いぬがしゃべりました ⑨【もう嫌い!】
「ある日突然、イヌがしゃべった!なぜ?」
中2女子 桃々と犬のサトーさんが、謎を解明するふしぎな3年間。
「犬と話したい」と夢見る方にお贈りする、冗談みたいなお話です。
(※第1話へ)
<第9話>「もう嫌い!」
朝方、夢を見たんだ。タル兄ちゃんが出てきた。
忘れられない。楽しかった日々…。
" 桃々、起きな。早く。先に学校行っちゃうよ。コチョコチョ虫がほっぺをくすぐっちゃうぞ。"
" このぬいぐるみ、やるよ。桃々のために授業で作ったんだ。"
" な、桃々。ツツジの花を摘んで、こうやって吸ってごらん。蜜の味がするんだぞ。"
…夢だって分かってる。私を起こそうとする朝の光も瞼にうっすら感じている。まどろみながら幻と現実のはざまを行ったり来たり。
" 桃々は大切な妹だから、一生守ってやるからな。"
なのにスマホのアラームが騒ぎはじめた。空気を読まない陽気なメロディ。
だけどまだ目覚めたくない。タル兄ちゃんが消えてしまいそうで。このまま目を閉じていたら、また夢に戻れるのかな。
タル兄ちゃん、どうか消えないで、このままいさせて…。瞼のすき間から涙があふれた。どこからか、かすかに雨の降る音。
『おはよ。おはよ。』
ぺろぺろ柔らかい舌が頬をなぞる。
サトーさんだ。涙をペロペロ拭いている。『しょっぱいよ。桃々ちゃん。』
朝の訪れに高揚したサトーさんと、沈んだ私の温度差がありすぎて、
「待って。サトーさん、もう少しだけ。」
スマホを充電ケーブルから引きちぎって、布団を頭からかぶる。
タル兄ちゃん、一生守ってやるって言ったじゃない…うそつき。
心臓の病気で亡くなった。
『先天性QP延長なんとか症候群』という病気の変種で、原因も治療法もはっきりしていない難病だそうだ。
夏の頃、タル兄ちゃんが中学2年生という若さで亡くなった日、呆然と床に座り込んだママ越しに見える病室の窓から、セミがうるさすぎるくらい鳴いてたのを覚えている。だからセミが嫌い。
私は最初タル兄ちゃんがいなくなったことが理解できなかった。それから毎日、毎日。ママがどんどん疲れていって。いつもタル兄ちゃんの部屋で泣いていた。私も同じ病気の可能性があるからと表に出してもらえなくなって、気がついたら友だちとも会うのがなんだかおっくうになっていた。
まだ起きたくない布団の中。
頭までかぶった暗闇。光るスマホの動画を手繰る。
少しぼやけた動画に映るタル兄ちゃん。私の目を見つめて笑顔で話しかける。転んだ私を抱っこして鼻先に、
” 泣いてばかりいないで、ほら、四つ葉のクローバー。"
と渡してくれた。タル兄ちゃんの背中でクローバーをくるくる回し、心穏やかに眺める幼い私。
タル兄ちゃん、会いたいな…。
絶対会えないのも分かっている。だけど現実を受け入れられない。
『起きて、あそぼ、桃々ちゃんあそぼ。』
フワフワの布団の上、サトーさんが私のお腹あたりにちょこんと登った。小さな足を交互に押し付けバランスをとる。腹部に、軽いんだけど意志ある生命の重みを感じた。
『桃々ちゃん、泣いてるの?』
「ううん、別に。」
今度はサトーさんが足元から布団の中へモゾモゾ潜り込んできた。スマホを覗き込む。動画のタル兄ちゃんが気になるようだ。
『この人誰??』布団の中、画面の光に照らされた無垢な瞳で訊ねる。
「ううん、いいの。」
どこから説明していいかもわからないし、そんな気分じゃない。
『桃々ちゃん小さいね。サトーさん写ってない。』
「まだ生まれてないの。」
『クローバー、もらったの?どうしたの?』
知らない者には触られたくない思い出だ。
「四つ葉のクローバー。 前に探したことあるでしょ。幸せになるの。」
『しあわせって?なに?』
「んー、元気になるの。」
『元気なるの?このお兄ちゃんだれ?だれ?ね、ね。』
あまりのしつこさにイラっとした。
「もう!うるさいなあ!あっち行ってよ。」
その時だ。
かぶっていた布団から顔を上げた瞬間、目に飛び込んだのは、なぜだかゴミがフローリングに散らかっているような光景。
なんだろう?
ふわふわ白い柔らかそうなものが床一面に散乱している。
『綿』…かな?目でたどっていくと、その奥で横たわっている布が見える。まさか…そんな…そんな…。
大切にしていた、”タル兄ちゃん”だ。
ボロボロになったぬいぐるみの抜けがら。無残にもぺたんこに惨殺されている。
嫌、嫌、嫌…。一瞬にして悟った。サトーさんの仕業だ。

「なにこれ…ひどい…」悲しくてやりきれなくて思わず怒鳴った。「サトーさんっ!!!」
びくっと小さく身体を縮めた。
あんなに大切にしてたのに。タル兄ちゃんが私のために作ってくれたのに。こんな姿に。許せない。だから思わず言ってしまった。
「ひどい!なにやってんの!バカ!バカ!ひどい!あんたなんて大嫌い!!」
耳をペタリと閉じ、私を恐れるような上目づかい。
言い過ぎた、と気づいた時には、サトーさんは大きく悲しそうな目を見開いてあとずさりする。
『桃々ちゃん・・・』
そんな姿を見せられたからって、後に引けない。なにそれ?責めた私が悪いの?だってタル兄ちゃんが可哀そうじゃん。サトーさんが悪いんだよ。私は悪くない。
やり場のない怒りをどうしていいかわからなくなった。
と同時に、鼓動と呼吸が大きな音となり頭の中で反響し始めた。強風吹きすさぶ洞穴のような巨大な音となっていく。
だんだん、だんだん、大きくなって、胸が息苦しくなってきた。いくら吸っても息ができない。
苦しい…。
「パパ…ママ…」
小さな声を絞り上げると、目の前が暗くなってきた。
見慣れたリビングが歪む。頭の中で、まるで重く冷たい鉛が液体となり、毛細血管を隅々まで広がって沁み込んでいくよう。
『桃々ちゃん、どうしたの!!』
暗闇の奥でサトーさんが叫ぶのが聴こえた。
『パパ!ママ!来て!』
◆
気が付くと、頬にざらついた布の感触を感じた。
座り慣れたソファのカバーの匂いがする。
重いまぶたをうっすら開くと、パパとママの心配する顔がのぞいていた。ママはいたわるように私の目元の前髪を指でそっとよけて「桃々ちゃん、しゃべれる?」
「…あ…う…うん。」
乾いた喉の奥から絞り出す。何年も声を出していなかったみたい。
「良かったあ。軽くで済んで。」ようやくホッとした表情。
「うん。もう大丈夫…」ああ、めまいで倒れたことを思い出した。心配させたくないから、元気ぶって起き上がろうとしてみる。
「いいの。横になってて。」いつもより優しい口調だ。
パパが覗き込む。
「不整脈によるめまいだよ。あとで念のため、いつもの病院で検査してもらおうね。それにしても…」
心配そうに目をやると、背中を向けてサトーさんが丸くなっている。
「あれから元気ないんだよ。桃々ちゃんが倒れたのはサトーさんのせいだって言って。もしかして、これ関係ある?」
パパが床を指す。ぬいぐるみの破片が散らかったままだ。
やっぱり…ひどい…。
「知らない。サトーさんなんて…。」
まだ許したくない。わざと目を背ける。
サトーさんは私を見ることもなく、
「………。」すうっと立ち上がった。
肩を落としてトボトボ部屋を出ていき、廊下を通り玄関まで行く足の爪音が静かに聞こえたら、突然ドアを前足で勢いよく搔き始めた音が聞こえた。
カリカリ…カリカリ…カリカリ…
「おいおい、どうしたんだ?」パパが見に行くと、ちょうど前足で内鍵を巧みに回し、ドアを押し開けていたところだった。
「お、おいっ!!サトーさんっ!!」
叫んだ時には、すき間から外へ走り去ってしまった。「サトーさん!戻っておいで!」
慌てながら戻って来るパパの声が響く「ありゃ、1人で階段を降りていっちゃったよ。困ったな。」
「何かあったの?桃々ちゃん?」ママが尋ねても、
「いいの。ほっといたら。」
「そんなわけにいかないよ!誰かに見つかったら大変だ。」騒いでいるパパの声。
誰かに見つかったら…サトーさんがしゃべったら…どうなるだろう。
きっと大騒ぎになるだろうな。もう会えなくなっちゃうかもな。
「パパがちょっと探して来る。うわっ、すごい雨だ。こりゃまずい、まだ赤ちゃんなのに。」遠くで響く。
まだ赤ちゃん…。
そうだよな。サトーさんはまだ分別もつかない小さな幼児。ぬいぐるみで遊んだのも本能だし。言ってたよな、そういえばあの時…、
”ワルモノが来たら、サトーさんが桃々ちゃん守ってあげる”って。
なのに、私はあんな鋭利な言葉でメッタ刺ししてしまった。
”バカ!バカ!ひどい!あんたなんて大嫌い!!”
なんだか無性にたまらなくなった。
私は思わず立ち上がり、玄関でパパが履こうとしたサンダルを奪いとった。
「桃々ちゃん!?ダメよ!まだ動いちゃ!」叫ぶママに目もくれず、表へ飛び出した。
外はどしゃ降りの雨。
アスファルトに叩きつけられ、しぶきが舞う。
マンションの軒を飛び出すと、大粒の冷たい雨粒が一斉に背中を叩き始めた。
「また倒れたらどうするんだ!」パパもスニーカーのかかとを履き直しながら追いかけてきて傘をかざした。「ずぶ濡れじゃないか。戻りなさい。パパが探すから。」カーディガンを頭からかけてくれたけど、私の気持ちはここにはなかった。
たった一人でサトーさんが外に行くことなんてなかったのに。しゃべるのを見られて大騒ぎになったりしてないだろうか?誰かに連れていかれたり、事故に遭ったりしないだろうか。
心配で心細くて怖くて、たまらなくなった。どうしてあの時、優しくできなかったんだろう。ごめんね。サトーさんは私を慰めたかっただけなのに。
マンションの周りをどれくらい探しただろう。
公園の原っぱにさしかかったその時、
「サトーさん!」
パパが先に気づいた。
目線の先にはどしゃ降りの中、生い茂った雑草に体半分をうずめてウロウロするサトーさんの姿が見えた。全身の毛がぐっしょり濡れて、ずいぶんやせ細って見えた。
サトーさんは首を上げて私たちに気づくと、一度大きく跳ねて、弾丸のようにこちらへ勢いよく走り戻ってきた。ザザッと足元でブレーキをかけると、ハアハア息を荒くして、身体をプルプルプルひと振りして大量の水を飛ばした。
「ちょ、ちょっ、濡れちゃうよ。」
『桃々ちゃん、ほら。』
ドロドロになった身体中の毛に草をいっぱいくっつけて、口になにか葉っぱのようなものをひと切れくわえている。
「これって…。」
それは…四つ葉のクローバー。
「サトーさん…。」
『桃々ちゃん、よつばのクローバーで、元気なる?』
探してくれたの…?
サトーさんの口から受け取った手のひらには、ヨレヨレにしなびたクローバー。
あのときの光景がフラッシュバックする。元気だったタル兄ちゃんが私を抱っこする。四つ葉のクローバーを渡して言った言葉、「桃々は大切な妹だから、一生守ってやるからな。」
サトーさん…。
私のことを守ってくれようとしてるんだね。こんなちっぽけで甘えん坊なのに。それなのに私、冷たくしちゃった。
「サトーさん、ありがとう。ごめん。ごめんね、ごめん。」
思わず濡れた体を抱きしめた。
パパが傘で私たちを覆う。

私だって今のままじゃいけないことは分かってる。そんな一番痛いとこを無邪気に触られた気がしたから嫌な言い方しちゃった。ほんとごめん。
なんだろ、なんかよくわかんないけど涙が出てきちゃった。あたし不安定かも。
『泣かないよ。サトーさんいるよ。』
「…ううん。ありがと。ごめん。お兄ちゃんなの。私のお兄ちゃんは死んじゃったの。だから思い出して泣いてただけ。」
「サトーさんもお兄ちゃんいないよ。でも、桃々ちゃんがいるから大丈夫。ずっと一緒にいてね。」
「わかった。サトーさん、ずっと一緒にいようね。」
ぎゅっと抱きしめたら、胸にうずめた顔を上げてサトーさんが言った。
『ねえ。』
「なに?」
『桃々ちゃん、学校いこ。』
「なんで今なの。」もう、また言ってる。
そこには、よどみのない無垢な瞳。『学校いこ、学校いこ。』
「だから図書館だって。」
『どうして学校行かないの?』
「うん、まあ、いろいろね。」
『学校いこ。のぴ太みたいに。学校、学校。』
学校、学校って…。
タル兄ちゃんの姿がフラッシュバックする。
“ 桃々、起きな。早く。先に学校行っちゃうぞ。コチョコチョ虫がほっぺをくすぐっちゃうよ。”
学校…かあ。
パパの傘でトボトボ、マンションに戻りながら、どこかのお宅の窓に映る自分を見つめた。濡れたカーディガンを頭からかぶった情けない自分。かろうじて立っている。
「…………。」
私、タル兄ちゃんに甘えすぎていたのかもしれないな。勝手に学校に行けない理由にしていたのかもしれない。もしもタル兄ちゃんが今の私を見たらどう思うだろうか。こんな情けない姿を喜ぶわけはない。
「…………。」
よれよれのクローバーを見つめる。タル兄ちゃんがサトーさんを使って私を応援してるのかもな。もしかしてサトーさんに姿を変えて帰ってきてくれたのかな。ううん、そんなわけない。そんなわけないよ。うん。
…だけど、今はそう思わせて。
犬がしゃべる、こんなミラクルが起きてるんだから。タル兄ちゃん、ちょっぴりもう少しだけ、そう勝手に思ってもいいよね。だったら、勇気が持てるかも。
学校かあ……。
◆
その日の午後。
病院では「もう大丈夫ですよ。」と太鼓判を押してもらって戻ってこれた。
バスルームの空調乾燥で、ママが今朝の洗濯ものを干している。
私はあれからずっと言い出したくて言い出せない。
後ろでモジモジ膝を抱えて座る私に気づいてくれないから思わず、
「ママぁ。」
「うん?」
くつしたを一つ一つ洗濯ばさみハンガーにつけながら上の空。
「あのね。」
「うん。」
なんて言おう。
「えっとね…。上履きの袋どこにあるの?」日常会話風にアプローチ。
「上履きの袋?どうするの?」こっちに目もくれない。
「あの…行こうかなって。」
「どこへ?」
ママ、察してよ。
「あの、あそこ…」
「あそこ?」
「えっとね…あの…、」
うーん、えい!
「…学校。」
「あ、そう。」一旦はやり過ごしたママの手が止まった。「…え?」
勇気をふり絞って、「行ってみる。明日。」
「桃々ちゃん!?」私の顔を見た。
「学校…行こうかなって。」
「え…あ…」
ママの目元にとたんにうるうるなにかがあふれてきて、なんだかとても動揺してて…。でも私の前で大げさに受け止めちゃいけないと思ったのか普段通りに、
「う、うん、二段目の引き出しかな。給食の用意もしなきゃね。」
こっそり目を伏せ小指で拭いながら、足をドアの角にぶつけて「いて。」とか言いながら出て行った。
◆
次の朝。
雲に覆われた空の下。
いつもの道を通っているけど、私の気持ちは違った。少しの緊張と恐怖。そして、少しの期待。ママは黙ってついてきてくれている。
学校へ行く道で苺乃大福がむかえてくれた。
いきなり「ねねね、」と走り寄ってきた。身構えると、
「ねねね。観た?昨日の『ラメ色のこむら返り』。ミッシェル権蔵のコント、めちゃ笑ったわー。あと読書感想文の宿題、書けた?オレ、あらすじ並べただけ。最後に『面白かったです』だけ書いて。ははは終わた。」
恐れていた質問「どうして学校行く気になったの?」という興味本位の言葉は一切なかった。きっと親同士で連絡していたのだろう。大福は何も聞かずに、昨夜の出来事を1.75倍速で口早にまくし立てた。それはとても自然に、まるでいつも私が学校へ通っているかのように、当たり前に。
大福の気遣いは嬉しかった。けど、なんだか申しわけない気もした。大福に対して、私が誠実に向き合えていない気がした。ここからが変わらなければいけない。ここで避けていたら、学校で逃げ続けることになる。
だから私は言ったのだ。
「ダイフク。ありがと。なんか、ごめんね。」
「え?」
驚いたように切れ長の目を大きく見開いた。お礼と謝罪が意外だったのか。「いいの。急に行こうと思ったの、学校。なんでかは分かんないけど。でもね、ダイフクと一緒に学校に行きたくなったの。みんなと会いたくなったの。」
大福は、私の顔をまじまじと見た。
「…………。」
私の覚悟を察した途端、みるみる笑顔がどんどん膨れ上がりはち切れそうになった。すうっと大きく息を吸ったと思ったら、いきなり靴と靴下を脱いでケンケンしながら裸足を突き出した。
「…でさ!この爪見て!母ちゃんのネイルをこっそり塗っちゃった。ピンクだよ。あんた何やってんだって思いっきりグーパンチで頭殴られたよ。な。な。明太子みたいだろ?ウマそうだろ?」
あえて関係ない話題だ。紅潮した頬で、さらにものすごいスピードでまくし立て、気を紛らわせてくれた。
大福のやさしさが、しみた。
たくさんの生徒が流れ込む校門。
校舎の廊下の独特な匂い。たった1年ぶりでも、なんだかすでに懐かしい。
教室の前でちょっとドキドキしていたら、大福が手をギュッと握った。
「あっ…」
思いっきり引っ張って勢いそのまま、クラスのみんなの前に「ダダーン」と躍り出た。だめだめ。丸腰の私。
皆は最初は驚き、
「え?桃々ちゃん…?」
「菓子山だ…」
ざわざわざわ…。
奥の机を囲んでおしゃべり中の女の子グループが私に気づく。
よく遊んだ胡々亜ちゃんたちだ。驚きの表情で私の顔を眺めた。
「…………。」
あんぐり開けた口から、やがてニッコリ笑顔がこぼれ、
「おはよう!桃々ちゃん!」
他の子たちも、取り囲むようにわっと集まった。
みんな大福の作ってくれたムードですぐに歓迎してくれた。それまであんまり話したことのないおとなしそうな男の子も、「おう。」と照れながら笑顔で話しかけてくれた。まるでブランクを感じさせない時間だった。みんなの前で話すのはまだ得意じゃないけど、少しだけ大丈夫な気がした。
みんな、ありがとう。大福、ありがとう。
雲のすきまから差す光が梅雨の終わりを告げるように、教室の窓を通して私たちを照らした。
怖かった学校。
でも私は一体何が怖かったんだろう。
今さら何しに来たの?ってクラスのみんなの目?
ううん、それもあるけど…そうじゃない。
タル兄ちゃんが亡くなってから、毎日学校に通って勉強して友だちに会って、毎日毎日…当たり前の毎日を繰り返すことが怖くなった。今までと同じ毎日を過ごすと、大切な人が欠けてしまった現実を思い知らされそうで…。
思えば私にとって、サトーさんが欠けた穴を埋めてくれたのかもしれない。

◆
帰りに図書館に寄って、学校であったことをママに報告した。
ママはとても静かに柔らかな表情で、「そう。そう。」とひとつひとつ聞いてくれた。
そばで八ツ橋のおばさんが、興味津々に耳をそばだて、本を並べながら涙を拭い、ちーんと鼻をかんでいた。心配してくれてたんだな。
家に帰って来たパパに言ったらすごく喜んだ。
パパは、この嬉しさを共有しようと一瞬ママの顔を見たけど、目を反らされたから、ごまかすように私にじゃれて抱っこしようとした。
「やめてよ。」
「いいじゃん。」
その夕方。
私は久しぶりの学校の刺激に心が興奮して収まらなかった。だからパパに頼んで大好きな運河にサトーさんと散歩に行きたいとねだった。
私とサトーさんとの時間を気を遣ってか「パパは向こうで見ててあげるよ。」と、離れたところでスマホをいじりながら待ってくれている。遠くの暗闇のベンチに小さな四角い光がチラチラ瞬いていた。
サトーさんと座って遠くに沈んでいく夕陽を眺める。
『豊洲さきっぽ公園』はその名のとおり岸の突端。270度ひらけた視界に運河が広がるから、まるで大海原のような広い寛容さで私たちを迎えてくれる。
快晴よりも、薄い雲が空を覆う、今日みたいな日こそ夕焼けが美しい。西の彼方から黄色やオレンジやピンクに赤色、グラデーションをまとった光彩が照らし、雲の凸凹した表面を優しく大胆に染める。
ふと、見上げたサトーさんと目が合う。
うるんだ瞳に夕焼け空が丸く映る。
一番星が光った。
『あそこ、遠い?』
「遠いよ。」
『ガッコより?』
「学校よりは遠いかな。」
『サトーさん、あそこに行きたい。ムーンケーキマンになったら行ける?』
「うん。それか、宇宙飛行士。」
『ウチューシコーシ?』
「ロケットに乗る人。」
『うん。サトーさん、ウチューシコーシになる。』
サトーさんは弟みたいな友だちみたいな、不思議な存在。
だんだんコミュニケーションがとれていくことがこんなに嬉しいなんて。すくすく成長していくのを楽しみにする毎日。タル兄ちゃんは妹の私に対して、こんな風に思ってくれてたのかな。
もしかして大人になったとき私は、人生で一番穏やかで幸せな時だったと、あとで思い返すかもな。そう本能的に感じた。
だから、1分1秒でさえ大切に過ごしたくなった。
ずっと一緒にいようね。サトーさん。
風がふわっと草の香りを運んでくれた。
サトーさんが鼻先をのばして、私の袖をクンクンと嗅ぐ。
『桃々ちゃんの匂い大好き。大きくなったら桃々ちゃんオヨメさんにするの。』頭を私にこすりつけた。お腹のあたりがほんのり温かくなった。
決めた。
私がこの子を守る。
一生をかけて守る。
この子のためならどんな犠牲をもいとわない。
やがてどっぷりと夜が空を覆った。
高層マンションの灯りがまぶしすぎても、それに負けないくらい輝く星たちが一面に広がりはじめた。
静寂の中、きらめく光が騒がしかった。
(つづく…)
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