M・ポランニー のtacit knowing
ポランニーの tacit knowing(日本語では暗黙知と訳す)は極めて理解することが困難な概念です。ポランニーの tacit knowing と日本語の暗黙知は別概念と理解しておく必要があります。
誤解を解いておいたほうがいいと思うので言っておくけれど、暗黙知とは意識の下のほうにあるために取り出せなくなっているぼんやりした知識のことをいうのではない。下意識に隠れ住んでいる知のことではない。どうも一部の経営学者たちがそういう見方を広めたようで、誤解が広まった。
パン屋の職人がパン生地をこね、それを独特の焼きかげんでパンにしているようなばあい、その職人的な「おいしさの知」のようなものを暗黙知と名づけたがるようだが、これもおかしい。料理人の味付けの技能が暗黙知なのではない。その「知」をコンピュータに入れてシステム化しようとしても、なかなかそのアルゴリズムやプログラムにならない知が暗黙知というわけでは、ないのである。
そうではなく、ポランニーの言う暗黙知とは科学的な発見や創造的な仕事の作用に出入りした知のことなのである。思索や仕事や制作のある時点で創発されてきた知が暗黙知なのだ。端的に言うなら創発知とか潜在知とか、さらにわかりやすくしたいのなら暗黙能とか潜在能と見たほうがいいだろう。
しかし、ポランニーは暗黙知を安易には語らなかった。あとでわかると思うが(ぼくの説明によって)、ポランニーにとっての暗黙知は「方法」そのものなのである。知識に方法が従属するのではなくて、方法そのものが知識であるような、そのような脈絡が知識にひそんでいることを提言したのである。
