「8月15日の特攻隊員」を読んで
「戦後80年の夏」に考える。
シリーズ第5弾は、「8月15日の特攻隊員」と著者さんのご紹介です。
最近、note上で、本書の著者である道脇紗知さん(以下「紗知さん」)の存在を知り、
ちょうど、先日、読み終えたところでしたので、ご本人のご了承を終えて、本稿でご紹介することと致しました。
特攻隊の始まりと終わり
特攻は、大西瀧治郎・海軍中将(注1) の発案により始められた戦法で、その先陣を切ったのが、1944年10月25日にフィリピン・ルソン島から出撃した関行男・海軍大尉以下5名による敷島隊でした。
(注1) 海軍士官として、海軍航空の発展に尽力。1944年10月、第一航空艦隊司令長官として赴任した際に、航空機による体当たり攻撃を発案し、これに任ずる飛行隊を「神風特別攻撃隊」と命名。終戦後、特攻隊を組織した責任を取り「特攻隊の英霊に詫びる」という遺書を残して、1945年8月16日に自刃した。

《関大尉の故郷・愛媛県西条市》
(Photo by ISSA)
関大尉自らが米空母「セント・ロー」を撃沈したほか、複数の空母に損傷を与えました。

《関大尉の故郷・愛媛県西条市》
(Photo by ISSA)
この「最初の特攻隊」の中には、紗知さんの故郷である福島県ご出身の方が居られました。
そして、「最後の特攻隊」となった宇垣隊(注2) の中にも、福島県出身者の姿があったのです。
(注2) 特攻作戦の最高指揮官だった第五航空艦隊司令官の宇垣纏・海軍中将は、22名が搭乗する特攻機11機とともに、終戦を知らせる玉音放送から5時間後となる1945年8月15日夕刻、大分海軍航空基地から出撃して、沖縄周辺に所在する米軍への特攻を敢行した
その方の名は、大木正夫さん。紗知さんの大叔父(曾祖父の弟)にあたる方です。
きっかけは祖父の死
紗知さんの学生時代、曾祖父母宅には、いつも制服姿の若い大木さんの遺影が飾られていたそうです。
紗知さんは、25歳のときに父方の祖父を亡くしました。それまで、戦争や軍事とは無縁で生きてきたけれど、葬儀のときにとめどなく涙が流れ落ち、
「戦争体験を語れる人はどんどんいなくなってしまう。今、私たちが戦争を生き抜いた先祖のことを語り継がないと。」
という強い思いに駆られたのです。

紗知さんの足跡
当初は、戦時中に艦上爆撃機「彗星」(後述)など数々の航空機を製造していた中島飛行機に勤めていた祖父のことを知りたいと思って動き出した紗知さんでしたが、
祖母を通じて、大木さんが宇垣隊の一員だったことを知ることとなります。紗知さんの祖母は、叔父にあたる大木さんが僅か4歳年上ということもあって、親しみを込めて「まさおんじ」と呼んでいたそうです。
その「まさおんじ」が、一体、何故、終戦の日、しかも玉音放送の後に特攻に出撃することになったのか。
そのことを知りたいという気持ちの方が、紗知さんの心の中で日に日に大きくなっていきました。

その後、「予科練とは何か」をはじめ、馴染みのない海軍のことをひとつひとつ丹念に調べ上げ、
防衛研究所や厚労省社会援護局に足を運び、何百通にも及ぶ手紙をやり取りし、多くの戦中者に会い、経験談に耳を傾け、米国立空軍博物館に問い合わせたりする中で、次第に明るみになっていった大木さんの人間像。
2年半が過ぎ、紗知さんが南の島にたどり着いた頃には、それまでほとんど皆無だった大木さんの人間像が、鮮明に思い描けるようになっていました。
「人は2度死ぬ」といいますが、紗知さんの尽力と著作活動によって、いつも明るい笑顔を絶やさなかった大木さんが蘇り、人々の記憶の中で生き続けることになったのです。

大木さんの初陣
予科練で偵察員となった大木さんは、1944年に上海航空隊に配属され、その後、千歳の攻撃一〇三飛行隊を経て、香取の攻撃一〇五飛行隊にたどり着きます。
米軍が硫黄島の攻略を始めた2月16日、大木さんは香取基地から「彗星」7機、護衛戦闘機なしで出撃しており、
この時が、大木さんにとり初陣となりました(その3日後、第2御盾隊が硫黄島近傍の米艦艇に特攻している)。
その後、鹿児島県の国分基地に移転し、特攻による戦力消耗を嫌った江間少佐の下で、何とか終戦間際まで命を繋ぎ止めることが出来た大木さんは、

《鹿児島県霧島市溝辺町麓》
(Photo by ISSA)
美保経由で、運命の大分基地に転任することになります。
第五航空艦隊司令部とは
一方、海軍航空隊の中枢だった鹿屋には、1945年2月10日に第五航空艦隊司令部が新編され、宇垣纏・海軍中将が司令長官に就任しました。

(鹿屋航空基地史料館)
【参考】鹿屋基地・司令部庁舎の歴史
1934年、鹿屋海軍航空隊を開設
1941年、庁舎内の公室で鹿屋会談
(真珠湾攻撃の作戦計画が練られた)
1945年2月、第五航空艦隊司令部を新編
戦後、一時的に進駐軍の管理下に
1953年、警備隊が鹿屋航空隊を新編
1961年、第1航空群を新設
1989年、P-3Cを配備
2015年3月、老朽化により庁舎解体
2019年、P-1を配備
第五航空艦隊司令部は、航空機を使った日本本土、特に九州方面の防衛や、沖縄方面への航空作戦を担ったほか、
先述のとおり1944年10月から始まっていた特攻隊の部隊編成や執行を担いました。
海軍航空隊の特攻で亡くなった隊員4,146名のうち、908名(約22%)が鹿屋地区から出撃しています。
宇垣中将について
宇垣中将は、1890年、岡山で生まれで、海軍兵学校40期(冒頭でふれた大西瀧治郎は同期)。当初、日独伊三国軍事同盟には異を唱えていました。
1941年8月から連合艦隊参謀長として、長官の山本五十六・海軍大将の次席に就いたのですが、航空戦力を重規する山本大将の意に反し、大艦巨砲主義者として「大和」級3番艦・4番艦の建造を推進したとされています。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
1943年4月、山本大将とともに「一式陸攻」1番機と2番機に、それぞれ分乗して前線視察中、米軍機に襲撃され、山本大将は戦死、宇垣中将も負傷しました(内地帰還後、山本五十六の短剣を形見として授かっている)。
その大艦巨砲主義者だったはずの宇垣中将が、航空作戦を率いる司令部の長官に就いた訳ですが、その後、
「銀河」24機によるウルシー泊地への長距離特攻や、

被害を受けた米空母「ランドルフ」(右下)
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
「桜花」と「一式陸攻」から成る神雷部隊による特攻作戦、

《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
菊水作戦(注3) など、数々の壮絶な航空特攻作戦を指揮したほか、
(注3) 太平洋戦争末期の1945年4月から6月にかけて、米軍の沖縄上陸を阻止するために海軍が行った大規模な特攻作戦。作戦名の「菊水」は、楠木正成の家紋に由来し、天皇のために命を捧げるという忠義の精神を象徴していた
戦艦「大和」を中心とする水上特攻の際も、自身の判断で護衛機を出し、
芙蓉部隊も視察して、美濃部少佐の夜間攻撃戦法を称賛しています。
鹿屋への空襲が激しさを増す中、8月3日に、第五航空艦隊司令部は鹿屋基地から大分の宇佐基地に移転。そこには、大木さんの姿がありました。
終戦の日、大木さんの出撃
宇垣中将は、少なくとも終戦直前の8月11日頃までには、特攻機5機による宇垣隊の編成を考えていたようです。
宇垣隊は、8月15日の夜明け頃に発令され、正午に玉音放送が流れ、17時過ぎ、いよいよ出撃の時を迎えます。
特攻のため搭乗機に向かう隊員の中に、大木さんの姿がありました(写真の一番左側)。

紗知さんの気持ちは揺れ動いた
中津留達雄・海軍中尉を指揮官とする彗星11機、22名に加え、長機である中津留機に宇垣中将が同乗。
大艦巨砲主義だったはずの宇垣中将は、いつしか航空作戦を重んじた山本大将の遺志を受け継いだのでしょうか。
このとき、山本五十六から授かった短剣を携えていました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
夕闇が迫る中、宇垣隊は、一機ずつバラけて夜間特攻を敢行し、20時25分、司令部の通信所が長官機による「ワレ突入ス」を入電。
11機中、3機が不時着し8機が未帰還(注4) となりました。
(注4) 大分市の大洲総合運動会園にある「最後の特攻」慰霊牌には、18名の戦死者の名が刻まれている(5名は生還)
未帰還機のうち2機は伊平屋島辺りで突入し、1機は地上施設を狙ったが失敗、もう1機は停泊中の戦車揚陸艦から100mほど離れた岩礁に激突しました。
大木さんの機は、いったいどこに突入したのか。紗知さんは、探求の手を緩めませんでした。
そして、たどり着いたのが、当時、歩兵揚陸艇の機関士だったフィリップ・トンプソンさん(米国在住)。

(米海軍歩兵上陸艇協会)
彼の艦が、駆逐艦に郵便物を届けるためにある島の近海に停泊中、二度の爆発音を聞いていました。
彼が、現場の近くで拾ったという「後藤高男」(注:宇垣隊の一員)の名が書かれたライフジャケットの断片ほか、複数の品々は米国立空軍博物館に「The last Kamikaze Attack」として収蔵されていました。
紗知さんは、大木さんの最期の場所にたどり着けたのか。
大木さんと、親交があったうら若き女性と織りなす、短くもはかない青春ストーリーや、時を超えて紗知さんと大木さんが紡いだ物語は、胸を打ちます。
本書は、戦後80年の今だからこそ、読むべき価値があります。
あの頃の日本人が待っていた美しい真心を、是非、手にとって感じてみてください。
また、この話は、8月14日(木) の「news23」という番組の、戦後80周年プロジェクトという特番の一環で、再現ドラマとして放映されるそうです。
紗知さんと女優の奈緒さんが共演されています。是非、ご覧ください。
ただし、このテレビ局の印象操作にはご注意ください💡(紗知さんも、そのことをご認識の上で、取材に協力されたそうです)。
美しい真心の持ち主とは
紗知さんは、18年前に出版されたとき、本の感想について「戦争のことを何も知らないで書いている」などと、心ない投稿があったそうです。
ひとつ言えることは、「真実を知ろうともせず批判している輩」よりも、「真実を知ろうと努力している人」にこそ美しい真心の持ち主が多く、
以前、どこかの記事でも書きましたが、私は一緒に働くなら後者を選びたいと、常々、そう考えています。
もし、自分が大木さんの立場だったなら。
そう考えたとき、ここまでして自分のことを知ろうとしてくれる曾姪孫がいたら、誰しも心から嬉しく思うことではないでしょうか。

そういう意味でも、時に変り者扱いされ、時に傷つきながらも、くじけずに大木さんの素晴らしい人間像を明らかにし、
「悠久の大義に生きる」(注5) ことの本当の意味を世に伝えようとされてきた紗知さんに、私は心からの敬意を表したいと思います。
(注5) 当時、特攻隊員の間で使われた言葉で、「特攻によって単に個人の命が失われるのではなく、永続する国家や民族の繁栄という大義に生きる」、そのために特攻するのだということを意味していた
特攻隊から学ぶべきこと
私たちは、特攻隊をどのように受け止めるべきか。紗知さんは、次のように述べています。
「特攻はこうなのだと、ひとくくりにはできない」
私自身、noteで散々特論を展開してきましたが、思想的に統制が強められていた当時の軍人でさえも、軍種、階級、職種、体験の相違で、個人の戦争観もずいぶんと変わってくるということは、再認識しなければならないと自戒を促されました。
他方で、特攻隊から何かを学ぶとしたら、それは・・・
「より良い未来の創建を託された」
という思いを新たにすることではないでしょうか。

こういう気持ちが心の奥に僅かでもあれば、日々、より良い選択肢を選ぶことができる。
そうしたことの積み重ねが、明るい未来を創るのだと思います。
宇垣中将のその後
宇垣中将の死後、大将への特別昇任は認められず、当初は靖国神社にも合祀されていませんでしたが、その後、合祀が認められて現在に至っています。
宇垣中将の行いを非難する向きや、色んなエピソードもありますが、ここではその是非を問うことは致しません。
ただ、ひとつ言えることは、出撃前の彼らは皆、笑顔であったことです。彼らは、何故、笑顔で逝くことが出来たのでしょうか。

艦上爆撃機「彗星」について
宇垣隊に使われた艦上爆撃機「彗星」は、前回ご紹介した「芙蓉部隊」でも使われた中島飛行機の傑作機です。
水冷エンジン「アツタ」を搭載し、最高速度280ノット、航続距離800マイルと、~であり、偵察型と合わせて2,200機以上が生産されました。
1972年にヤップ島のジャングルで発見された機体が、現在、靖国神社の遊就館に展示されています。

《靖国神社・遊就館》
(Photo by ISSA)
紗知さんの祖父が「彗星」を製造していた中島飛行機に勤務し、大叔父が、その「彗星」に乗って最後の特攻隊員の一員となったのです。
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大木さんと、紗知さんが織りなす美しい真心に賛同して頂ける方は、是非、紗知さんへの暖かいメッセージと、拡散をお願い致します。
いつも、ありがとうございます🍀
