「葉港」と呼ばれた軍港・佐世保
佐世保シリーズ第3弾は、日本の「四大軍港のひとつ」としての佐世保に関するお話となります。
日本の近代海軍の夜明け
明治初期、新政府は近代国家の建設に向けて「富国強兵」をスローガンに掲げ、その一翼を担ったのが海軍でした。
明治政府は、迫りくる欧米列強と対等に渡り合うために、軍艦の配備を急ぐとともに、
急峻な山に囲まれ、外敵の侵入を拒み、軍艦の航行・停泊が自在で、水深の深い穏やかな入江など、厳しい地勢条件を満たす軍港を必要としていました。
鎮守府と海軍工廠の発展
近代日本海軍の軍港として、1889年までに横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四か所が選定されました。
こちらの記事でも述べたように、近代海軍の創設期は、先ず、横須賀が中心的役割を果たしました。
1865年、フランソワ・レオンス・ヴェルニーら、フランス人技師を招いて横須賀海軍工廠の前身である横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設され、
ドライドック、製鉄、艦船造修、赤レンガ、灯台、代数・幾何・解析・三角関数や治水など様々な先端知識・技術が、横須賀にもたらされました。

右:横須賀製鉄所で製作された赤レンガ
《横須賀市自然人文博物館》
(Photo by ISSA)
1884年に横須賀に鎮守府(注1) が置かれると、1889年に呉と佐世保、そして1901年には舞鶴と、順次、鎮守府が開庁されました。
(注1) 鎮守府とは、軍港に置かれた海軍の本拠地のことで、各海軍区を防備する一方、港湾施設、造船所、補給倉庫、病院、ライフライン等、多くの施設の運営・監督を行っていた
この時、あわせて鎮守府内に造船所(後の海軍工廠)も創設され、横須賀で得られた知識や技術が、呉、佐世保、舞鶴にも広まっていったのです。

(Created by ISSA)
これら四大軍港のうち、特に呉の発展は目覚ましく、やがて「東洋一の軍港」と称されるようになったことは、こちらの記事でご紹介したとおりですが、
佐世保も、これら横須賀や呉に匹敵する軍港として、急速に発展していきました。
佐世保が選ばれるまで
佐世保港は、古来より天然の良港として知られ、平安時代は遣唐使船の寄港地として利用されていたようです。
江戸時代には、西欧貿易の先駆者であった平戸藩に属し、沿岸捕鯨や長崎貿易の風待ち港として利用されました。
候補地として、佐賀県の伊万里も検討されたようですが、

(Created by ISSA)
上図のように、佐世保の方がより湾の奥行が深く、外洋から見るとそこに港があるとは予想しにくい地形(注2) だったため、最終的に佐世保に軍配が上がりました。

(Photo by ISSA)
(注2) 湾の形状がヤツデの葉に似ていることから、いつしか佐世保港は「葉港」(ようこう)と呼ばれるようになった
1883年8月の軍艦「第二丁卯」(艦長は、当時まだ海軍少佐だった東郷平八郎)による測量調査を経て、1886年5月に佐世保鎮守府の設置が決まり、1889年7月に開庁されました。

佐世保鎮守府では、後年、東郷平八郎や米内光政(注3) などが司令長官を務めています。
(注3) 長崎で有名な「親和銀行」は、1939年に海軍大臣となっていた米内光政が命名したもの。本人揮毫の「親和」の額が、佐世保本店に掲示されている
軍港・佐世保の発展
その後も、巨額の国費と技術が投じられ、造船所、ドック、工場や倉庫などの施設が次々に建設されました。

現在も、海上自衛隊が使用している
(Photo by ISSA)
それまで、人口約4千人の閑散とした農漁村に過ぎなかった佐世保村は、軍港設置後、人口が約5万人に膨れ上がり、1902年4月、市へと昇格しました。
1905年の日露戦争(注4) では、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ東郷平八郎率いる連合艦隊が、佐世保から出港して日本海海戦に臨みました。

《海上自衛隊 佐世保史料館「セイルタワー」》
(Photo by ISSA)
(注4) あまり知られていないが、日本海海戦の旗艦を務めた戦艦「三笠」は、戦争終結後の1905年9月11日、佐世保港内で弾薬庫の爆発事故を起こして沈没している。その後、三笠は引き揚げられて修理され、紆余曲折を経て、現在は横須賀に記念艦として係留されている
軍事技術の発展にともない、1917年以降、干尽地区に水雷庫や軍需部の倉庫が建設され、

こちらは、レンガと石積み造りとなっている
(Photo by ISSA)
1922年には、郊外に針尾送信所が完成します。
1923年には、第一次世界大戦の凱旋記念館(注5) が建設されました(この頃の、日本海軍は「世界三大海軍」と称されるまで発展し、栄華を極めていた)。

(Photo by ISSA)
(注5) 当時、最新技術だった鉄筋コンクリートが、一部に用いられているほか、幾何学的でな西洋的な外観が特徴的で、戦後は米海軍のダンスホール・映画館として使用された。1977年に日本に返還され、現在は佐世保市民文化ホールとして使われている
佐世保海軍工廠で最後に完成した大型施設が、全長343.8m、全幅51.3mの第七船渠です。
この船渠は、戦艦大和などの超弩級戦艦の造修を目的として、1940年に完成し、現在もなお第四ドックとして使われています。

(Photo by ISSA)
1941年7月には、長崎の造船所で建造中だった戦艦武蔵が入渠し、スクリューや舵、艦底塗装など艤装を行っています。
このように、佐世保は大戦中も発展し続け、終戦前の1944年には人口が28万人を超え、九州で第四の都市にまで急成長しました。

しかし、1945年6月の大空襲により市街地の中心部を焼失。また、鎮守府の庁舎も焼失してしまいました。
戦後、辿った道
東山海軍墓地には、佐世保鎮守府が置かれてから太平洋戦争が終わるまでの約60年間に亡くなった海軍将兵17万余柱の霊が祀られています。

《東山海軍墓地》
(Photo by ISSA)
以前、ご紹介した田中穂積の亡骸も、ここにありました。
一方、軍港は米軍に接収され海軍も解体されましたが、海軍工廠が使っていた施設は佐世保重工業(SSK)が引き継ぎました。
SSKは、1960年代初頭には、当時としては世界最大級のタンカーだった日章丸3世(注6) をはじめ、多数の輸送船や貨物船等を建造しています。

《出光創業史料室》
(Photo by ISSA)
(注6) 1960年12月、SSK は出光興産から13万トン級の巨大タンカーを受注。進水式には、出光佐三やライシャワー駐日米大使が参列し、見学者は2万人に達したという
ちなみに、いわゆる「日章丸事件」(1953年)のときにイランに赴いた日章丸は、先代の日章丸「2世」の方になります。
米海軍佐世保基地(CFAS)は、終戦から間もない1946年6月に創設され、揚陸艦や掃海艇などの活動拠点として現在に至っています。
そのため、街中には所々にアメリカっぽさがうかがわれ、例えば、佐世保バーガー店などが有名です。

(Photo by ISSA)
アメリカン・ビレッジは、2022年8月に船越町にオープンした比較的に新しい飲食店です。

(Photo by ISSA)
郊外には、アメリカ人の女性が創業したベーグル屋さんがあります。お店では、熱々の焼きたてベーグルが頂けます。
正直、こんなに美味しいベーグルは初めて食べました。ネット通販でも取り寄せできますので、是非、お試しください。

(Photo by ISSA)
近年では、クルーズ客船の寄港地としても注目を集めており、観光港としての役割も担いつつあります。
港湾地区には、港町らしい風情ある景観が広がっていました。

(Photo by ISSA)
ここから、SASEBO軍港クルーズに乗りたかったのですが、冬季のため運休中でしたので、倉島岸壁へと護衛艦の一般公開に行ってきました。
この日、見学できたのは、2023年3月に就役したばかりの最新鋭の護衛艦「みくま」でした。

(Photo by ISSA)
従来の護衛艦とは一線を画したコンパクトかつ多機能な護衛艦で、徹底した省人化により乗員を60人程度まで削減する一方、排水量3,900トン、全長133m、最大速力約30ノットと、従来の護衛艦と同等のスペックを保持しています。

注目点は、レーダー反射断面積(RCS)を低減させ、ステルス性を向上させたスッキリした船体と、

(Photo by ISSA)
「ユニコーン・アンテナ」と呼ばれる複合型マストを採用している点です。

右:ユニコーン・アンテナ
(Photo by ISSA)
豪海軍への売り込みも模索中です。
近くには、海上自衛隊 佐世保史料館「セイルタワー」があります。
1898年、海軍士官の集会所として建築された佐世保水交社の一部を修復し、1997年に7階建の新館を増設して誕生しました。

(Photo by ISSA)
旧海軍から海上自衛隊に至る様々な艦艇の模型や史料が展示されており、近代日本海軍の歴史や活動が分かりやすく解説されています。

(Photo by ISSA)

(Photo by ISSA)
ちなみに、第47代佐世保地方総監の息子さんは、アイドルの西洸人さんです。
させぼ四ヶ町商店街は、昔ながらのアーケードです。

(Photo by ISSA)
アーケードから少し外れたお店で、入港ぜんざいを頂きました。
旧海軍では、軍艦が母港に帰港する前夜になると、無事に帰還できたことへの感謝の気持ちを込めて、艦内で「ぜんざい」が振舞われていました。

《ムギハンプラス》
(Photo by ISSA)
おわりに
2016年、旧海軍の鎮守府が置かれた横須賀、呉、舞鶴、佐世保の四市が「鎮守府 日本近代化の躍動を体感できるまち」として「日本遺産」に認定されました。
旧海軍の四大軍港が活動し始めた後、現在の海上自衛隊に至るまで、あらゆる水上艦艇や潜水艦は、全て国産の技術力で賄われてきました(他方、戦後の航空機の殆どは、欧米品のライセンス生産で賄われている)。
このことは、「葉港」佐世保をはじめとする四大軍港が、海洋国家ニッポンの安全と繁栄を支え続けてきた証であり、これからも、海洋と共に栄えるこの国の屋台骨として機能し続けることでしょう🍀
