「靖国神社」を正しく理解するために
この春、およそ10年ぶりに靖国神社を訪れました。
1 靖国神社の成り立ち
靖国神社は、戊辰戦争(注1) で命を落とした薩摩・長州の新政府軍の兵士を顕彰 ・慰霊するため、
(注1) 1868年(明治元年)1月から1869年5月にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で繰り広げられた日本の内戦(鳥羽・伏見の戦い〜箱館・五稜郭の戦い)
1869年(明治2年)6月、明治天皇の勅令によって皇居に近い東京・九段坂に 東京招魂社を創建したのが始まりです。

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その後、1879年6月に靖国神社(注2) に改められました。
(注2) 「靖(安)らかに国を治める」という願いを込めて、明治天皇が名付けたもので、当時は旧字体の「靖國」と表記されたが、戦後は「靖国」と表記するのが一般となった

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戦前は内務省が管轄していましたが、戦後は独立の宗教法人となりました。
御祭神は、八百万の神々や歴代天皇、或いは戦国武将のような歴史上の偉人ではなく、
日本の国事に殉じた「246万6千余柱」もの軍人・軍属及び民間人で、
その内、8割以上が第二次世界大戦における殉難者で占められています。

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2 新たな宮司に元海将が
2019年12月に海上自衛隊の将官を退かれ、2020年9月から駐ジブチ特命全権大使に赴任された大塚海夫氏が、
2024年3月から、靖国神社の新しい宮司を務められています。
全国各地には、地域出身の戦死者や、公のために尊い犠牲を払われた自衛官・警察官・消防士等を祀る護国神社がありますが、
靖国神社がその中心的存在であるという意味でも、その新しい宮司に相応しい方だと思います。

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3 遊就館について
隣接する遊就館は、明治維新における官軍戦没者ゆかりの品を展示する目的で、陸軍卿・山縣有朋の発案で起工され、1882年に開館した宝物館です。
その後、大東亜戦争に至る戦没者ゆかりの品が加わり、現在はおよそ3,000点の収蔵品が展示されております。
2024年12月にリニューアルされました。

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こちらはシベリア抑留に関する史料ですが、

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私 ISSA の祖父も、軍医として先の大戦に従軍し、戦後、ロシア軍に捕われシベリア抑留となり、しばらく音信不通になりました。
祖父は、この広大なユーラシア大陸のどこに送られ、靖国神社への憧憬を胸に息を引き取った将兵を、一体どれだけ看取ってきたのでしょうか。

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4 いわゆる「靖国問題」について
いわゆる「靖国問題」を語るには、靖国神社創建のきっかけとなった戊辰戦争に至る歴史的経緯から見ていかなければなりません。
15世紀から19世紀の約400年を、日本の歴史教育では「大航海時代」と呼んでいますが、その実態は、欧米列強によるアジアの有色人種に対する「大侵略時代」でした。
1842年にアジアの大国だった清が英国とのアヘン戦争に敗れ、1853年に浦賀沖にペリー艦隊が現れる等、不平等条約や植民地化への警戒感が一気に高まると、

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日本は鎌倉時代から続いた武家政治に終止符を打ち、明治維新を通じて政治・社会体制の大転換を行いました。

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こうした激変する内外情勢の中で生まれたのが、靖国神社だったのです。
その後、日本はわずか20年たらずで近代国家を作り上げ、欧米列強による植民地支配を撥ねつけたのですが、それでも彼らのアジア侵略の意図は止まりませんでした。

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5 日清・日露戦争の本当の意義
この頃、鎖国政策によって近代化から取り残されていた朝鮮を開国し、欧米の餌食にさせないことが、東アジア情勢の安定化に不可欠だったのですが、
清が朝鮮の独立を認めようとしなかったために対立が深まり、日清戦争が勃発します。

その背景には、旧態依然とした華夷秩序(注3) があった訳ですが、
(注3) 最も優れた文明を持つ中国が世界の中心となり、野蛮な周囲諸国(夷狄)を属国として従わせようとする国際秩序
日本が勝利したことで朝鮮は独立を果たし、華夷秩序も解体されて、国と国の関係は条約に基づくという新しい国際秩序がアジア地域にもたらされたのです。

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しかし、この戦いは日清というアジア間の戦いであったにも関わらず、戦勝国・日本は、露・独・仏から三国干渉を受けることになります。
中でも、ロシアによる干渉は際立っており、そうしたロシアの脅威が高まる中、世界史上、初めて有色人種の国家として白人の国家に敢然と立ち向かったのが日本だったのです。

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日露戦争の本質は、白人による植民地支配から東アジアを守る戦いでした。

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連合艦隊が、日本海でバルチック艦隊を打ち破ったとき、東郷平八郎は世界中の人々から「東洋のネルソン」と称賛され、
長年、欧米列強の植民地支配に苦しめられてきた、他のアジア諸国や、トルコ、フィンランド、ポーランドなど、世界中の多くの国々に勇気と希望を与えました。

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6 大東亜戦争の真実
しかし、それでもなお、欧米列強は執拗に日本を押し込めようとしてきます。
その後、欧米による対日石油全面禁輸、これに続くABCD包囲網などの策略によって、日本は自衛戦争を起こすことを余儀なくされたのです。
日本は、大東亜の共存共栄のため、果敢に米国と戦いました。

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日本が、アジアで唯一、欧米列強による植民地支配から免れることが出来たのは、世界有数の優れた日本海軍によって国が守られていたからであり、
靖国神社という存在が、その精神基盤になっていたからなのです。

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国運を賭けた戦いで、たとえ殉じることがあったとしても、その御霊は靖国神社に祀られる。

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今の感覚では分からないことかもしれませんが、そのことは、当時の将兵にとって最高の名誉だったのです。

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7 靖国神社の真価を貶めたものとは
戦後、そんな靖国神社の真価を地に貶めたものは、
① マッカーサーによる神道指令(注4)
② 悪名高い極東国際軍事裁判
③ 日本にはびこる左翼的思想
でした。
(注4) GHQ(連合国軍総司令部)が日本政府に対して、国家神道廃止と各神社の民間移行を促した指令のことで、神道と国家の分離を徹底させ、学校で神道を教えることを禁じた
極東国際軍事裁判。その実態は「裁判」とは名ばかりの、戦勝国による「一方的な制裁」だったのですが、唯一、全ての被告人を無罪とする意見書を出した、勇気ある判事が居ました。
それは、インド出身のパール判事でした。

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パール判事が日本無罪の論拠に挙げたことは、
● 法の不遡及の原則に反すること(あってはならない事後法の適用)
● 11人の判事、全員が戦勝国で構成される不当性
● 戦勝国自身が行ってきた侵略行為や植民地支配は棚上げされていること
等、誰が聞いても極めて真っ当な内容でした。
靖さんの記事を引用させて頂きますが、東條英機氏の言葉からも、如何に欧米がデタラメで身勝手な国々であるかが、お分かり頂けるのではないかと思います。
しばしば14名のA級戦犯の合祀を問題視する向きもありますが、この「A級戦犯」という言葉自体、戦勝国の茶番によって不当に貼られたレッテルでしかないのです。
また、1985年8月15日、中曽根首相が初めて公式参拝したときは、
戦後40年も経過してから、突如、中・韓が干渉し始め、朝日などの日本の左翼メディアがこれに加担したことで、
そもそも、問題など存在しなかった靖国神社が、いつの間にか政治問題にされてしまいました。
靖国神社は、本来、どこの国にも当たり前にあるような「国のために殉難した英霊を祀る施設」であり、
公人が誰も参拝しなくなったら、いったいどのようにして国家の命で戦った方々の魂を、国家として鎮めることが出来るのでしょうか。

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どうしても裁きが必要であれば、個人ではなく国家全体が裁かれるべきでした。
当時は、新聞も、ラジオも、学校も、地域社会も、国を挙げて戦争賛美を扇動していた訳ですから、
そういう時代の風潮の中で難しい舵取りを迫られた個人を、どうして悪者に仕立て上げることができるのでしょうか。
「A級戦犯を分祀する」とは、「一方的にA級戦犯とされた方々を靖国神社から切り捨て、末代まで鞭を打ち続ける」という恥ずべき行為なのです。

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8 特攻隊について
話は変わりますが、私 ISSA は、仕事との関わりもあって、ずいぶん長い事、特攻隊について考えてきました。
若い頃から、たくさん見てきた特攻隊員の遺書。
見るたびに、涙が頬を伝います💧

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ただ、最近の涙は、若い頃とはちょっと違うような気がするのです。
以前は、とにかく「悲しい涙」だったものが、近年では「悔し涙」に変わってきたように思います。
彼らの本当の思いに近づけば近づくほど、
しばしば、彼らの「誇り」を歪めている現代社会への悔しさが込み上げてくるのです。

ロケット特攻機「桜花」(下)
(Photo by ISSA)
親兄弟への思い遣り
仲間を大切にする気持ち
子犬を可愛がる慈しみの心
嘘偽りのない誠実な人柄
勇敢で責任感溢れる行い
そのような清廉潔白で高貴な人間性を誇りとしていた彼らが、明るい未来の創建を後世に託して、「靖国で会おう」と言って、究極の利他を自ら選んで散っていったのです。
靖国神社とは、そういう私たち現代人には及びもしない英霊が集まる場所。

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そのような神聖な場所に落書きをする下劣な某国人、日本の弱体化のために政治問題にしたがる周辺国、それに加担する一部の政治家やメディアや学会や教組など。
先人たちが、列強の植民地支配に命がけで抵抗し続けたからこそ、欧米と対等なアジアがあるというのに、
彼らの勇気や誇りを理解せず、私達の祖父母に敬意を払おうとしない時代の風潮など、
お前たち、彼らの犠牲がどれほど尊いものであったか、本当に分かっているのか …
そう思って、悔しくて、つい涙が出るのです。

(Photo by ISSA)
彼らが遺書に書き残した「お国」という言葉は、決して額面どおりに「国家」や「政府」を意味するのではなく、
「彼らが愛し慈しんだ故郷の人々、町並、山河や、伝統文化に浸透する真心の総称」なのだということを、読み取ってくださいね。

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9 本質的な問題は左翼的思想
賢明な読者は既にお気づきだと思いますが、現代社会における最も本質的な問題は、
こうした公のために殉じた私たちの祖父母に感謝し、その冥福を祈るという、人として当たり前の行いを許容しない「左翼的思想」です。
長くなるので、このことは次回作で詳しく述べたいと思います。

おわりに
遊就館の一角に、奇跡の椰子の実が展示されています。

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この椰子の実は、1944年7月にフィリピンのマニラ船舶司令部に所属する陸軍軍属の山之内辰四郎さんが、
同郷の友人・飯塚正一さんに宛て、マニラ湾から望郷の思いを込めて海に流したものです。
1年後、山之内さんは戦死しますが、
30年後の1975年、この椰子の山内さんの故郷、島根県出雲市大社町の「稲佐の浜」に流れ着いたのです。

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山之内さんの妻・きよ子さんによって、これは山之内さんの筆跡であることが確認されました。
南方に送られた多くの将兵は、この歌を口ずさんで、望郷の思いを募らせたと言います。
彼らのような、南方に送られた将兵の立場になって、「椰子の実」(注5) の歌詞を、一言一句、噛み締めてみて下さい。
(注5) 「椰子の実」は、1900年に島崎藤村が執筆した詩で、1936年、日本放送協会大阪中央放送局が放送していた「国民歌謡」の担当作曲家の大中寅二が、この詩に曲を付してこの歌が完成した

今年は終戦から80年。
連合軍、左翼メディア、周辺国による情報工作等によって捏造されてきた「戦後レジーム」という名の虚像から脱却し、真実の歴史を問い直す夏にしてみませんか🍀

(「大将軍八神社ホームページ」より)
