雪斎から読み書きを教わっていた、なんてもありますから。(本当かどうかは分かりません)江戸時代になって寺子屋制度によって識字率が飛躍的に向上した、なんて言われますけど、そこで使われたのが儒教にまつわる書籍でした。

「子のたまわく」なんて時代劇で聞いたことありませんか?まさに「論語」を読んでいるんですね。論語は儒教の根幹をなす重要なテキストです。なぜ儒教のテキストを使ったのか?簡単ですね。儒教が為政者にとって非常に都合の良い性格だからです。忠・孝・悌なんてまさに将軍様にとってお得な考え方です。「目上の言うことには素直に従うんだよ。それが人としての道なんだよ」とね。上に挙げた③のマインドは、まさにこうして形成されていったんです。①と②に関しては、江戸時代の「五人組」制度が大きく影響していると思います。農民統治において連帯責任を負わせたんですね。「何かあったらお前ら全員牢獄送りだからね。ちゃんとしてね」ってことです。そんな状態が260年以上続いたんですから、そりゃあ同調圧力も強くなりますし、周りが何をやっているのかも気になりますよね。

私は儒教そのものが悪いとは全く思いません。寧ろ儒教は自らの身を律するには最適な思想だと思います。しかし包丁と同じですね。それを誰がどう使うのかが問題なんです。対自分ではなく、他者を統べる目的で利用するのであれば、庶民にとっては恐ろしい刃となります。儒教の忠・孝・悌といったイメージが儒学者によって拡大解釈され、為政者が恣意的に運用することで、格上の人間には従順であれ、という規範が成立し民草がそれに倣い大人しくなる。江戸時代はまさにそういう新しい「秩序」が作られて行った時代だと思います。つまり、皆さんが普段味わっている日本人的なマインドが形成されて行ったんですね。

幕府が儒教(朱子学)を奨励することで、大名から末端の農民まで、儒教の教えがまんべんなく伝わります。そうやって為政者にとって都合の良い国民性に変えていったのです。以上の観点から考えて、江戸時代は現代日本人のマインドが完成された時代と言って良いと思っています。それを踏まえた上で、元禄赤穂事件を見て行きます。ただし、本稿では事件のディテールについては触れません。それが目的ではないので。当時の様々な階層の人々が、この事件をどのように見ていたのか、或いは彼らのマインドがどう事件に影響したのか、そういったことを見ていこうと思います。

本当に喧嘩両成敗だったのか?

江戸時代には「喧嘩両成敗」というルールがありました。それは刀を抜いてお互いが斬り合った場合、両方が処罰されるというものです。元禄赤穂事件浅野内匠頭長矩が一方的に吉良上野介を刀で斬りつけたものです。上野介は一切応戦していません。ただ逃げるのみでした。その事実に照らし合わせれば、喧嘩とは言えず両成敗のルールは適応されません。刀を抜いた内匠頭だけが処分されるのは理の当然です。ところが赤穂浪士たちはその幕府の決定に異を唱えるんですね。「これは喧嘩なのだから、吉良が処分されないのはおかしい」と。これは将軍の裁定がロクな詮議も無く「即日切腹」&赤穂藩取り潰しという大変に厳しい処分に対する反抗とも取れます。本来、大名が絡んだ事件なのですから、ちゃんとした詮議を行って時間を掛けて決済するんですね。ところが綱吉はそうせず即断しました。なぜ綱吉はそうしたのでしょうか?それはその日が綱吉にとって特別な意味合いがあったからです。その特別の日を内匠頭にぶち壊されたので激怒したんですね。どういうことなのか?

綱吉はマザコンとして有名な将軍ですね。彼の母親の桂昌院は八百屋の娘だったという説もある程大した身分の人ではありません。かねがね綱吉はそのことを気にしていたんですね。「お母さんに立派な官位をあげて汚名を晴らしたい!」そう考えたんです。そこで朝廷に対して従一位というとんでもない高い位を要求するんです。従一位といえば、あの秀吉の奥さんである高台院(北政所)が貰った官位ですね。高台院はその資格があります。秀吉を陰日向で支えた功績があります。ところが、桂昌院は将軍の母親という肩書だけです。それだけです。朝廷もだったでしょう。しかし将軍家は朝廷の最大のスポンサーですからムゲには出来ません。その日はまさに勅使がやって来て、そういう話を詰める絶好のチャンスだったんです。ところがそれが血で汚されぶち壊しになりました。そりゃあ綱吉が激怒するのも無理はありません。下手をすると叙任が取り消される恐れさえあります。即日切腹と言う処分に綱吉の怒りの程が伺えられます。ところがこの怒りによる安易な決定が、その後の討ち入り事件のトリガーとなるわけです。

先程、江戸時代には主君に対する忠義心が確立された、と書きました。まさに取り潰された赤穂藩の浪人たちにとって、世の中に忠義を示す必要が生まれたのです。そこで「喧嘩両成敗」という論法に至ったのだと思います。実際がどうであったかは関係ありません。「幕府がやらねば俺たちがやってやる」ということですね。リーダーである大石内蔵助お家再興の望みが絶たれた段階で仇討ちすることにします。幕府にお家再興を何度も願い出ますが、当然却下されます。③のマインドですね。幕閣は将軍の裁定に素直に従うんです。将軍がお家取り潰しを決定した以上、それを覆すことは出来ません。そんなことをすれば、将軍に対する忠義が問われます。幕閣にとってそれは命を張っても出来ない相談なのです。一方の赤穂浪士たちにとって、お家再興は忠義の表れ。何としても達成したい。しかしその望みが絶たれた以上、主君の「仇」を家臣が討つ。それこそが忠義心というもの。そういうマインドに傾いていくわけです。幕府と赤穂浪士、お互いの忠義が交わらないんですね。

SNSが無いにも関わらず…

にわかに江戸の庶民たちが事件を知って騒ぎ始めます。昔はSNSなどありませんけれど、噂が噂をよびますね。江戸中が赤穂浪士たちに対して「仇討ち」しろという同調圧力をかけ始めます。仇討ちしないのは勇気が無いからだと勝手に決めつけたり、赤穂浪士には忠義心が無いのかと煽ります。今でもマスコミが社会を煽りますよね。この時代はまだマスメディアがあまり発達していないので、社会自体が煽りの主体となります。そうした声は当然江戸市中に潜伏する浪士たちに届きます。相当なプレッシャーだったでしょうね。彼らは当然失業中ですから、給与をもらって生活は出来ません。内職をして日銭を稼ぐのがやっとです。当初は潤沢に用意されていただろう支度金も底を尽きかけます。リーダーである大石に対して、浪士たちも討ち入りを催促します。庶民は面白ければ良いのです。赤穂浪士たちの心情などどうでも良いんです。やれやれの大合唱です。大石の心情たるや同情に禁じえません。

そんな庶民の声がやがて江戸城にも届くようになります。そうすると奇妙な現象が発生します。なんと江戸城に登城する大名たちの中から、赤穂シンパが現れるんです。今でもそうですよね。世論政治家は気にします。選挙で得票しないと自分たちが失業しますから、ウケることを言わないといけません。昔もそんなものです。大名たちは世論が赤穂浪士たちに傾いていると知るや否や、そっち側に付こうとします。当然幕閣も将軍も困ります。これまた不思議なことが起こります。何と幕府は吉良に引っ越しを命じるんですね。元々吉良の屋敷は江戸城内にありました。吉良は高家であり勅使饗応役なので、幕府にとってその方が便利だったのでしょう。ところが、「どうやら赤穂浪士が討ち入りを計画しているらしい」という話がまことしやかに囁かれるようになると、それに敏感に反応したのでしょう。吉良の屋敷を本所(現在の墨田区)へ移設したのです。城内で討ち入られたとあっては、幕府の沽券に関わります。それはマズいわけです。これでは幕府も討ち入りを「どうぞやってください」と言っているようなものです。将軍の裁定を見直すことは出来ないので、赤穂浪士たちが勝手にやるなら仕方ない、そんな風に思えます。完全な責任放棄ですね。今も上司の責任放棄というのはどこの職場でも見受けられます。時代が変わってもやってることは同じなんです。吉良サイドも当然そうした雰囲気は感じており、警備の強化なども行いますが討ち入りは成功します。

芥川也寸志の名曲です…

綱吉は自分の裁定が引き起こした事件に関して、世論がこんなにも騒ぐとは思っていなかったと思います。綱吉の裁定は確かに強引ではありましたが間違ってはいません。ところが、赤穂浪士たちは「忠義」の概念を引っ張りっ出してそれは「間違っている」と考えます。将軍が誤りを正せないのだから、自分たちが代わりに成敗するという論法ですね。彼らが忠義を前面に出して行動してますので、将軍と言えどもそれを頭から否定することは出来ません。幕府内でも喧々諤々の論議が繰り返されたようです。庶民や大名からは天晴な忠義心だから、赤穂浪士たちを無罪放免にするべきだ、などという意見が続出します。世論は圧倒的に忠義を礼賛しています。とはいえ、無抵抗な老人を襲ったテロを許せば、幕府の秩序を乱すことになりますし、彼らを許せば、将軍の裁定が「間違っていた」と認めるようなものです。それは絶対に出来ません。しかし世論は圧倒的に赤穂浪士たちに傾いています。困った末に出した答えが浪士たちの「切腹」でした。切腹は武士にとって名誉な死です。死で罪を償わせるわけですが、単なる死罪ではなく名誉ある死を与える。それによって彼らは「伝説」になるのです。江戸庶民は演劇を通じて彼らの忠義を賞賛し続けました。彼らが「赤穂義士」と言われる所以です。忠義の士ということですね。しかし考えてみてください。誰が一体討ち入りを煽ったのか?散々煽っておいて、赤穂浪士たちを切腹させ、挙句に「義士」として祭り上げる。世間という物はなんと勝手な生き物なのでしょうか。こうした精神構造は、令和の今となっても何ら変わりません。と言うか、こういうメンタルが醸されたのは、江戸時代だったということなんです。

世論は怖い

今や歌舞伎好き以外は誰も顧みることの無い「忠臣蔵」の世界は、こうして作られて行ったのです。その意味で、元禄赤穂事件は世論(大名や庶民たちの)によって誘導された結果生じた事件だったと断じることが出来るでしょう。世論とは人を死地に向かわせながら「美談」として終わらせる。実に恐ろしいですね。

                              恐々謹言



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