侘び寂びもアートも洗脳 ―「呪」としての美意識と価値構築 リンク
侘び寂びもアートも文化洗脳、小説家 夢枕獏の描くキャラクターである安倍晴明の言うところの「呪」だと思います。
なお、文章はChatGPTです。
アートと詫び寂びは「呪」
https://g.co/gemini/share/add7c95d930f
はじめに
小説家・夢枕獏が創造したキャラクター、安倍晴明の言う「呪」とは、人間の思考や行動を縛る目に見えない力である。この観点から見ると、アートや侘び寂びといった文化的価値観もまた、私たちの内面に深く作用する「呪」的な性質を帯びている。以下では、その「呪=文化洗脳」を記す。
アートとは何か:恣意的な「慣習」
アートとは何かという問題に対して、哲学者ミシェル・アントワーヌ・イネスは、ある活動がアートとして認識されるか否かは「芸術慣習」に依存すると主張している。この芸術慣習は、本質的に恣意的で偶然的であるため、「どれが芸術か」という線引きそのものが主観に基づいている。
「ある種(形式、実践、活動)が芸術種なのかどうかは、慣習の問題である、というのがイネスの主張だ。「慣習」の中身については後ほど問題にするとして、とにかく慣習は本性から恣意的で偶然的なものなので、どれが芸術種でどれがそうでないかも恣意的で偶然的であり、したがってどれが芸術作品でどれがそうでないかも恣意的で偶然的だということになる。慣習的にそうなっちゃっているからにはそうなのであり、それ以上でも以下でもない。元も子もないと言えば元も子もない説明だが、イネスはこれを受け入れる。曰く、ある種を芸術種にするのは、「慣習的な雰囲気[a conventional atmosphere](488)」である。(もちろん、これはダントーが述べた「an atmosphere of artistic theory」へのオマージュだ。)」
「イネスは(2)ある活動が芸術活動かどうかは芸術慣習的にそうなのかどうかの問題だとした。芸術慣習は恣意的なので、したがって芸術作品かどうかも恣意的である。」
ミシェル・アントワーヌ・イネス[Michel-Antoine Xhignesse]による論文「なにがある種を芸術-種にするのか?」(2020)
どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?
https://obakeweb.hatenablog.com/entry/art-kind
また、クロウニーはアートの定義が論理的に一貫性を持たず、むしろ歴史的・イデオロギー的な枠組みの中で形成されてきたとする。つまり、「芸術とは何か」は普遍的ではなく、時代と社会が作り出す幻想であるとする。
芸術の定義について
わたしたちは日常的には、芸術という言葉をどのように用いるのかを熟知している。しかし、言葉の使い方を知っているからといって、あるものが芸術か非芸術かを判断できない。わたしたちが求めているのは、あるものが芸術であるための必要十分条件である。例えば水のような人間の意図と関わりなく存在するものならば、その本質的な定義を人間の意図と関わりなく述べることができる。しかし、芸術という概念は人間によって創られ、その使用や解釈において人間の意図を伴っているために、その概念が人間の実践のうちでどのように用いられているのかについて分析する必要がある。ここでさらに、芸術の概念は、ある特定の時代に、ある特定のイデオロギー機能を担って生まれたものである。ゆえに、論理的な一貫性を見出すことができない。ゆえに、芸術の定義の試みはうまくいかないとクロウニーは主張する。
クロウニー「芸術の定義とファイン・アートの歴史的起源」
Lichtung
難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp
「芸術の定義とファインアートの歴史的起源」
https://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/10/09/140446
侘び寂びとは:構築された日本文化の幻想
侘び寂びは、一般的に「簡素・静寂・不完全」の美を指すが、その本質や由来を深く知る日本人は意外に少ない。松岡正剛によれば、「わび」とはもともと不満や失意を意味しており、それが文化的価値に転化された経緯があるとする。
https://gendai.media/articles/-/148026
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3
侘び寂びは洗脳だという主張
ネットで見つけました。同感です。
千利休が作り出した侘び寂び文化は、実用性よりも象徴性(茶器の価値)を重視するという点で、極めて「洗脳的」であると指摘する。戦国武将たちは、土地よりも高価な茶器を欲した。つまり、目に見えない価値観を人為的に構築し、それを人々が「自然なもの」として受け入れていく様子は、まさに文化的な洗脳と言える。
もともと、侘び寂び的な概念は千利休によって、日本に親しんできたんですよね。その頃は戦国時代で、戦で貢献した武将に領地を与えるのがふつうだった。とはいえ、領地には制限があるので、そのうちあげるものがなくなってしまう。そこで、領地の代わりになる「価値」づけされたものをつくったんですよね。それが茶器。大きく価値づけされた茶器を領土よりも欲しがった武将がいたようです。実用性、みたいな視点で考えたら、土地の方が良さそうなのに。この思い込み、すごい。
こういったことから考えると、この「侘び寂び」という概念自体、日本人が総じてかけられている洗脳なんじゃないかと。そしてこれほど壮大な洗脳、価値構築を起こした千利休を、アーティストとして素晴らしく、恐ろしいなと思うのです。文化的実践としては馴染んでいない。でも我々はみな、侘び寂びが文化だと信じているし、侘び寂びっぽい器をそれだけで「価値」だと感じてしまう。これはまさに現代アート。無意識の中に潜んでいた概念をひっくり返す魔法。
侘び寂びの洗脳力:無意識に作用する「美意識」
侘び寂びものすごく洗脳力を持っているようです。
BBCの記事では、侘び寂びの世界観は「完璧でないもの」に価値を見出すことで、現代社会の完璧主義からの逃避を提供する、とされている。一見ポジティブな文化的特性に見えるが、それが「自然」とされることで、逆に私たちの価値観や美意識を限定する枠にもなり得る。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-46396621
結論:アートと侘び寂びは「呪」である
アートと侘び寂びの価値は、本質ではなく人間が作った「意味の枠組み」によって成り立っている。それはしばしば伝統や文化として称揚されるが、実際には特定の時代や権力構造の中で意図的に「作られた価値」である。こうした価値観が個人の認識や判断に無意識に影響を与えるという点で、それは安倍晴明の言う「呪」にほかならない。言い換えれば、それは洗練された「文化洗脳」である。
