見出し画像

世界心霊用語史・概念移動史③魂・霊・心・身体・肉は、いつ別々になったのか――分離史ではなく、anima / spiritus / mens / corpus / caro をめぐる重複語彙ネットワークの再配置史




世界心霊用語史・概念移動史③

魂・霊・心・身体・肉は、いつ別々になったのか

――分離史ではなく、anima / spiritus / mens / corpus / caro をめぐる重複語彙ネットワークの再配置史

はじめに――結論を先に言えば、「別々になった瞬間」はない

ここまで二つの概念移動を追ってきた。

第一稿では、

psychē / pneuma / nous
        ↓
anima / spiritus / mens

というギリシア語からラテン語への移動を扱った。

第二稿では、

nefeš / rūaḥ
      ↓
psychē / pneuma
      ↓
anima / spiritus

という図そのものを再検討し、実際にはヘブライ語・ギリシア語・ラテン語を結ぶ複数経路の翻訳ネットワークだったことを見た。

では、そうしてラテン語世界へ集まってきた、

  • anima

  • spiritus

  • mens

  • corpus

  • caro

は、その後どうなったのだろう。

日本語なら、おおよそ、



心・精神
身体

となる。

ここで非常に強い誘惑が生じる。

人間
├─ anima
├─ spiritus
├─ mens
├─ corpus
└─ caro

という五つの部品表を作りたくなるのである。

しかし、本稿の結論は逆である。

この五語が、人間を構成する五つの独立実体として固定された歴史はない。

さらに言えば、

「五つの部品ではなく五つの座標軸である」と整理するだけでも、まだ整いすぎている。

animaは生命だけを担当しない。

spiritusは神との関係だけを担当しない。

mensとanimusは重なる。

caroは否定的な「肉に従う生き方」を表す一方で、受肉と復活という肯定的な救済語にもなる。

corpusとcaroも完全には分離できない。

そこで本稿では、この五語を、

この章で特に追跡する五つの主要な語彙ノード

として扱う。

そして、その周囲にanimusなど別の語も存在することを最初から認める。

今回追うのは「五語の分離史」ではない。

既存の生命・認識・身体語彙が、聖書翻訳、古典哲学、教父神学、典礼、制度の中で何度も重ね直され、「人間をどの問題について、どこで切って記述するか」が変化した歴史

である。


1 そもそも新約聖書の語を「部品表」と読むべきか

問題はラテン語化以前から存在する。

第一テサロニケ5章23節には、

  • pneuma

  • psychē

  • sōma

の三語が並ぶ。

後代のラテン語本文では、

spiritus
anima
corpus

となる。

ラテン語本文も、

integer spiritus vester, et anima, et corpus ... servetur

という三項を実際に持っている。

ここから、

人間
=
霊
+
魂
+
身体

という三実体説を作ることは可能である。

しかし、三語が列挙されているという文法上の事実から、三つの独立実体が存在するという存在論は導けない。

この問題をめぐって、新約研究にも長い論争がある。

Bultmann以降、パウロのsōmaを単なる物理的肉体ではなく、「自己」「人間全体」をある側面から記述する語として読む有力な研究伝統が形成された。一方、Robert Gundryは、sōmaの身体的指示をより強く取るべきだと体系的に反論した。したがって「パウロの人間論語彙は全部、全人格の側面を表す」という説明自体も、無争点の定説ではない。

本稿は、この論争そのものを決着させることを目的としない。

重要なのは、

新約の語彙をそのまま固定された人体部品へ変換することも、逆にすべてを単なる言い換えとして同一化することもできない

という点である。


2 「ラテン語聖書」は一つではなかった

ここで時間軸を正しておく必要がある。

ギリシア語新約聖書が存在し、その後に「ラテン語聖書」ができ、そこからテルトゥリアヌス、さらにアウグスティヌスへ進んだ――という一本線ではない。

ヒエロニムスより前から、複数の古ラテン語聖書、いわゆる Vetus Latina / Old Latin が存在していた。

現存するOld Latin写本にも、書物によってOld Latinの本文と後代のVulgate型本文が混在するものがあり、単一の標準ラテン訳が一度に全共同体を置き換えたわけではなかった。

したがって、概念移動は、

ギリシア語新約
       ↓
複数のOld Latin訳
       ↕
初期ラテン教父
       ↓
4世紀末以降の改訳・標準化
       ↕
後期古代のラテン神学

という相互作用系として見た方がよい。

つまり、

翻訳された語を神学者が受け取った

だけではない。

神学者自身の語彙選択、引用、解釈も、後代に伝わるラテン語聖書環境の一部になる。

前稿で扱った「翻訳ネットワーク」は、同一言語の内部でも続いていた。


3 corpus animale / corpus spiritale――身体は消えるのか

第一コリント15章44節では、ラテン語本文に、

seminatur corpus animale, surget corpus spiritale

とある。

「動物的・魂的身体が蒔かれ、霊的身体が復活する」という対比である。

ここで重要なのは、

corpus
→
消滅
→
spiritus

とは書かれていないことである。

両方とも corpus である。

corpus animale
        ↓
corpus spiritale

という同一名詞を保った対比になっている。

したがって、この箇所を少なくとも「身体を捨てて霊だけになる」という単純な身体否定として読むことは難しい。

ただし、ここにもUマーカーが必要である。

ギリシア語の sōma pneumatikon を、

  • Spiritによって生かされ、支配される身体

と読むのか、

  • pneumaをより実体的・物質的な構成原理として含む身体

と読むのかについては、パウロ研究に議論がある。古代のpneumaを物質的・生理的なものとして理解する研究を踏まえれば、後者の可能性も完全には排除できない。

そして、ここには翻訳史として別の問いが生じる。

sōma pneumatikon
       ↓
corpus spiritale

と移されたとき、ギリシア語pneumaが持ちえた物質的・生理的含意は、ラテン語spiritusの読者にどの程度保存されたのだろうか。

翻訳はここでも、単に語を置き換えただけではない。

読める存在論の幅を組み替えた可能性がある。


4 caroとcorpus――「肉」と「身体」はきれいには分かれない

ローマ8章では、

secundum carnem
肉に従って

と、

secundum Spiritum
霊に従って

が繰り返し対置される。

しかし、同じ章では、

corpus quidem mortuum est

とcorpusが現れ、さらに終末的救済として、

redemptionem corporis nostri
われわれの身体の贖い

が語られる。

このため、

caro
=倫理的・関係的な「肉」

corpus
=救済される物理的身体

と整理したくなる。

しかし、これも完全には成立しない。

ラテン・キリスト教伝統は、身体の復活を **resurrectio carnis――「肉の復活」**とも告白した。

使徒信条の伝統的表現そのものが carnis resurrectionem である。

つまり、caro自身が復活の対象になった。


5 caroは否定される肉であると同時に、救われる肉でもある

この点を最も鮮明に示すのがテルトゥリアヌスである。

彼の著作の題名自体が、

De Resurrectione Carnis

「肉の復活について」

である。

さらに第8章には、有名な、

caro salutis est cardo

という定式がある。

直訳すれば、

「肉は救いの蝶番である」

となる。

テルトゥリアヌスは、肉が洗われ、塗油され、しるしを付けられ、按手を受け、キリストの身体と血を受けるという、具体的な身体実践を並べ、それとanimaの救済を結びつける。

したがって、

caro
=悪い肉体

という固定対応は成立しない。

caroには少なくとも、

caro
├─ secundum carnem
│   神ではなく人間自身を基準として生きるあり方
│
├─ incarnatio
│   神が引き受ける肉
│
└─ resurrectio carnis
    復活し救済される肉

という複数の配置がある。

同じ語が、倫理的な否定軸と、救済論的な肯定軸の両方を担う。

これは「語=一つの座標軸」という整理が成立しないことを示す、非常に強い例である。


6 アウグスティヌスも「肉=悪い物質」とはしない

アウグスティヌス『神の国』第14巻も、caroそのものを悪い物質とは扱わない。

彼はパウロの「肉に従って生きる」という表現を論じ、caroが部分によって人間全体を指す場合があることを説明する。また、身体的被造物そのものを悪の原因とはしない。

したがって、

「肉に従う」

を、

「物質的身体を持っているから悪である」

と読むべきではない。

より適切なのは、

神ではなく、人間自身を自己準拠として生きるあり方

という関係的な読みである。

ここでもcaroは、「人体を構成する肉」という解剖学的語だけではない。

しかし同時に、受肉と復活では文字通りの肉体性へ再接続される。

つまり、

同じ caro
↙            ↘
存在様式       身体的現実

という複線を持つ。


7 animaも一つの存在論には固定されなかった

ではanimaはどうだったのか。

ここでも、語から存在論を直接読み取ることはできない。

テルトゥリアヌス『De anima』第5章では、ストア派の議論を援用しながら、魂をcorporeal substance――物体的実体として論じる。

彼は、魂と身体が互いの苦痛・情動に参与することなどを、魂の物体性を支持する議論に用いる。

つまり、

anima
=
非物質的魂

ではない。

同じanimaという語が、

物体的である魂

を表すことができた。

そしてこれは、単なる奇抜な例でもない。

テルトゥリアヌスは明示的にストア派を参照している。

したがって、

ギリシア哲学
↓
ラテン語
↓
キリスト教

という移動で、哲学的存在論もまた選択的に再利用されていたことになる。


8 アウグスティヌスは同じanimaを別の存在論へ置く

アウグスティヌスでは、魂を身体と同じ物体として扱う議論は退けられる。

『魂とその起源について』では、魂を身体的なものとする主張を批判し、魂と身体を区別する。

したがって、

同じ語
anima

テルトゥリアヌス
→ corporeal

アウグスティヌス
→ incorporeal

となる。

これは5+Oモデルにとって理想的な事例である。

語形が同じ
≠
概念モデルが同じ
≠
存在論が同じ

のである。

だから「animaという語が使われている」という事実だけでは、その著者がどのような魂の存在論を採用しているかを決めることはできない。


9 二分説か三分説か――アウグスティヌス自身が分類を動かしている

さらに面白いことが起きる。

アウグスティヌス『魂とその起源について』第IV巻には、

Natura certe tota hominis est spiritus, anima et corpus

という文がある。

すなわち、

人間の全本性はspiritus、anima、corpusである

と三項を挙げている。

しかし、この文は三つの独立実体を立てるために使われているのではない。

直後では、corpusを人間本性から排除しようとする議論が退けられる。

さらに別の箇所でアウグスティヌスは、spiritusとanimaを区別しつつ、両者がまとめてanimaという名称で呼ばれる場合もある、と明示する。

これは非常に重要である。

人間
↓
ある切り方
anima / corpus

同じ人間
↓
別の切り方
spiritus / anima / corpus

ということが、後世の研究者の便宜ではなく、アウグスティヌス自身の語彙運用の中ですでに起きている

二分法と三分法は、必ずしも競合する二つの人体解剖学ではない。

何を問題にするかによって、同じ対象へ異なる切断を入れる

場合がある。

ここにA型が最も明瞭に現れる。


10 ただし「animaの中にmensが生まれた」と書いてはいけない

ここで前稿の重要な修正が必要になる。

以前は、

anima
=生命主体

その内部から
↓
mens
=認識・自己認識・意志

という分化が進んだ、と書いた。

しかし、これは発生史として強すぎる。

生命機能と認識機能を分ける語彙は、アウグスティヌス以前のギリシア哲学や古典ラテン語にもすでに存在する。

さらにアウグスティヌス自身も、animaとanimusを人間の魂についてしばしば重ねて使い、animusをmens、ratio、intelligentiaに近づける場合がある。後期古代の心身史研究でも、この語彙の重複が指摘されている。

したがって、

mensによって「内面」が初めて誕生した

とはしない。

より正確には、

既存のanima / animus / mens / ratio / intelligentiaという認識語彙が、アウグスティヌスにおいて自己認識・記憶・意志・神認識・三位一体論という新しい問題配置へ組み込まれた

とする。

これは「分化史」ではない。

再配置史である。


11 animusを忘れてはいけない

ここでanimusを復帰させる必要がある。

ラテン語には、キリスト教以前からanimaとanimusがある。

そしてアウグスティヌスでも、

anima
↔
animus
↔
mens

の境界は完全には固定されない。

『三位一体論』第10巻でも、知ろうとし、愛し、理解しようとする主体としてanimusが現れる。

つまり、この稿で、

  • anima

  • spiritus

  • mens

  • corpus

  • caro

の五語を選んだこと自体が、歴史上の「五分類」を再現しているわけではない。

これは研究者側のA型的切断である。

この五語は重要だから追う。しかし、この五語だけが当時の人間理解を構成したわけではない。

animus、ratio、intellectus、cor、memoriaなど、別のノードが周囲に存在する。

この限定を入れることで、「五部品表」を批判した直後に「五座標表」を作る自己矛盾を避けることができる。


12 mens――新しい語ではなく、新しい配置

ではmensには何が起きたのか。

アウグスティヌス『三位一体論』では、mensの自己認識が重要な問題になる。

第9巻では、

mensが自分自身を知る

という関係が精密に論じられる。しかもmens、自己についての知、自己への愛は、別々の物体部品として配置されるのではない。

後の巻では、

  • memoria

  • intelligentia

  • voluntas

という三項が、人間のmensにおける三位一体の像として分析される。

しかし、ここでも、

mens
├─ memoriaという部品
├─ intelligentiaという部品
└─ voluntasという部品

と読んではならない。

アウグスティヌスが探しているのは、一つの主体の中で区別できる関係である。

つまり、

語が三つある
機能が区別できる
だから実体も三つある

という推論を、彼自身が採用しているわけではない。

今回の問題と完全に同型である。


13 spiritusも専属の「神関係語」ではない

前稿では、

anima=生命
mens=認識
spiritus=神との関係

と整理した。

これも強すぎる。

ローマ8章では確かに、

  • Spiritus Dei

  • Spiritus Christi

  • spiritui nostro

が同じ文脈に現れ、spiritusが神と人間の関係を記述する中心語になっている。

しかしアウグスティヌスではspiritusの用法はさらに広い。

『創世記逐語注解』第12巻では、

  • corporalis

  • spiritualis

  • intellectualis

という三種類のvisioを区別し、spiritualisを身体的感覚と知性的認識の中間にある心的像の領域へ用いる。

つまりspiritusは、

神の霊
人間の霊
霊的生
心的像・想像的認識

など複数のネットワークへ入る。

したがって、

spiritus=神との関係という座標

ではない。

より正確には、

神との関係・霊的生を語る際の重要語でありながら、文脈によって別の認識論的役割も担う語彙ノード

である。


14 五語は五座標でもない――「重複語彙ノード」と考える

ここまで来ると、構造はこうなる。

                   認識・自己
                      ↑
            animus ↔ mens
              ↖      ↕
生命 ←──── anima ── spiritus ──→ 神・霊的生
  ↘            ↘       ↙
   caro ───── corpus
     ↘        ↙
      身体・倫理・救済

これは厳密な分類表ではない。

むしろ、重なっていることを示すための地図である。

  • 同じ語が複数の問題を担う。

  • 同じ問題を複数語が担う。

  • 著者によって接続が変わる。

  • 同じ著者でも文脈によって配置が変わる。

したがって、より正確には次のように整理できる。

語彙ノード頻繁に接続する領域固定できない理由anima生命、魂、人格、認識物体説・非物体説の双方で用いられ、animus・mensとも重なるanimus人間的魂、意志、認識、理性anima・mensとの重複が大きいspiritus息、神の霊、人間の霊、霊的生、心的像神関係だけの専属語ではないmens認識、自己認識、記憶、理解、意志animaから独立した実体とは限らず、animusとも重なるcorpus身体、死、復活、個体性単なる罪の器ではなく、救済される身体でもあるcaro肉、倫理的あり方、受肉、復活否定的倫理語と肯定的救済語を同時に担う

ここで五語が六語になったこと自体が重要である。

概念史の対象は、最初に研究者が作った箱へ収まってくれるとは限らない。


15 分化したのではなく、何度も切り直された

したがって、

昔
=未分化

↓ 歴史が進む

魂
霊
心
身体
肉
=分化

という進化史にはしない。

実際に起きたことは、

ギリシア哲学語彙
+
古典ラテン語彙
+
聖書語彙
+
パウロ神学
+
Old Latin翻訳
+
教父哲学
+
典礼・制度
        ↓
      重複
        ↓
      再切断
        ↓
      再結合
        ↓
     新しい配置

である。

生命と認識の区別自体は古い。

身体と魂の対置も古い。

息と霊の結びつきも古い。

しかし、それらの関係の組み方が変わる。

これが概念移動である。


16 P型――ただし「経験まで変えた」とはまだ言わない

こうした語彙は、文献の中だけには留まらない。

翻訳された語は、

  • 神学

  • 説教

  • 典礼

  • 洗礼

  • 葬送

  • 教育

などで反復される。

テルトゥリアヌス自身が、洗礼、塗油、按手、聖餐という身体実践をcaroとanimaの救済に結びつけていることは、その制度的回路の具体例である。

したがって、

翻訳語
↓
神学
↓
典礼・教育
↓
利用可能な自己記述
↺

というP型回路は、かなり強く想定できる。

しかし、

語彙
↓
一般信徒の主観経験そのものが変わった

ところまで実証したとは言わない。

一般信徒がanima、spiritus、caroを聞いたとき、実際にどのような身体像や内的像を持ったかを知る資料は限定されている。

したがって判定は、

P型=中~強

とする。

制度化・反復・自己記述語彙の形成まではかなり確認できる。

しかし経験形成の程度にはE型が重なる。


17 エリート神学と一般的語彙世界を区別する

もう一つ重要な限定がある。

本稿で中心的に扱ったのは、

  • パウロ書簡

  • テルトゥリアヌス

  • アウグスティヌス

という高度な神学・哲学文献である。

ここで見つかった細かな語彙配置を、

2~5世紀のラテン語話者全員が共有していた

と一般化することはできない。

むしろ可能性としては、

神学者・知識人
→ 細かな語彙分節

一般的な説教・典礼・墓碑
→ より粗い魂/身体、霊/肉の区別

という層差が存在したかもしれない。

これは今後、

  • 説教

  • 祈祷文

  • 墓碑

  • 葬送文

  • 教理教育文書

  • 信徒書簡

などで検証する必要がある。

したがって、本稿の結論はまず、

ラテン教父の神学的概念空間

についての結論である。

「ラテン・キリスト教社会全体」への一般化にはUとEを残す。


18 5+Oモデルで再整理する

今回も、5+Oモデルは有効である。

1 語形

anima / animus / spiritus / mens / corpus / caro

2 語義・用法

生命、魂、意志、知性、霊、身体、肉、自己など。

3 概念・説明モデル

  • 二分的記述

  • 三分的記述

  • 魂物体説

  • 魂非物体説

  • 復活身体論

  • 内的自己認識論

  • caro / spiritusの倫理的対比

4 実践・制度

  • 聖書翻訳

  • 説教

  • 洗礼

  • 聖餐

  • 葬送

  • 教理教育

  • 神学論争

5 経験・生成現象

  • 呼吸

  • 身体感覚

  • 痛み

  • 記憶

  • 自己認識

  • 意志

  • 内的像

+O 存在論的指示対象

  • 身体とは独立した魂は存在するのか

  • その魂は物体か非物体か

  • spiritusはどのような存在者なのか

Oは他の五層と同じ種類の歴史記述ではない。

別途検証される存在論的仮説である。

だから、

animaという語が確認できる
≠
魂物体説である
≠
魂非物体説である
≠
身体外魂の存在が確認された

となる。

テルトゥリアヌスとアウグスティヌスの対比は、この区別を一次資料レベルで示している。


19 類型レンズで再診断する

A型――強い

二分法か三分法か。

animaとspiritusを分けるか。

animusとmensをどう区別するか。

どの語を「魂」「心」「精神」と現代語へ訳すか。

これは、対象へどの切断を入れるかという問題である。

ただし完全に自由ではない。

原文の語法、共起、論証、身体経験、神学的文脈が制約を与える。

アウグスティヌス自身がspiritus / anima / corpusという切断と、anima / corpusという粗い切断を併用できることが、A型の典型例である。

B型――付けない

二分法が原理的に正しく三分法が不可能である、あるいは逆であるという定理はない。

分類不能定理もない。

したがってB型ではない。

P型――中~強

翻訳・神学・典礼・教育を通じて、語彙配置が反復され制度化される。

その意味でP型は成立する。

しかし一般信徒の主観経験までどの程度変えたかは未検証である。

E型――強い

古代人の内的経験そのものを直接観測できない。

非エリートの語彙理解も資料が偏っている。

Uマーカー――強い

現在の配置を生んだ要因として、

  • ギリシア哲学

  • ストア派

  • プラトン主義

  • ラテン語既存語彙

  • Old Latin翻訳

  • 聖書解釈

  • 典礼

  • 反異端論争

  • 教育制度

が絡む。

相対的寄与を一意には決定できない。


20 第4項――どう検証するか

本稿の「重複語彙ノード」モデルは、何でも複雑だと言うだけでは意味がない。

そこで次の検証を置く。

検証1 語を数える

テルトゥリアヌスからアウグスティヌスまでについて、

  • anima

  • animus

  • spiritus

  • mens

  • corpus

  • caro

の共起と対立を収集する。

検証2 述語を比較する

何が、

  • 生きる

  • 知る

  • 意志する

  • 死ぬ

  • 復活する

  • 罪を犯す

  • 救われる

の主語になるのかを見る。

単なる辞書意味より、概念役割が明確になる。

検証3 ジャンルを分ける

  • 神学論争

  • 聖書注解

  • 説教

  • 祈祷

  • 典礼

  • 墓碑

で分布を比較する。

検証4 翻訳系統を分ける

ギリシア語原文とOld Latin、後代ラテン語本文の対応を比較する。

特に、

sōma / sarx / psychē / pneuma / nous
↓
corpus / caro / anima / spiritus / mens / animus

が一対一にならない箇所を調べる。

検証5 エリートと一般用法を比較する

もし神学書では六語の細かな配置が見られるのに、墓碑・説教・典礼では二項程度しか使われないなら、

「概念ネットワークの細密化」

はまずエリート神学内部の現象だったと修正する。


結び――魂・霊・心・身体・肉は「分かれた」のではなく、何度も配置し直された

最初の問いに戻る。

魂、霊、心、身体、肉は、いつ別々になったのか。

答えは、

一度に別々になった瞬間はない。

である。

そもそも、完全に別々になったとも言えない。

animaとanimusは重なる。

animusとmensも重なる。

mensとspiritusさえ文脈によって近接する。

corpusとcaroは異なる役割を持ちながら、どちらも救済される身体を指しうる。

caroは「肉に従う」という否定的な倫理語になりながら、

caro salutis est cardo

と救済の中心語にもなる。

animaは、テルトゥリアヌスでは物体的に論じられ、アウグスティヌスでは非物体的に論じられる。

spiritus、anima、corpusの三語が並んでも、アウグスティヌス自身がそれらを固定された三実体の部品表へ変えてはいない。

したがって、概念移動を、

未分化
↓
分化
↓
近代的な soul / spirit / mind / body

という進歩史として描くことはできない。

より正確には、

既存語彙
↓
翻訳
↓
哲学・神学との接触
↓
重複
↓
再切断
↓
再結合
↓
制度化
↓
さらに再配置
↺

である。

人間が歴史の中で五つや六つに分裂したのではない。

人間について問われる問題が変わるたびに、既存の語彙ネットワークが別の仕方で切り直された。

生命を論じる。

認識を論じる。

神との関係を論じる。

罪を論じる。

受肉を論じる。

復活を論じる。

そのたびに、

anima
animus
spiritus
mens
corpus
caro

の距離が動く。

そして、この「距離の変化」そのものが概念史である。

次に大きな再配置が起きるのは、12~13世紀である。

アリストテレス『De anima』が、ギリシア語原典、アラビア語哲学、ラテン語翻訳を介して西欧へ本格的に再流入する。

そこでは、

anima
animus
mens
spiritus
intellectus
ratio
anima rationalis

が再び組み替えられる。

つまり次の問題は、

キリスト教ラテン語が長い時間をかけて作ってきた魂・精神語彙へ、アリストテレスのpsychē / nous論が再び入ってきたとき、何が起きたのか。

である。

同じギリシア語哲学が、今度は千年近い概念史を経たラテン語世界へ「再輸入」される。

概念は、一度翻訳されたら終わるのではない。

以前の翻訳によって変化した世界へ、再び戻ってくるのである。



出典

  1. Vetus Latina / Old Latin Bible――ヒエロニムス以前から複数のラテン語訳が存在したこと

    1. University of Birmingham, Institute for Textual Scholarship and Electronic Editing
      https://itseeweb.cal.bham.ac.uk/vetuslatina/index.html
      写本一覧:
      https://itseeweb.cal.bham.ac.uk/vetuslatina/NT-MSS/
      Old LatinとVulgate型が混在する写本も確認できます。

  2. 第一テサロニケ5:23――spiritus / anima / corpus の三項

    1. https://www.biblegateway.com/passage/?search=I+Thessalonicenses+5%3A21-23%2C1+Thessalonians+5%3A21-23&version=VULGATE%3BNIV%3BKJV
      ラテン語本文は integer spiritus vester, et anima, et corpus ... servetur。三項列挙そのものは一次資料で確認できます。

  3. 第一コリント15章――corpus animale / corpus spiritale

    1. https://www.biblegateway.com/passage/?search=1+Corinthians+15%2CI+Corinthios+15&version=NIV%3BVULGATE
      特に15:44–46の corpus animale / corpus spiritale が本文の直接根拠です。

  4. パウロのsōma論――「全人格」読みと身体的指示を強く取る読みの論争

    1. Robert H. Gundry, Soma in Biblical Theology
      https://www.cambridge.org/core/books/soma-in-biblical-theology/soma-as-the-whole-person-the-rise-of-a-definition/E41DB968B5C16D6CA607C18F93E75EE0
      GundryがBultmann以後の「sōma=whole person」型定義を批判的に検討する出発点です。

  5. パウロの身体論と後期古代キリスト教

    1. Vito Limone, “The Christian Conception of the Body and Paul’s Use of the Term Sōma in 1 Corinthians”
      https://www.cambridge.org/core/books/history-of-mind-and-body-in-late-antiquity/christian-conception-of-the-body-and-pauls-use-of-the-term-soma-in-1-corinthians/948752167AED8E051B074EECF03D49A4
      sōma/身体概念の先行研究整理に使えます。

  6. 使徒信条――carnis resurrectionem「肉の復活」

    1. Vatican, Congregation for the Doctrine of the Faith
      https://www.vatican.va/roman_curia/congregations/cfaith/documents/rc_con_cfaith_doc_19831214_carnis-resurrectionem_en.html
      caro=否定的倫理語、corpus=復活身体という固定分業が成立しないことを示す重要資料です。

  7. テルトゥリアヌス『肉の復活について』De Resurrectione Carnis

    1. ラテン語本文:
      https://www.thelatinlibrary.com/tertullian/tertullian.resurrectione.shtml

    2. Ernest Evans版ラテン語:
      https://www.tertullian.org/articles/evans_res/evans_res_03latin.htm

    3. 第8章には caro salutis est cardo があり、洗礼・塗油・按手・聖餐とanimaの救済を結びつけます。

  8. テルトゥリアヌス『魂について』De anima――魂の物体性

    1. https://www.tertullian.org/anf/anf03/anf03-22.htm
      第5章でストア派を援用し、魂を corporeal substance とする議論が明示されています。

  9. アウグスティヌス『神の国』第14巻――caroは単なる「悪い物質」ではない

    1. https://www.augustinus.it/latino/cdd/cdd_14.htm
      secundum carnem、caroの提喩、人間の生き方と肉の関係を確認する一次資料です。

  10. アウグスティヌス『魂とその起源について』第4巻――spiritus / anima / corpus

    1. https://www.augustinus.it/latino/anima_origine/anima_origine_4_libro.htm
      Natura certe tota hominis est spiritus, anima et corpus が直接確認できます。しかも文脈はcorpusを人間本性から排除する議論への反駁です。

  11. アウグスティヌス『魂とその起源について』第1巻――魂の非物体性側

    1. https://www.augustinus.it/latino/anima_origine/anima_origine_1.htm
      テルトゥリアヌスとの対照で、同じanima語が異なる存在論へ置かれることを確認する基礎資料です。

  12. アウグスティヌス『三位一体論』第9巻――mens・自己認識・愛

    1. https://www.augustinus.it/latino/trinita/trinita_09_libro.htm
      mensが自己を知り、愛し、notitia・amorとの関係で論じられます。しかもmensとspiritusを単純な別実体としていません。

  13. アウグスティヌス『三位一体論』第10巻

    1. https://www.augustinus.it/latino/trinita/trinita_10_libro.htm
      mensの自己認識論をさらに追う一次資料です。

  14. アウグスティヌス『創世記逐語注解』第12巻――corporalis / spiritalis / intellectualis

    1. https://www.augustinus.it/LATINO/genesi_lettera/genesi_lettera_12_libro.htm
      visio corporalis → spiritalis → intellectualis の区別があり、spiritusを単なる「神との関係専用語」にできない強い一次資料です。

  15. アウグスティヌスの心身論をまとめた現代研究

    1. Giovanni Catapano, “Augustine,” in A History of Mind and Body in Late Antiquity
      https://www.cambridge.org/core/books/history-of-mind-and-body-in-late-antiquity/augustine/E2387274F4203813ACFA129EF87154DE
      mensを人間の魂の合理的・知的局面として整理する近年の概説として使いやすいです。



石部統久・ChatGPT5.6
査読:ChatGPT5.6・Claude Fable5・Grok・Gemini3.7(Parcae Protocol)

いいなと思ったら応援しよう!