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太平洋戦争開戦と三人の男

 だれも裁判を受けていません。


松岡洋右

日米諒解案

4月14、16日の野村・ハル会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。
 この「諒解案」は、

 1.全ての国家の領土保全と主権尊重
 2.他国に対する内政不干渉
 3.通商を含めた機会均等
 4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持

の4項目からなる、いわゆる「ハル四原則」を日本側が受け入れることを前提としたものでしたが、近衛ら日本政府側は「諒解案」を歓迎しました。しかし、ドイツ・イタリア・ソ連訪問中であった松岡は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、三国同盟問題との矛盾点を指摘し、大本営政府連絡懇談会での話し合いも紛糾することとなりました。

https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html

石川信吾

7月の御前会議で「対英米戦を辞せず」、9月で「辞せざる決意」、11月は「決意する」となり、12月には「やる」ここという風に大元帥の意思がつめられていく。つまり御前会議は昭和天皇に戦争責任者としての決意と覚悟を促すためのものであったと言うことができるであろう。

この間のいきさつについて、1941年当時昭和天皇の蓮沼侍従武官長が嶋田繁太郎海軍大臣に対して、「六月には、陸海軍ともに(対英米)不戦なりしに、海軍省軍務第二課長(石川信吾)の反対にて一夜にして変じ、次いで七月、九月の御前会議となりたり。この態度に導きたるは海軍なり。」と発言している。

一方この発言の当の石川信吾は戦後自分が対英米戦争を始めたんだと豪語している。事実南部仏印への日本軍の侵攻は彼がたくらんだものである。その背後にソ連との同盟を企てる四国同盟の企みがあった。「N工作(野村大使の対米平和交渉)成立せば国内情勢は急激に英米依存に復帰すべく、ひいては国防国家体制の建設、統制経済施策等に一大動揺をきたすところきわめて大なるをもって事前非常立法を立案準備するを要す。」 つまり事前非常立法などで野村大使の平和交渉の成立をつぶさなければならないと本人はいっているのである。

https://web.archive.org/web/20160202050731/http://urasima77.at.webry.info/201108/article_1.html

瀬島龍三

昭和16年(1941年)12月6日
野村・来栖両大使、本国に対し、ルーズヴェルト米大統領発天皇宛親電が発電されたことを報告

最近の日本諜報史研究に関する問題点の指摘 ルーズベルト親電・ヤルタ密約  木村 洋
http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/pic504.pdf

史料は、昭和11年8月から20年までの軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜(ぼうちよう)に関する回想聴取録」。

それによると、昭和16年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐(当時)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。

続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と証言していた。

これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛していた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。当時、参謀本部が海外情報の統制のため、外国からの電報を10~15時間程度遅配するよう決めていたが、大統領親電のような特別重大な電報については例外とする余地があったようだ。

大統領親電の内容は日本側に一見、和平を呼びかけながら日本軍の仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だった。

2007年11月24日の産経新聞記事
「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前
https://ameblo.jp/akamamakai/entry-12577636617.html

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