ハイランク 第4話:「黒い霧 ― 港町の夜」
港町の夜は静かだった。
潮騒だけが、窓の外から絶え間なく聞こえている。
それまで杯を傾けていた二人の間に、ふと沈黙が流れた。
ターネットは、深く椅子へ腰を下ろしてユーサーに向き直る。
それに応えるように、ユーサーは机の上へ一枚の地図を広げた。
そこには王都周辺から港町までの街道沿いにいくつかの赤い印が記されていた。
「これは?」
ターネットが尋ねる。
「最近起きた事件の場所だ」
ユーサーの表情から笑みが消える。
「商隊の失踪、護送隊の全滅、村人の行方不明。しかも全部、この街道沿い」
ターネットは地図を見つめた。赤い印は港へ近づくほど密集していた。
「野盗か?」
ユーサーは静かに首を振る。
「最初は皆そう思っていた。だけど違う、遺体には傷がほとんど無い。なのに全員、恐怖に顔を歪めたまま死んでいたそうだ」
部屋の空気が少しだけ冷える。
「まるで、魂だけを奪われたようだったと」
その一言に、ターネットの胸が僅かに疼いた。
――魂。
昔、父タニスから聞いた言葉。
『魂を蝕む敵とだけは戦うな。剣では届かぬ敵もいる』 その意味が今になって胸へ刺さる。
その時だった。
コンコン、と控えめだが切迫した様子で扉が叩かれる。
「失礼します」
宿の少女が青ざめた顔で入ってきた。
「お客様……外で、広場の方で騒ぎが……!」
ただならぬ気配に、ユーサーとターネットは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。
二人は宿を飛び出し、石畳の坂道を駆け下りた。
夜の冷気が頬を刺すが、それ以上に異様な圧迫感が町を包み込んでいる。
「あっちだ!」
ユーサーが指差す先、港町の広場には松明の火が揺れ、人々が遠巻きに円を描くように集まっていた。
人混みをかき分けて中央へ出ると、そこには一人の老人が石畳に膝をつき、激しく震えていた。
「あいつが来る……黒い霧が……海の底から……」
老人は誰もいない空間を指差して叫ぶ。
その瞳には焦点がない。
突然、老人は首が折れんばかりに大きく仰け反った。
「逃げろぉぉぉぉ!!」
老人の喉を借りて、別の何かが這い出してきたかのような、低く唸る絶叫。
次の瞬間、見開かれた目や口から黒い霧が噴き出した。
「!!」
群衆が悲鳴を上げ、噴き出した霧は一瞬で霧散した。
老人は糸が切れたように崩れ落ちる。
「精神だけが抜け落ちている」
ユーサーがその場に膝をつき、震える手で老人の容体を確認する。
「こんな現象、初めて見る」
博学な彼ですら、目の前の異常事態に言葉を失っていた。
古文書に記された禁忌の儀式か、あるいは自然界の理が歪んだ結果なのか。
彼の脳裏で、これまでに蓄積した膨大な伝承や奇聞が駆け巡る。
ユーサーは苦渋に満ちた顔で眉根を寄せた。
その時ターネットの鼻腔を、微かに、焦げ付くような魔力の残滓が掠めた。
ターネットが厳しい表情で後ろへ振り返る。
「いや……、気のせいか……」
実体として捉えることはできなかった。
しかし、それは確かに、何者かが残した禍々しい魔力の痕跡だった。
先ほどまでいた群衆が次第に散り、港町全体に湿り気を帯びた濃い霧が立ち込めてゆく。
そして潮の匂いは消え、代わりに鉄錆のような、鼻を突く不快な臭いが漂い始めた。
海が見えない、月も見えない、肌を刺すような急激な冷気が、二人の外套を濡らす。
静寂……そして、港の沖合から、鐘とも歌ともつかない、頭の芯を掻き毟るような奇妙な音色が響いた。
キィィィィ……
人間ではない、風でもない、まるで金属が共鳴するような音。
「行こう!」
ユーサーが剣へ手を添える。ターネットも頷いた。
二人は霧の港へ走り出した。
その途中、背後から少女の叫び声が響く。
「誰か!!助けて!!」
振り返ると十歳ほどの少年が、意志を持つ生き物のような黒い霧に飲み込まれ、宙へ浮かび上がっていた。
少年の体は、まるで見えない巨大な手に掴まれたかのように、海へと引きずられていく。
「くっ!」
ターネットが駆け出す。
その瞬間、彼の瞳が深紅の光を放った。
視界が反転する。
霧の流れ、少年の鼓動、すべてが止まった世界の中で、ターネットは霧の奥に潜む『影』の輪郭を捉えた。
(そこかッ!!)
剣を抜く、鋭い一閃、しかし、物理的な刃は手応えなく影をすり抜けた。
(父さんの言った通りだ……剣は届かない!)
戦慄が走る。
だがその時、ターネットの瞳の輝きに呼応するように、剣から螺旋状の青い光が溢れ出した。
「逃がさない!」
光を纏った切っ先が影を切り裂く。
手応えのなかったはずの影が激しく飛散した。
(……貴様、なぜその力を……!)
影はたじろぎ、少年の四肢を放した。
不気味な声が響く。
「……まだ目覚めてはならぬ、再生は……まだ……始まったばかりだ」
影はそのまま黒い霧へと姿を変え、闇の深淵へと溶け込んでいった。
やがて周りを覆っていた霧は潮風に溶けるように霧散し、気を失った少年だけが残された。
ターネットは静かに剣を納める。
振り返ると、ユーサーは鋭い眼差しで黒い霧が消えた場所を見つめていた。
ユーサーは少年のもとへ駆け寄り、その首筋に指を当てた。
「……眠っているだけだ。だが、先ほどの老人と同じように、ひどく冷え切っている」
「……一旦、宿へ運ぼう」
ターネットの言葉にユーサーは短く頷き、少年を抱え上げた。
宿に戻り、少年を部屋のベッドへ寝かせると、先ほどの少女が涙を浮かべて礼を言った。
少年の無事を確認して、二人は部屋へ戻り、扉を閉めた。
窓の外では、先ほどまでの濃霧が嘘のように晴れ、月光が静かに差し込んでいる。
「ターネット」
ユーサーの声が、微かに震えていた。
「ターネット……。一体何なんだ? あの赤い瞳、それに剣が纏った光……あれは、いったい……」
ユーサーの瞳には、心配以上に『理解できない事象』に対する根源的な恐怖が滲んでいた。
ターネットは、自身の掌をじっと見つめたまま答える。
「……自分でも、よく分かっていない。ただ、あの影は俺の瞳を見て、明らかに動揺していた」
それは偽らざる実感だった。
父から教わった剣技のどれを紐解いても当てはまらない、理の外側に触れたような奇妙な感覚が、今も指先に痺れとして残っている。
あの瞬間、自分は確かに『剣』とは別の何かを振るっていた。
「そうか……再生は、まだ始まったばかりだ……影はそう言っていたな」
ユーサーは腕を組み、地図の上の赤い印を指でなぞった。
「もし、この事件が単なる魔物の仕業ではなく、世界を揺るがすような何かの予兆だとしたら……」
ユーサーはそのまま地図をじっと見つめ、厳しい表情で海を指した。
「この事件は偶然ではない。もし影が意図を持って現れたのなら……王都へ報告に戻るより先に、確かめるべきことがある」
そのまま地図の海岸線を指でなぞり、ターネットを真っ直ぐに見据えた。
「予定を変えるぞ。このまま北上し、古の伝承が残る『静寂の神殿』へ向かう。あの影の正体を知る手がかりがあるはずだ」
ターネットは窓の外、穏やかさを取り戻した海を見つめた。
(まだ目覚めてはならぬ……)
あの禍々しい残響が、今も意識の奥で疼いている。
まるで自分の中に眠る、自分ですら知らない『何か』を呼び覚まそうとしているかのように。
「ああ、俺も確かめたい」
ターネットの決意を秘めた瞳は、今はもう、いつもの色に戻っていた。
運命の歯車は確実に、音を立てて回り始めている。

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