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美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第5話

 朝、窓を拭こうと思って外に出た時だった。
 ナツさんのお店に、私服姿の男性が3人入って行く。

 あれは、ナツさんの前の仕事関係の人だろうか。

 私は店の引き戸をガラガラと開いて店内に戻ると、お米を洗いながら、あの人たちはナツさんの過去を知っているのだろうなと思う。

 私だってもっとナツさんのことを知りたいと思って、はっと気付いた。

 ブレンドコーヒーを作るのを手伝った時、ナツさんはお礼をしてくれると言っていた。何か、考えておいて、と。
 もしかして、一緒にいる時間を作ってもらうようなお願いをしても良いのだろうか?

 ナツさんのお店も、日曜定休だ。
 でもあからさまにデートっぽいお願いは恥ずかしいし……。

 あ、そういえばこれから新しいフードメニューを考えようとしているんだし、街へ出て、市場調査に行けば良いんだ。

  *

 日曜日——。

 私とナツさんは、とある人気コーヒーショップの行列に並んでいる。
 列に並ぶほとんどが20代~30代くらいの男女2人組で、デートで来る店なのかなあという感じ。
 傍から見て、私とナツさんはどんな風に見えるんだろう。

「1.5時間制かあ……なかなか捌けないと思いません? この人数」
「まあでも、時間としてはそのくらいが妥当でしょうね」

 うん、同僚か先輩後輩だ。
 他のカップルに比べて、明らかに私たちの間には距離がある。

 私が市場調査に行きたいと告げると、ナツさんは興奮気味に賛成してくれた。どうやら男性一人では行きづらいお店もあるようで、是非一緒に回りませんかと言われてしまったのだ。

 協力してくれる彼女さんはいないのか。
 ナツさん、有名人みたいだし、見た目も悪くないし、優しそうだし。
 この間お店に来ていた美人さんとか、親しそうだったけどなあ。

「これ、下手すると1時間程度待ちますかねえ。利津さん、立ちっぱなしですけど大丈夫ですか?」
「普段から立ち仕事なので全然平気です」

 ナツさんは「お休みの日にまですいません」と謝りながら、「このお店のプリンが一度食べてみたくて」と付け加えた。

 プリン……。まさかこれ、プリン行列なのだろうか。
 にわかには信じがたい。お店でプリンを食べるために、1時間も並ぶのか。
 私には、飲食店に並ぶという習慣すらない。

「そういえば、ナツさんのお店ってガトーショコラだけは最初からメニューにありましたね?」
「ああ、あのガトーショコラ、簡単なんですけど昔から評判良くて。実は僕、スイーツ男子っていうか、スイーツ作るのが結構得意で」
「待って待って、情報が多い……」

 ナツさんは、もともとスイーツ作りが得意だったと。で、お店のガトーショコラは昔から評判が良かったものを出している、と。

「スイーツは、基本的に実験と同じですからね。基本に忠実に、正確にやれば絶対に美味しくできます」
「……実は私、苦手なんです、お菓子作り」
「まあ、料理とはまた勝手が違いますよね」

 確かに、料理とお菓子は似ているようで違う。
 お菓子は素材の特徴を正確に引き出して化学変化を起こさせるようなところがあるから、ちょっとした分量の違いが致命傷になる。料理にはそういう部分は少ない。もちろん、料理だってひとつひとつのコツが科学の結晶ではあるけれども。

「お菓子作りが得意だから、コーヒーショップなんですか?」
「そういうわけじゃないんですけど……。でも、食のことをやろうと思った時に料理はダメだし、お菓子も趣味程度だし、と思ったら……コーヒーショップならクリエイティブで挑戦できるって気付いたんですよね」
「なるほど」

 理屈が、仕事ができる人のそれだ。自分の長所や能力を熟知している。
 ……ああなんか、住む世界が違うなあ。

 新メニューの市場調査なんて言ったけど、役に立てる自信はなかった。

  *

「さて、利津さん……」
「はい……」
「店内のお客さんは、ほぼプリン目当てという感じでしょうか」
「女性は……」

 私たちはメニューを睨みながら、時折客席を眺めてコッソリと報告し合う。
 2人でキョロキョロしていると、明らかにおかしいのでこうすることに決めたのだ。

「ナツさんの席からは、いかがでしょうか?」
「女性同士の席は、もう撮影大会ですね」
「なるほど、SNS用の……」

 お店のプリンは高台のついた銀色のレトロなデザート皿に盛りつけられ、カラメルの上からぼってりとしたクリーム、そしてその上に苺とミントの葉が乗っていて可愛らしい。

 写真を撮らずにいられない見た目をしているし、こうやって撮影をしたものがSNSに上がるから、それを見た新しいお客さんが来るのだろう。

 私もナツさんもプリンをひとつずつ、ナツさんはカフェオレを、私はブレンドコーヒーを注文した。

「研究のため、ブレンドコーヒーにしました」
「プロ意識。僕は、このお店のカフェオレが気になっていて」

 そんな話をしながら待っていると、比較的すぐに注文した品物が運ばれてきた。

「うわああー。可愛いプリンですね!」

 私の中の、残っていた乙女心がくすぐられる。
 何度も周りの人の席で見たというのに、目の前に現れたのを見て不覚にもときめいてしまった。

「すいません、撮影しても大丈夫ですか?」

 ナツさんは、店員さんに撮影許可を取っている。「どうぞ、SNSに上げていただいても構いませんので」と店員さんは言った。

「周りの人が堂々と写真を撮っているのに、許可を取るんですね?」
「一応、礼儀ですからね。無言で撮影されるのって、お店側からするとちょっと『ん?』って思う事があるんですよ。意外に」
「うちのお店はそういうお客さんがほとんど来ないからなあ……」
「音も立ちますしね。でも、ひとことでも声をかけられるだけで、自然と気にならなくなるもので。だから、僕もそうしています」

 ナツさんはそう言って携帯電話のカメラ機能でプリンとカフェオレを撮影した。
 気になっていたというカフェオレは、まるでワイングラスのような形をしたグラスに、温かいカフェオレが2層になって入っている。
 ミルクの層とコーヒーの層が混ざっていない。

「やっぱり、演出の巧いお店ですね」

 ナツさんは2層になっているカフェオレを混ぜながら、その色が薄茶色になって行くのを眺めていた。
 私は、そちらを少し気にしながらもブレンドコーヒーを飲む。

「ん。ブラジルベースで、無難な味です」
「無難って」

 吹き出しているナツさんと目が合って、「じゃあ、プリンをいただいてみますか」と声をかけられる。
 そうだそうだ、市場調査……。
 銀色のアイスクリームスプーンが置かれていたから、それを使ってプリンをすくおうとしたところ……。

「……」
「……硬い」

 プリンにしては手ごたえがありすぎて、ナツさんと私は同じ感想に笑った。
 口に含んだプリンは甘さが控え目で、クリームと一緒に食べるとようやく甘みを感じる。

「なんか卵感がすごくないですか?」
「茶わん蒸しより卵ーって感じですね」

 私たちはそう言ってくすくすと笑っている。
 途中から何が面白いのか分からなくなりながら、ナツさんと私は店を出るまでの間で何度も笑ってしまっていた。


 ナツさんと私は、地下鉄に乗って別の店に向かっている。
 地下鉄の席って、隣の人と身体が密着するけど……今まで意識なんかしたことなかった。

「さっきのお店でプリンをいただいちゃいましたが……お昼どこかで食べましょうか?」
「ああ、はい」
「利津さんは、何が食べたいですか?」
「定食以外で」
「……洋食とか?」

 そんなわけで、次の目的地に近い場所にあるビストロでお昼を食べることになった。

「このお店は、ナツさんがよく来るお店ですか?」
「よくというか、前の仕事をしていた時に、たまに」
「お勧めはどれですか?」
「ラザニアか、ポークソテーですね」

 2階に上がった場所にあるそのお店は、女性客が多かった。
 お肉料理が有名らしいけど、ポークソテーを見るとお店の生姜焼きを思い出す私はラザニアに決める。

「さっきのお店、どう思いました?」
「あのプリンとコーヒーですか?」
「はい」

 ナツさんに尋ねられた。本音を話して欲しいということなんだろう。さっきのお店では言えなかったような。

「味で勝負、という感じではないんだなあと」
「直球」

 ナツさんが吹き出している。爆笑するとは失礼な。

「そういうナツさんはどうだったんですか?」
「ああ、はい……。観光客向けな感じですね。地元密着のリピーター向け商売ではないなあと」
「写真が撮れたら満足で、もうあの行列に並んだりはしないんでしょうね」

 そういう意味では、ナツさんのお店があるうちの商店街とは特性が違う。
 うちの定食屋が生き残っていられるくらい、リピーター向けで地元の人向けのメニューが必要だ。

 さっきのお店は、市場調査として参考にはならなかったってことだろうか。

「でも、演出の大事さには気付かされました。僕は美味しさで他に勝つことは難しいので、やっぱりクリエイティブ勝負でいかないと」
「なるほど」

 人気店を見て、自分にできることが思い浮かんでしまうらしいナツさん。
 羨ましいなあと言いそうになったところで、ランチが運ばれてきた。
 ラザニアは、鉄の器で赤いトマトベースらしいソースと白いベシャメルソースをぐつぐつと煮立たせていた。

「わあ、美味しそう」

 私が素直な感想を言ったらナツさんは微笑む。
 そんなナツさんの注文したポークソテーには、粒マスタードのソースがかかっている。

「なんか、おかしかったですか? 私」
「いえ、利津さんって食べ物を前にした時に本当に嬉しそうにするなあと」

 単純だと言われている気がして、私は膨れた。笑われて喜ぶ人間などいない。

「いつかうちの店でも、その顔が見られたらいいなあって」

 ナツさんはポークソテーにナイフを入れながら、何でもないことのようにサラリと言った。
 私は、思わず手元が狂いそうになる。
 あまりに動揺して、息苦しくなるしラザニアどころではない。

 人を揶揄うのも、大概にして欲しい。

  *

 ビストロを出た私たちは、ナツさんが行きたかったというコーヒーショップにやってきた。

「ここはまた、ぐっと大人っぽいですね……」

 地下に降りてお店に入ると、薄暗い店内にぼんやりとした照明。昼間だというのに既に夜のような雰囲気がする。

「さっきのお店は1階で路面店でしたからね、明るかったですよね」

 席に案内されて、えんじ色のベルベット生地が張られた1人掛けのソファに座る。お尻が深く沈み込んで、目の前のガラステーブルがちょっと遠くなった。
 ここは行列にもなっていないし、すんなりと店にも入れる。

「このお店は、並んだりしないんですね?」
「この辺は、平日が混んでいるんですよ。周りに会社が結構あって」
「へえ……」

 メニューを渡されて、何が良いだろうかと唸る。
 ケーキはいくつか種類があるし、大人っぽいお洒落なパフェ、フレンチトースト、パンケーキまで……。いや、全体的に重い。重すぎる。

「食後にこんな重いデザート食べるんですね……」
「ドン引きしてますね、利津さん」
「いやちょっと、そこまでお腹に余裕あるかなあって」

 巷の女性達には別腹なるものがあるらしいが、私にはない。
 食後はそれなりに食べられる量が減る。

「じゃあ、こうしませんか? 僕が何か頼みますから、利津さんは味見だけ、好きなだけ食べてもらうのではいかがでしょうか? 僕、さっきのお店のランチでは足りないのでまだ余裕があります」
「そうしていただけると、大変助かります……」

 ナツさんが「じゃあ、フレンチトーストとパフェはどちらが興味あります?」と聞くので、「どちらでも……」と答えると「折角なのでパフェ行っちゃいましょう」と笑っていた。

 確かに、このお店のパフェはビジュアルが気になる。
 フルーツの断面が綺麗にグラスの外から見えるように盛り付けられていて、ゼリーの層とムースの層が鮮やかに線を引いている。てっぺんにはアイスにフルーツソース、そしてメレンゲらしきお菓子が飾り付けられていて……。

 飲み会が終わった後に行く夜パフェがあるって聞いたことがあるけど、多分こういうお店なんじゃないだろうか。営業時間を確認してみたら、やっぱり22時過ぎまで営業していた。

 そうかあ、こういう街で働いていると……夜こんなお洒落なパフェを食べたりするんだなあ。
 私は自分の働く定食屋を思い出して悲しくなる。
 毎日、半径100mの中で生きているような私。下町で、定食屋で、キラキラした世界を知らない。

 そんなことを考えていたら、オーダーを取りに来たのでナツさんはマスカットのパフェとブレンドコーヒーを、私はブレンドコーヒーをお願いした。

「都会で働いていると、こんなお洒落なパフェが食べられちゃうんですね」

 私はメニューのパフェ一覧を見ながらため息をつく。いいなあ、楽しそう。
 刺激があって、毎日がきっと同じことの繰り返しではなくて……。

「何か、思うところがあるんですか?」

 ナツさんがいつもの柔らかい顔でこっちを見ている。今なら、ぶちまけられるだろうか。

「実は私……一度就職したんです」
「ああ、ご自宅の定食屋で働く前ですか?」
「はい」

 ナツさんは、やっぱり何でもないことのように聞いてくれようとしている。
 今話さないと後悔するような気がした。

「その、就職したのは小さなメーカーだったんですけど……最初、お客様相談窓口に配属になって。私、お客様から聞かれたこととか、クレームとか、全力で応えようとしちゃったんですよ、そういうものだと思ってて」
「ああ、新人さんだとそうなりますよね。すいません、続けてください」
「それがなんか、とある先輩にとっては気に入らなかったらしくて。新人だから大抵の事は分からなかったんですけど、誰からも助けてもらえなくなっちゃって」

 思い出すと、未だに足が震えてくるのが分かる。
 誰にも相手にされなかったショックや絶望を、今でもはっきりと覚えていた。

「クレームは鳴り続けちゃうし、相談相手がいないしで、会社に行こうとするとお腹が痛くなるようになってしまったんです」
「……それはそうでしょう」
「だけど、お父さんは私が就職して喜んでくれていたから、そんなことで諦めちゃいけないって」
「無理をしたんですね?」

 情けないことに、その後の記憶は曖昧で、そこまでよく覚えていない。
 無理しながら会社に行くと、トイレの個室にいる時間がどんどん長くなり、ある日突然、何かが切れたように辞表を提出した。

「だから、お父さんには心配をかけっぱなしで。うち、私が4歳の時にお母さんが亡くなってるんです。お父さんは私を育てるのに小料理屋では生活リズムが合わないって、今のお店を開いて家で仕事ができるようにしてくれて」
「いいお父さんですねえ」
「今は、私のせいで仕事が辞められません」

 下町から出られない私は、お父さんの人生を奪って生きている。
 年が行ってからできた子で、お父さんはもうすぐ60歳だ。世間的には定年の年齢が近付いている。

 だけどもう、私を外で働かせようとはしなくなった。

「でもそれは、利津さんのせいではないですね」
「私が就職先でちゃんと出来ていれば……」
「就職先が圧倒的に悪いです。そんなところは辞めて正解です」

 お父さんも同じようなことを言っていたけど、一度逃げた経験が原因で前に進めなくなることもある。
 私は居心地のいい下町に甘え、もう他に行きたくなくなっていた。
 でも、今日このお店に来て、その時間で失っている物を見た気がした。

「お待たせしましたー」

 席にパフェが運ばれてくると目の前の景色が一気に変わる。

「う、うわあ」

 思わず目が釘付けになってしまった。マスカットの黄緑色とアイスクリームの薄いクリーム色、そこにホイップクリームの白い装飾と薄い黄緑色のマカロン。グラスの内側が透明とグリーンと茶色の3層になっていて可愛らしい。

「利津さん」

 パフェを視界に入れて口が半開きになっている私を、ナツさんが堪らず笑っている。
 あ、さっきも言われたな、食事を目に入れるとどうこうって。

「就職先には恵まれなかったかもしれませんが、僕は利津さんがお隣で働いていてくれて良かったですよ」
「は、はあ……」

 深刻な話をしていた最中に、すっかりパフェに目を奪われた私を笑っているのだろう、それはそうだ。

「次は、僕の力で利津さんが毎日そんな顔になってくれるように頑張ります」
「……どういうことですか?」
「ブレンドコーヒーのお礼です。外で働きに出るよりも、利津さんが楽しく過ごせるように、刺激のある毎日を送れるように、何かお役に立てるように、試行錯誤します。これも何かの縁ですから」
「……え、えっと」

 予想外のことを言われてしまい、今の私はもう、心ここにあらずだ。

 ああ、収まれ、この胸の高鳴りみたいなもの。
 違うんだって、これはドキドキしてるんじゃない。
 ドキドキしてるんじゃなくて……。

 ーー駄目だ。こんなの、ドキドキするなと言われても無理でしょうが。


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