松賢堂と正見学(全文無料)
鍵付き表示になっておりますが、閲覧無料です。
滅茶苦茶長文になるので、そんなに読んでられないよ、という方のために、3分で読める解説文を掲載しておきます。
3分でわかる松賢堂
**何を学ぶのか**
仏教の「八正道」と東洋思想を掛け合わせたオリジナル・メソッド「正見学」を通じ、偏りのない視点と思考力を養います。
**誰に向いているのか**
- 自己啓発に興味がある社会人
- 向上心の強い学生
- ストレスや息苦しさを解消したい方
- …など、自己変革を目指す方全般
**どのように進めるのか**
- オンライン記事+掲示板で双方向ディスカッション
- 春夏秋冬にオフライン会合を開催予定
- 講師役・受講生の垣根を越えて学び合うスタイル
**参加すると何が得られるのか**
1. 深い「内省力」
2. 歴史や古典から本質を引き出す「洞察力」
3. 日常生活に応用する「実践性」
4. 安心して話せる「コミュニティ環境」
ここから先は、詳細版(約12,000文字)をご用意しています。
じっくり知りたい方はぜひ、ご一読ください。
以下、松賢堂と正見学が目指す、学舎の在り方について、私なりに考えたことをまとめております。
1)はじめに
友人経営者から経営者育成教育の依頼を受けて
そもそもの松賢堂の始まりは友人経営者から買収先企業の経営を任せる人材育成について依頼を受けたことから始まります。
依頼されたのは、帝王学、ビジネススキル(営業やポータブルスキル)、金属材料学でした。
残念なことに友人が買収した企業に隠し負債があり、様々な紆余曲折を経て解散ということになってしまいましたので、彼は別の新天地へと巣立っていくことになりましたが・・・
友人から依頼を受けた際、内村鑑三の「後世への最大遺物」について考えているんだ、という話がありました。
次の世代へのバトンとして何が遺せるのか?
彼なりに思うところがあったのでしょうね。
あれから月日が流れ、今年、私自身も当時の彼と同じ年齢に到達しました。
彼の誕生日を祝うメッセージを送ったら、「何かあったのか? 」と尋ねられ、私も甥に娘も生まれたし、そろそろ次の世代にバトンを渡す年齢になってきたなあと思うようになりました、と返したんですよね。
とはいえ・・・
後世への最大遺物 ~ 自分に何が遺せるのか?
内村鑑三は、こう言います。
一番良いのが「金を遺すことだ」。
二番目に良いのが「事業を遺すことだ」。
三番目に良いのが「思想を遺すことだ」。
この三つを読んで思わず苦笑しました。
いまだに親の代でつくった借金の返済に追われ続けている身で金なんか遺せないよな。w
事業といっても・・・この零細町工場を継ぎたいという人いるのかな?
思想ねえ、そんなご大層な思想なんて持ってないしなあ、と思いつつ読み進めていくと・・・
内村鑑三はさらにこう述べます。
だが、こういったことは才能がある人でないと遺せない。
才能も運もない凡夫は「勇ましい高尚なる生涯」を遺すことだ、と。
で、「勇ましい高尚なる生涯」とは何なのか? という説明が始まります。
要約すると、
「生き方」そのものは誰もが持ち得るものであり、その人の全ての努力や信念、そして逆境に屈せずに歩んだ日々が、後世へと強いメッセージを送る遺産となるというものです。
一生懸命に生きてきた人の「人生経験」、それこそが最大遺物である、と。
そういうもので良いのなら、自分にも遺せるかもしれないな、と思ったわけです。
で、私の頭の中で、この最大遺物と結びついたのが、今まで取り組んできた松賢堂講義だったというわけです。
今まで松賢堂講義を受講してくれている方々であればピンとくるかもしれませんが、読者の皆さんにとって私の脳内変換は唐突にしか思えないと思います。
そこで、まず、松賢堂という言葉に篭められた私の思い・願いの解説を行ないたいと思います。
そこから学問として、そして最大遺物へ、昇華する可能性を感じたのか?
私の脳内で辿った道筋をお話していきたいと思います。
2)松賢堂の名前の由来
松賢堂は「しょうけんどう」と読みます。
「しょうけんどう」という言葉は、ガウタマ・シッダールタ、日本では仏陀と呼ばれる仏教の開祖が悟りを開き、最初に説いた教え(初転法輪)の中で【四諦】を体得するための具体的実践法として説かれた【八正道】の中に出てきます。
実は私。四諦や八正道については、高校時代にかなりの時間を割いて恩師から叩きこまれていました。
が、怠惰な学生だったため、その凄さ、精髄を理解することが出来ておらず、単に記憶の中に留めていただけでした。
後年、後継者として父の会社に呼び戻され、数多の艱難辛苦に遭遇することになりました。
その過酷な状況の中で、もがき苦しんだ私は、自分自身の拠り所を見失っていくことになります。
もがけばもがくほど苦しみが増す中で、ふと思い出したのが、四諦・八正道だったのです。
多くの困難が押し寄せてきていたのは確かなんですが、自分自身もまた心を固くしてしまい間違った対処をしていた、と気づかせてくれることになったのです。
もちろん、対処法を知り、実践していったからといって、そう簡単に事態は良くならないわけなんですが・・・(苦笑)
ただ、心に重く圧し掛かっていた苦しみの何割かは軽減したと思います。
そうした経緯があっただけに、友人から依頼された講義を行なう際、自身が主催する学び舎の名前として、四諦・八正道に関連する名前をつけたいと思ったのです。
ここで、四諦・八正道とはどういうものなのか?
仏教に興味のない方にとっては、チンプンカンプンになるかもしれませんが、大雑把に解説していきたいと思います。
四諦とは、四つの諦観のことになります。
諦観とは、本質をしっかりと見ること、一種の悟りの境地から見たものとなります。
つまり、四諦とは、四つの本質であり、四つの悟りということになります。
なお、仏陀の悟りを大雑把に表現するとすれば、
「人間が生きていく上で味わう苦しみから精神的に解放される考え方、ものの見方についての悟り」ということになります。
ここまでの説明では不十分だと思いましたので、こからさらに詳しく解説してみます。
苦諦 ~ 人生では必ず苦しみに遭遇する
人間は生まれてくれば必ず死にます。
そして、人が死ぬときは肉体的苦しみの中で死ぬのが一般的です。
心不全や呼吸器不全、病気や事故等々。
中には苦痛すら感じることなく一瞬で死ねる特殊な死に方もあるかもしれませんが、そういった細かな事例はさておき、人の生涯最後には必ず死という苦しみが訪れます。
そして、死なないまでも病いで苦しむことは多々あります。
また、病気になることが少ない人であっても、老いて体の節々に痛みが走るとか自由に活動できないという苦しみもあります。
老い・病い・死は、生まれてくると自動的にセットでつきまとうことになりますから、生そのものが苦と言い換えてもいいでしょう。
このような苦しみを四苦と言います。
そして、どのようなタイミングで付与されたかは分かりませんが、以下の四つの苦しみも四苦のあとに付け加えられることになりました。
愛別離苦 愛する者と別れなければならない苦しみ
怨憎会苦 憎いと思う相手と出会ってしまう苦しみ
求不得苦 欲しいものが得られない苦しみ
五蘊盛苦 肉体が欲望を次々に生じさせるという苦しみ
最初の四つの苦しみを四苦といい、これに追加された新たな四苦を加えると八苦になります。
ここから、四苦八苦という言葉が生まれたとされています。
仏陀は、人生の中に四苦八苦が存在するという真理を悟り、言語化したというわけですね。
集諦 ~ 苦しみの原因についての探求
集諦は、「じったい」もしくは「じゅうたい」と読みます。
突然「集める」と言ったって何を? となってしまいますよね。
この集めるとは、集起の省略形だと言われています。
では、集起とは何なのか? と言いますと、「縁起を集めたもの」と言われております。
さらに、縁起とは何か? と言いますと、因縁生起、様々な事象が複雑に絡み合い影響しあうことで発生するものになります。
ここまでのことを踏まえ端的に表現するなら、集起とは原因の集合体、様々な原因を手繰り寄せたもの、原因の筋道と言って良いかもしれません。
仏陀は、様々な方面から苦しみの原因を探っていきました。
その結果、どうやら人間の苦しみは、すべからく煩悩を起源として生じているらしいという結論に辿り着くことになりました。
※)煩悩に関しては十二縁起や108の煩悩に関する複雑な場合分け等々があるのですが、ややこしいのでここでは割愛します。
滅諦 ~ 原因を取り除けば苦しみは消える
仏陀は、煩悩こそが人を苦しめる根源だと喝破したわけですが、ここから先、非常に厄介なお話になります。
人間の苦しみ、それは煩悩から発せられるという原因を突き止めることが出来たまでは良かったのですが、じゃあ、煩悩を消去するにはどうしたらいいんだ? となると・・・
煩悩が生じるのは生きているから、すなわち、死ねば煩悩が消えるというお話になるんですよね。
これって地球温暖化の原因が人類であり、全人類を統御するのが不可能であるとするならば、地球温暖化を止めるためには人類を滅ぼすしかない、という結論にたどり着くのと似たような絶望感があります。
目的が人類の救済であるはずなのに、人類を滅ぼしてどうする? というお話になってしまう。
それと同じように、人間を苦しみから解放するには人間を死なせるしかないって、大いなる矛盾だよね、となるわけです。
実際、涅槃寂静という言葉があるのですが・・・
悟りの境地と訳されると同時に「死」とも訳されます。
死ねば皆仏になるってところでしょうか。
いやいやいや。それじゃあ救いがないですよね。
てか、やっぱりそこに行き着いていましたか・・・という感じです。
行き詰まりを見せるかに思われたのですが、ここで画期的な場合分け論が登場することになります。
それは、有余涅槃と無余涅槃という概念です。
有余とは、まだ残っているものがあることを指します。
つまり、死んでいない状態。
限りなく煩悩はゼロに近いんだけれども、やっぱり煩悩はあるよ、という状態。
これを有余涅槃といいます。
一方の無余涅槃は、完全に煩悩が消滅した状態。
つまり、死んでしまい、煩悩が発生しなくなったことを指します。
二つの場合分けをすることで、仏教が目指す状態は有余涅槃であるとし、矛盾を解消することに成功していくことになります。
道諦 ~ 煩悩を減らす具体的道筋・八正道
さて、有余涅槃、すなわち煩悩を極限まで少なくする方法はあるのか?
その方法論として仏陀が説いたのが、「八正道」になります。
八正道とは?
◇ 正見
目標: 物事の真理、特に縁起を正しく理解する。
効果: 無明(根本の無知)を取り除くことで、苦の原因が何であるかを明確にし、正しい方向へ修行の意志を引き上げる基盤となる。
◇ 正思惟
目標: 正見に基づき、執着から離れる。
効果: 自己中心的な欲望や怒り、憎悪といった煩悩の芽を摘み、心を清らかにする。
◇ 正語
目標: 真実かつ有益な言葉を使い、他者と円滑なコミュニケーションを実践する。
効果: 嘘や中傷を避けることで、社会的・内面的な調和が保たれ、心の清浄が促進される。
◇ 正業
目標: 身体を通じての正しい行いをする。殺生、盗み、邪淫の禁止。
効果: 悪い業を回避し、心に余計な重荷や後悔が生じるのを防ぐ。
◇ 正命
目標:他人を傷つけない正当な手段によって生計を立てる。
効果: 他人との衝突や摩擦が減り、心の平穏が得られる。
◇ 正精進
目標: 日々努力を怠らない。
効果: 不断の努力により、持続的な進歩が得られる。
◇ 正念
目標: 外界から受ける刺激に対する感覚のありのままの反応に気づくこと。
効果: 無自覚な反応により煩悩が生じることを減少させ、心の乱れが抑えられやすくなる。
◇ 正定
目標: 心を一点に集中させ、深い瞑想状態(禅定)に入る。
効果: 心の集中が深まると、雑念が取り払われ、本当の智慧(般若)のための土台が築かれる。
以上がざっくりとした四諦・八正道の解説です。
専門家が読んだら、ここが不足、あそこがマズイ、となるかもしれませんが、出来るだけ簡便でそれでいて詳しくとなるとこんな感じになります。
悪しからず。
螺旋階段の如く(循環思考)
さて。実際に八正道を実践してみようとすると、あちこちで躓き、停滞を生じさせてしまいました。
そもそも正見といっても、本当に正しくモノを見れているの? となりますし、正思惟にしても、うーん、正しく考えられているのだろうか?
正語で無駄話がダメといっても、冗談ぐらい言わないと円滑なコミュニケーションがしづらくなりますし。
まともに出来ているとすれば、正命で真っ当な仕事をしているぐらいかな?
いや待てよ、製造業って大なり小なり環境破壊しているから、厳密にはどうなんだ? という感じで、細部が気になるようになり・・・
全然、雑念を払えてねーじゃないか!?
となってくるんですよね。
ハードルが高いのか? そもそも自身の八正道に対する理解が足らないのか? それ以外の理由か? あるいは全部なのか?
堂々巡りで前に進めないのなら、いっそのこと螺旋階段のようにグルグルと循環しながらゆっくりと成長していけばいいんじゃないか? と考えることにしたのです。
未熟者は未熟者なりに、まずは間違っていても良いからグルリと一周してみようという感じですね。
第一段階 ~ 認識の転換:Observe(観察)&Orient(状況判断)
正見と正思惟の理解が深まることで、知識不足な点や執着について、多少なりとも感じたり考えたりできるようになります。
それが苦しみとどのように繋がっていくのかも次第に分かるようになります。
こうして、少しずつではありますが、無明の状態から真理(諸行無常)が何となく分かるような、そんな感覚が得られるようになります。
第二段階 ~ 行動と習慣の変容:Decide(意思決定)&Act(実行)
正語、正業、正命という倫理的実践についてですが、出家者相手に作られたものなので、一般人にとっては、色々と守れないことがあります。
とはいえ、出来る範囲で会っても悪いことをせず、善いことをするよう心がけることは、生活をしていく中で充実感をもたらしてくれます。
第三段階 ~ 精神の浄化と集中の向上:Level_Up(成長)
正精進、正念、正定ということで、雑念が晴れていくように修行します。
雑念が減り、心が明晰になっていくと、洞察力が高まり、心の平静さが増し、煩悩が生じても対処しやすくなるようです。
第四段階 ~ 知恵の成長から正見への回帰:そしてObserve(観察)
心が平静になることで、真理に対する理解が深まります。
具体的には、自己中心的な考え方が抑えられ、物事の本質(縁起、無常、苦)を理解する智慧(正見)が育まれます。
最終的には、これが執着から離れることに繋がっていくのでしょうね。
飛躍段階 ~ 解脱へ:
正見が極まると、煩悩と執着の根本原因が断たれ、心が完全に浄化されるそうです。
その結果、苦の連鎖が止まり、有余涅槃という解脱状態に近づくらしいのですが、私はまだそんな段階ではありません。
以上のように、循環(ループ)を考えればいいのかな? と思うようになっています。
つまるところ、正見の視座が上がっていくようにすれば、自ずから螺旋階段を上がっていける。
もしくは、正念による気づきがしやすくなるというのもあるのかな? と。
以上のことから、正見と正念が、八正道の肝になると考えるようになった次第です。
そこから、正見の方が語呂が良いし、八正道の最初だしという理由で、正見道をキーワードにしようと思い至った次第です。
3)同音漢字に篭めた思い
「松賢堂」の名称は「正見道」に対し、同音漢字を当てて作り上げています。
もっとも単純な理由は、「正見道」という漢字では、学舎っぽさが感じられないからです。
「しょう」「けん」「どう」という音で、自分のイメージするものに相応しい漢字は何か? と考えた際、最も簡単に決まったのは、「賢」です。
「見」=「智慧」=「賢」
正見は、仏教における智慧そのものですし、賢という漢字以外に相応しい字が思いつきませんでした。
「道」=「堂」
次に簡単に決まったのが、「堂」です。
実は、松賢堂の紹介文を書いている際に、自分の中で横道にそれる格好で作成した記事が下記となります。
自分自身、あるいは他人に変革を生じさせようとする場合、【環境】を変えることが有用であると考えています。
当然ながら、自分を変えることも、他人を変えることも、一筋縄ではいきません。
そう考えた際、【変革に適した環境がすでにある】 というのが楽だし良いよな、と思ったわけです。
つまり、世の人々にとっても、共に学び合える場所、共に研鑽し合える仲間、そういうものが必要なのではないか? ということですね。
私自身、過去に、いくつかの生涯学習系の勉強会や研究会等々に顔を出してみたことがあります。
どの会であっても、基本的には「とあるテーマについて研究する」というものでした。
私が考えているような「特に研究テーマを絞ったりしない」というものはなかったんですね。
当たり前といえば当たり前です。
そもそも講師役が生徒役に教えるとなると、講師の専門分野(テーマ)限定での集まりにしかならないからです。
でも、そういうのは巷間どこにでもあるじゃないですか。
私が考えているのは、講師役も生徒役と共に学び合う、というものです。
講師役が知らない分野については塾生が代理で講師役を務める。
つまり、常に同じ人物が講師である必要はない、という考え方ですね。
そもそも私自身、悩める子羊ですし、成功者でもありません。
数多くの失敗をしてきておりますし、学識や知識が豊富なわけでもない。
人格面で見ても、特段に優れた人物というわけでもない。
ただまあ、だからこそというか、「苦しんでいる人」や「弱い立場にある人」の気持ちに寄り添いやすいように感じています。
私は、成功者でも賢者でもないもんですから、他人に対しマウントを取る
こと自体が出来ない。w
このことがかえって楽に話し合える関係性の構築に一役買ってくれるかもしれない。
実際、今まで運営してきた松賢堂では、塾生が講師役になり、堂主や他の塾生が、講師役の塾生にお金を支払って受講することも行なってきています。
その結果、私は自らを師匠とせず、堂主と名乗るようにしているわけです。
※)私は、堂主という呼称を、参加者が研鑽しあう場を提供し管理する御堂の主という意味で使っています。
以上の考え方もあり、正見道の「道」を「堂」と表現したのです
【堂】には「多くの人を受入れる場」という意味があります。
多くの人を受入れるには、限定された事柄だけを学ぶのではなく、様々な事柄を学ぶという器が必要になります。
器に形(テーマ)を設ければ、その形に添うモノしか収めることが出来ません。
だから、松賢堂では形無し(どんな題材でもOK)としたわけです。
さて、ここまでで「賢」と「堂」という漢字を当てはめた理由の説明を行なってきました。
最後に、なぜ「松」の字を選んだのか? について説明することで、松賢堂の名前の由来に関しての説明は終わることになります。
「正」=「尚」or「松」
さて、最後の「しょう」ですが、これが一番悩みました。
実は、候補として「尚」の文字があったからです。
尚ぶ、もしくは、尚ぶ ということで、意味は尊ぶ、貴ぶ、となります。
よく武道を教えている組織では、勝負=尚武とかけて尚武館と名乗るところが結構あります。
最初は、賢を尚ぶ、で尚賢堂かな? とも思ったのですが・・・
武道の道場と間違えられやすそうだなとか、賢者の両横が、ポカンと二つ口を開けて並んでいるように見えてしまい・・・
いやぁ~、どうなのかなあ? などと思ったわけですね。
また、尚賢という言葉は、墨子の中にも出て来ます。
使われ方として、賢者すなわち才能ある者を登用せよ、というもので、私の願いである自ら学び自己変革を遂げていくというものとは違うなあと思ったのです。
だから、他に何か良い感じはないかなあ? と悩んだわけですね。
で、ふと、自分自身の苗字である松井。
この「松」の文字って「しょう」とも読めるよなぁと思いついたのです。
そこで「松」の文字にどのような意味・由来等々があるのか?
調べ始めることになったのです。
実は、松の木は、数ある樹木の中で、かなり早い段階から荒れた土地に根を張る植物だったのです。
しかも、松は成長していく過程で周囲の土壌を改質し、肥沃な大地を形成するという自然界において重要な役割を担っていたのです。
また、菌類(松茸、松露、アミタケなど)と共生しながら生き抜き、昆虫や鳥類の育成にも貢献しています。
そして、松は、先史時代の人類にとって非常に重要だった 松明 にもなったのです。
昔の人類にとって、火は特別なものでしたし、神事でも松明は欠かせない存在でした。
そこから、神様が降り立つ木、神様の宿る木、として松は樹木の中でもランクの高い木として扱われるようになっていったのです。
松の木って、凄いやん!? と思ったと共に、
松明か・・・そう言えば! と閃くものがありました。
仏教の言葉である無明にリンクしやすいと気づいたのです。
仏教では無知のことを無明と表現します。
何も知らない、分からないから、道理も見えない。
あたかも暗闇(無明)の中を彷徨っているかのようだ、と。
先史時代の人類も月あかりや星の光を頼りにはしていたでしょうが、何と言っても松明の明るさの方が圧倒的だったでしょう。
松賢堂。
それは、仏の智慧をお借りし、自身の無明に松明の灯りをともす場所。
そして多くの松明が集まる場所。
私の中で急速にイメージが固まっていった瞬間でした。
そして、伝教大師(最澄)が残した言葉を思い出していました。
一灯照隅 万燈照国
私のような凡夫でも精進を重ねれば一隅を照らせるかもしれない。
私と同じような志を持つ人が集まって来て、広がり、繋がっていけば、より大きな面を照らせる光が出来るかもしれない。
「松」と文字は、「松明」の光を表わす良い選択になるかもしれない、と。
以前、まいむまむ先生へのお返事という記事の中でも書いたことがあるのですが、その中で、
松賢堂の学問は、間接的には世を救う学問であれかし
としたのは、松賢堂の名前の由来から来ていたわけです。
4)実践の障害と軽減策
四諦・八正道の理念は素晴らしいのですが、元々は出家者の修行のためのものです。
そのため、実生活との折り合いという観点から見ると難しいものがあるだろうと考えています。
時間と環境の不足:
忙しい仕事や家庭生活の中で、深い内省や瞑想、自己反省のための静かな時間を確保するのが難しい。情報過多による混乱:
膨大な情報や多様な意見に翻弄され、正確に物事の本質を把握するための判断力を維持するのが困難になりがち。社会的制約:
企業秘密や職務上の義務、さらには日常生活の中での倫理的なジレンマ(例えば、正語における本当のことが言えない状況や、正業に関連して動物性食品の摂取と健康管理の葛藤など)が存在する。経済的・環境的余裕の不足:
正定や正念など、心の集中を要する実践は、安定した生活環境や経済的な余裕がないと継続するのが難しい。
上記の箇条書きにあるように、出家者は一日の大半を修行に当てられるのに対し、在家者は余暇の中でしか修業が出来ません。
また、社会生活上の制約(会社や家族)もあり、矛盾も飲まねばならぬことがあります。
このように考えた場合、日常生活に追われる在家者が、四諦・八正道を学び実践するという手法を取るのは難しいのではないか? と思いました。
非日常空間の共有と情報処理の負担軽減
八正道の中で大きな負担となるのが、
正見と正思惟という情報の収集・分析からの思考の整理
正語の本音で向き合える仲間の存在
正定の心を落ち着かせる場の確保
辺りになるのではないか? と思います。
正念のマインドフルネスについても、正定と同様に場の確保があった方が良いですね。
こういうのを補う場として、松賢堂が機能すれば良いなと考えております。
松賢堂の理念に賛同し、共に学び合おうという仲間が集まれば、気兼ねなく本音で向き合えるようになりますし、イベントへの参加時間は非日常空間として心を落ち着かせる場にもなります。
参加者それぞれが講師役となり、様々な学びを提供できるようになれば、世の中に氾濫する情報に流されず、上質な知識だけを蓄えることが出来るようになります。
このように、上手く松賢堂という場を利用してもらいたい、というのが、私の願いにもなります。
※)もっとも今の参加人数では全然足りないのですが・・・w
5)故・安岡正篤師に学ぶ
ここまでの中で松賢堂として、具体的な学問の方向性を示してきませんでした。
名前の由来となった四諦・八正道は、「生きていく上での苦しみを軽減する方策」ではあっても、学問ではないからです。
松賢堂では、テーマを絞らないとはしていますが、テーマを定めないというわけではありません。
無数のテーマを探究していっても構わないわけです。
が、それでは取り止めがなくなってしまうだろうとも思いました。
人間として生きていく、ということが根幹にあるわけですから、人間学がいいよなあとなりました。
となると、東洋哲学の大家である故・安岡正篤師の教えを抜きには考えられないとな、となった次第です。
三識を磨く
故・安岡師は、常日頃から人間を磨くこととは三識を磨くことと仰られていました。
三識とは、知識・見識・胆識のことになります。
知識:
物事についての情報を得る行為及び、そのデータを指します。
情報は自ら思考するための素材であり基盤となる要素です。見識:
蓄積した知識や論理に基づいて物事の本質を見抜く力。
物事の真理や背後に潜む関係性を理解するため必要不可欠なもの。胆識:
見識に基づき実際に正しい行動をする力。
自らの内面と現実のバランスを保ちつつ実践する必要がある。
故・安岡師は、陽明学者でしたので、知行合一、実践を伴う知というものを非常に大事にされていました。
と同時に陽明学の欠点である自らの内面だけに頼り切る格好での実践を戒めておられました。
ですから、胆識を発露する前段階に当たる見識を磨くことを重視しておられたわけです。
八正道において正見を重視するのと同じ構図と言えるでしょうか。
古典・歴史・人物に学ぶ
そして、見識を磨くには、
「古典と歴史と人物の研究、これを徹底しなければ人間の見識というものは磨かれない。」
とも仰られていました。
また、松尾芭蕉の言葉を流用し、
「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめる」
とも仰られていました。
これは、歴史上の事跡だけを追うのではなく、なぜそうなったのかの背景や、どうしてそういう決定を下したのかという志や思考を追いかけるということを表わしています。
このように、八正道における「正見」と「安岡教学」をミックスすることで「正見学」を生み出すことにしたのです。
6)正見学の在り方
因・縁・果の観点から考える学問
正見学は「正しい見方(見識)を修得するための学問」として定義づけしています。
特段、決まったカテゴリがあるわけではなく、どんな題材からも学びを引き出すことが出来ると考えています。
とはいえ、因・縁・果を考えるとなった場合、最も研究しやすい題材が歴史学となります。
そして、すべての事象(人間にしても物質にしても)には、必ず歴史があります。
であればこそ、歴史学を正見学の根本的な柱に据えたいと考えています。
そして、松尾芭蕉の言葉にもあるように、歴史的な事跡だけを追うのではなく、「もとめたる所をもとめる」、そういう学究姿勢でありたいと考えています。
さて、正見学で大切な概念は、下記の三点になります。
仮説や問いを立てて物事を多角的に見る
情報には多くのベクトルがかけられている
物事をさまざまな角度から検証し偏りのない視点を目指す
人間は偏見から逃れられないことを知り常に内省を行なう縁起の法則を活用する
因(根本原因):物事の発生を引き起こす根源。
縁(環境や条件):因が発芽するための環境。
果(結果):因と縁が揃って生じる結果。
この因縁の関係を理解することで、現象を合理的に分析し、
真の要因に迫る力を養います。
実践への応用
得た知識や気づきを自らの糧とし、
実生活に応用する姿勢・態度が求められます。
特に重要なのは、
「人間は偏見から逃れられないことを知り常に内省を行なう」
という点です。
どんなに公平・公正に物事を見ているように思えても、現実には偏った見方をしていると認識することが肝要です。
そうすれば内省が可能になりますし、他者に対して寛容にもなれます。
正見学の目的は、
「生きていくことによる苦しみを減らすこと」であり、
「より良い人生を歩むための心の在り方を定めること」です。
内省と寛容は、人間関係における無駄な衝突を回避する上でも重要な事であり、より良い人生を歩む上で欠かせない徳目になると考えています。
7)より良い人生をおくるために
松賢堂、すなわち、正見道の学びは、私たちがより良く生きるための土台作りを志向しています。
偏らない視点の重要性:
多角的な情報収集と合理的な思考を通じて、より良い選択肢を選ぶ
自らの偏りを自覚するとともに、他者の偏りにも寛容になることで、無用な争いや心の消耗を避ける歴史からの学び:
過去の事跡の中から、先人の思いや因縁の法則のメカニズムを理解し、人生の指針として役立てる実践への橋渡し:
得た知識や気づきを日常生活に活かし、自らの在り方や実践に結びつけることで、より良い人生を歩んでいく
また、他の参加者の人生経験からも学ぶことで、より密度の濃い実践的な学びを目指しています
正見学は、人生という実践の中で活かす学問でありたいと願っています。
現代の混沌とした情報社会において、本質は何かということに向き合い、柔軟かつ多角的な視点を持つことで、私たちの人生に大きな彩りと成長をもたらす一助になることを願ってやみません。
しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。
