『ツクヨミのウィンク』番外記(2) パロディ仮説で解く 応神天皇の名前交換の怪
『古事記』は謎に満ちた古文書です。そして、その謎掛けのクオリティは秀逸です。
私は、『ツクヨミのウィンク 古事記は日本書紀のパロディだった』で、数々の謎について解答を提案してきました。
古事記が日本書紀のパロディだったという仮説に立つと、多くの謎が解き明かされるのです。
このシリーズは、『ツクヨミのウィンク』で取り上げなかった謎について、一つずつ解明していきます。
今回、第二回目のテーマは、応神天皇の名前交換の謎です。
これについては、古くから多くの読者や研究者が関心を寄せ、さまざまな考察が試みられてきました。しかし、その真相ないし解釈については、未だに定説に至っていません。
説話の概要
説話の概要は以下の通りです。
三韓征伐から帰還した神功皇后は、筑紫の国で御子を出産する。後の応神天皇である。
ヤマトへ帰ると、オシクマオウが反乱を起こす。激しい攻防のすえ反乱軍は制圧される。
皇太子は、神功皇后の側近であるタケノウチノスクネに連れられて、禊(みそぎ)をするために敦賀(角鹿(つぬが))に赴き、そこに仮宮を建てて滞在する。
すると、その地のイザサワケの大神がタケノウチノスクネの夢に現れて、こう願い出る。
「私の名前を御子のお名前に易(か)えさせていただきたい。」
タケノウチノスクネは、
「恐れ多いことです。仰せの通り易え奉ります。」
と答えた。
「明日の朝、浜にお出でください。名を易えていただくお礼に、贈り物を差し上げます。」
あくる朝、浜に出てみると、鼻を傷つけたイルカが浦一面に寄り集まっていた。
御子は神に感謝して「御食津(みけつ)大神」という名を差し上げた。今では「気比(けひの)大神」と呼ばれている。
イルカの鼻の血の匂いが立ち込めていた。それで、その浦を名付けて「血浦」とした。今は「つぬが」という。
以上が古事記に語られる物語です。
日本書紀もこのエピソードに触れているのですが、本文ではなく、割注に「一説」として紹介されているばかりです。しかも、その語り口は歯切れの悪いものです。
初めに天皇は、皇太子になると、角鹿(つぬが)のケヒノオオカミを参拝して、そこで名前を交換した。神の名を「イザサワケ」とし、皇太子を「ホムタワケ」と名付けたという。だとしたら、大神の元の名が「ホムタワケ」で、皇太子の元の名は「イザサワケ」だったことになる。しかし、そんなことはどこにも見られないので、未だ詳細は不明だ。
なんとも腑に落ちない書き方です。
しかも、日本書紀にも古事記にも、応神の名前は、生まれたときから「ホムタワケ」であったと明記されています。
既存説
この謎をめぐる従来の考察は、おおむね三つの方向に整理できます。
1.服属儀礼説
現在、有力な解釈の一つです。「名(な)」と「魚(な)」の同音を利用し、気比大神が御子に名を捧げ、魚を献上する物語によって、敦賀の海人系集団がヤマト王権に服属したことを表したと考えます。
敦賀が海産物の貢納地であったことや、気比大神が食物神・海神としての性格を持つことも、この解釈を支える材料とされています。
2.名前の主客逆転説
日本書紀の「一云」が述べる通り、本来は気比大神の名がホムタワケで、御子の名がイザサワケだったのではないか、と考える説です。
記紀編纂の時点ですでに伝承の本来の意味が分からなくなっていたと見る立場もあれば、王権に都合のよい形に名前の授与関係が書き換えられた可能性を考える立場もあります。
3.渡来神・北陸勢力との関係説
気比大神の名「イザサワケ」を、新羅王子、天日槍(あまのひぼこ)の神宝「胆狭浅大刀(いささのたち)」と結び付け、新羅系の渡来神と見る説です。
また、敦賀が古くから大陸・半島との交通の拠点であり、後の継体天皇とも深い関係を持つことから、この説話を北陸勢力とヤマト王権との政治的な結び付きの反映と見る解釈もあります。
以上の説はいずれも、この物語の歴史的・政治的背景を説明しようとするものです。
しかし、ここでは私の「パロディ仮説」の立場から、この名前交換の謎を読み直してみましょう。
「パロディ仮説」による解釈
先に述べたように、日本書紀にもこの説話が現れますが、それは一説の紹介という形に留まり、しかも、「確認できず」と締めくくられていました。
古事記はこの小さく、頼りない記事を、一つのまとまった物語に仕立て直しました。ここまでは自明です。何のヒネリも気付きもない。
これだけでは、まだパロディとは呼べません。重要なのは、そこに隠されたメッセージと、意味の重ね合わせです。
名前の交換と敦賀という舞台、これをヒントに日本書紀の中を探し廻ると、これはというものに出会いました。
日本書紀・垂仁天皇紀の割注(一云)です。
意富加羅国(おおからのくに)の王子が、まさにこの角鹿の浜に漂着した、という話です。その後、王子帰国の際、垂仁天皇が先帝、崇神天皇(=御間城(みまき)天皇)の名を王子の本国の名として与え、それによって彼の国が「彌摩那(みまな)」と呼ばれるようになった、という記事です。
この逸話も、多くの研究者から注目されてきました。
最もポピュラーな仮説は、この名前の授与の方向が逆ではないか、というものです。つまり、日本書紀は、崇神天皇が自らの名前を加羅国に下賜したと言い、同国のヤマトへの服属関係を主張しているが、実際は、崇神天皇が半島由来の天皇であったこと、そして、「みまき」という名前が「みまな」から来たことを、この逸話は隠蔽しようとしているのではないか、という仮説です。
私自身は、この仮説にあまり興味を覚えません。そもそも、日本書紀の主張自体、信じていません。「みま」という二音の一致で、そこまでのことが言えると思えないからです。
ただ、「書紀が、任那のヤマトへの服属を主張したかった」という部分には賛成します。
しかし、この説の信憑性に関する私の評価は、本稿の論点にかかわりがありません。重要なのは、敦賀の浜で加羅国に「みまな」という名前を与えたということです。
しかも、これは、ヤマトから加羅国への一方的な名前の授与ではないのです。加羅国の王子から日本への名前の授与が行われているのです。
日本書紀の熱心な読者なら、もう気付いているかもしれません。
実は、漂着した加羅国の王子の名前は、「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」というのです。しかも、ご丁寧なことに、その王子の額には角が生えていたという記述まで見られます。
そして、王子が漂着した浜の名前は「角鹿(つぬが)」。この地名は、王子の名前と容姿にちなんで付けられたのでした。
加羅国の王子が日本に地名を与え、日本の天皇が加羅国に国名を与えたのです。
古事記は、この名前の交換を、応神期にタイムスリップさせて、物語化しました。
日本書紀のあの割注が後世の注釈者の追記だとしたら、応神の名前交換譚は古事記の創作したパロディだったことになります。
もし、応神の名前交換譚が、記紀以前から存在する伝承だったとすると、それを、日本書紀はただの確認できない伝承として書き留めたのに対し、古事記は、意識的に、崇神と加羅国王子との名前の交換に重ね合わせて語ったのだと私は考えます。
その根拠は、古事記がほかの例でいくつも同様のことをやっているからです。
ニニギの母親と神功皇后の名前の重ね合わせしかり。神武と神功皇后の東征の重ね合わせしかり。ホムチワケの出雲詣と斉明の出雲の宮修造命令の重ね合わせしかり。神武の正妃の命名と箸墓神話の重ね合わせしかり。
血を流すイルカたち
古事記の作者は、この同じ逸話にもう一つ大きな裏話を編み込んでいます。
翌朝、浜一面に鼻から血を流したイルカたちが寄り集まっていました。それを応神は、イザサワケ大神からの御食(みけ)の贈り物として有難く受け取ります。
「食」は経済的豊かさの象徴です。古代国家においては、産業、技術の象徴でもありました。
敦賀は大陸、半島との交易の結節点でした。加羅国の王子が漂着したことでも分かる通り、大陸、半島との人の往来の窓口でもありました。
応神の事績の一つのハイライトは、大量の渡来人の受け入れです。弓月君(ゆづきのきみ)が引き連れた大勢の渡来人を受け入れたことが日本書紀に記されています。それは歴史的事実としても広く認められています。
これら渡来人の中には多くの高度技術者が含まれ、彼らは、その後の日本の各種産業に大きな発展をもたらしました。
日本書紀は次のように伝えます。
応神天皇十四年、弓月君は百済から倭国に来て、天皇にこう訴えた。
「自分は、故国の「百二十県」の人民を率いて帰化しようとしたが、新羅人に妨げられ、人民はみな加羅国に留まっている。」
応神は、彼らを迎えるため加羅に軍隊を派遣する。しかし三年間帰還しなかった。
そこで応神十六年、天皇は改めて二人の将軍に精兵を授け、
「襲津彦が長く帰らないのは、きっと新羅に妨害されているためである。急いで行って新羅を攻め、道を開け。」
と命じた。二人が軍勢を率いて新羅国境に迫ると、新羅王は恐れて降伏し、その結果、弓月君の人民とヤマトの軍隊はそろって倭国へ帰還した。
生々しい戦闘の様子は書かれていませんが、第一隊が三年も帰らず、第二隊の派遣が必要だったことから、長く激しい戦闘が展開されたことは容易に想像できます。
きっと、帰還した弓月君の人民も兵隊たちも相当な痛手を負っていたことでしょう。
この事件と浜に漂着した血まみれのイルカたちの話の間に、関係がないはずがない、と私は考えるのです。
念のため誤解のないように断っておきますが、私は、弓月君の一団が敦賀に上陸したなどと主張しているのではありません。ここで話しているのは、正確な史実ではなく、象徴的なメッセージについてです。
傷ついたイルカと、命からがら亡命してきた人々。もたらされた大量の食糧と、優れた産業技術。このメタファーは強力です。
古事記パロディの深さ
こうして、古事記の作者は、日本書紀からいくつもの逸話を借りてきて、重層的な物語を作り上げています。
三韓征伐とオシクマオウの反乱を潜り抜けてきた応神は、禊(みそぎ)を目的に敦賀に向かいました。しかし彼を待っていたのは、清らかな海ではなく、血に染まった渚と、血の匂いに満ちた浜辺でした。
そこで、いま、彼はイザサワケの大神に感謝の言葉を述べているのです。
この皮肉が政治と国家経営の過酷さに向けられていることは言うまでもありません。
古事記の作者の筆力にはいつも圧倒されます。
「名(な)」と「魚(な)」の語呂合わせのためだけに筆を振るうようなことは決してありません。
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