見出し画像

植田総裁が暴いた「慎重な判断」の是非、日本企業が抱える【歪んだ成功体験】の正体

「今はまだ、動くべき時ではない」
「業界の動向をもう少し見極めよう」

こうした「慎重な構え」を私たちは「経営の規律」と呼んできました。しかし、その規律こそが、変化の激しい現代において最大の「負債」になっているとしたらどうでしょうか。

優秀な経営者ほど、自らの成功体験に忠実です。しかし、その忠実さが、今の日本経済においては「致命的な判断ミス」を誘発しています。


皆さん、こんにちは。村田雅志です。

前回の記事では、日本銀行の植田総裁が、講演を通じて「経営の前提条件(OS)」が書き換わったことを示したとお伝えしました。

今回は、なぜ多くの経営者がその変化を認めつつも、行動を変えることができないのかについて解説します。

植田総裁が示した「残酷なデータ」を基に、私たちが無意識に陥っている「合理的な停滞」の正体を明らかにしたいと思います。



「デフレサバイバル」下での正解:なぜ現預金が必要だったのか

植田総裁は昨年12月25日の講演の冒頭で、1990年代後半以降の日本企業の行動を振り返り、非常に重要な指摘をしました。それは、当時の企業が賃上げや設備投資を抑制し、現預金を積み上げたことは、厳しい経営環境下において「必要なものだった」としたことです。

振り返ると、わが国経済がデフレに陥った1990 年代後半以降、企業は、雇用の安定を優先し、賃上げや設備投資を抑制してきました。当時の企業行動は、厳しい経営環境に直面するもとで、失業率の上昇を抑える効果があったほか、企業自身の財務体質の改善にとっても必要なものだったと思います。

植田総裁の講演内容(抜粋)

なぜ、当時は現預金を積み上げることが「経営の正解」だったのでしょうか。そこには、日本特有の「デフレサバイバル」とも呼ぶべき3つの切実な理由がありました。

第一に、「雇用の安定」という重い社会的使命です。1990年代後半の金融危機以降、日本経済は激しいデフレに飲み込まれました。この時、日本企業の経営者が最優先したのは、従業員の生活を守ること、つまり失業率の上昇を抑えることでした。解雇規制が厳しく、かつ「終身雇用」という無言の契約が残る中で、企業はいつ訪れるか分からない「最悪の事態」に備え、現金を「雇用維持のための保険」としてプールし続けなければならなかったのです。  

第二に、「財務体質の改善(バランスシートの修復)」です。バブル崩壊後の過剰債務に苦しんでいた企業にとって、利益を投資や賃上げに回す余裕などありませんでした。まずは負債を返し、現預金を積み上げて自己資本比率を高める。この「財務の健全化」こそが、当時の経営者にとっての至上命題であり、それが企業自身の頑健さを高める結果に繋がりました。  

第三に、「デフレ下での経済的合理性」です。物価が継続的に下落するデフレ下では、現金の価値は持っているだけで相対的に高まります。逆に、今日設備投資をすれば、明日にはその設備の価値が下がってしまう。将来の不確実性が極めて高い中で、投資を先送りし、現預金を積み上げるという行動は、当時の経済合理性に照らせば「最もリスクの低い、賢明な判断」だったのです。  

このように、「動かないこと」は、かつての日本企業にとって生き残るための「最強の生存戦略」でした。

日本企業を救った「3つの抑制」とその功罪

この「雇用の安定」「財務体質の改善」「現預金の積み上げ」という3つの行動は、確かに日本経済をどん底から救いました。倒産を回避し、雇用を守り抜いた功績は計り知れません。

しかし、問題はこの「成功体験」があまりに長く、あまりに強烈すぎたことです。約30年もの間、このサバイバルモードを続けた結果、経営者のDNAには「動かずに耐えれば、嵐は過ぎ去る」、「キャッシュこそが正義であり、投資はリスクである」という思考が深く刻み込まれてしまいました。

しかし今、起きているのは「一時的な嵐」ではなく、金利と物価が動き出す「気候変動」です。

かつての正解をなぞり、賃上げを渋り、現預金を抱え込んでいるだけでは、インフレによって実質的な資産価値は目減りし、優秀な人材から順番に、変化を受け入れた他社へと流出していくことになります。

植田総裁が「こうした状況を乗り越え、現在は人件費や設備投資が緩やかに増加するようになってきている」と述べた裏には、「しかし、その歩みは、過去の呪縛から解き放たれていないのではないか」という強い懸念が透けて見えます。  

現在は、こうした状況を乗り越え、人件費や設備投資が緩やかに増加するようになってきています。もっとも、企業収益の大幅な増加に比べて、これらの伸びが相対的に緩やかなものにとどまっているとの指摘もあります。結果として、企業が生み出した付加価値の総額と人件費の関係を示す労働分配率は、緩やかな低下傾向が続いています。

植田総裁の講演内容(抜粋)

なぜ「投資の蛇口」は錆びついたままなのか

ここで、植田総裁が示したデータを確認してみましょう。

以下図表にある通り、日本企業の営業利益はこの10年余りで約2倍にまで増加しました。しかし、それに対して人件費や設備投資の伸びは、収益の増加に比べて驚くほど緩やかです。  

植田総裁の講演に使われた図表8左

なぜ、これほどの利益がありながら、投資の蛇口は開かないのでしょうか。そこには3つの構造的な「心理的ブレーキ」が存在します。

①「一時的な利益」への警戒感

経営者は、現在の高収益がインフレや円安、あるいは一時的な需要拡大によるものだと考えがちです。「来年はこの利益が剥落するかもしれない」という恐怖が、固定費である人件費の増額を躊躇させます。

②不確実性への「現預金バッファ」信仰

デフレ期には、現預金を持っていること自体が実質的な価値の維持に繋がりました 。この「現預金こそが最強の防御」という信仰が、将来を見据えた「攻めの投資」への転換を阻んでいます。

③「横並び」の安心感

「他社もまだ本格的な投資はしていない」「業界全体が様子見だ」という空気が、経営判断を「後出しジャンケン」へと誘導します。

デフレ期の習慣に従い、「今は特殊な状況だ。もう少し待てば、また以前のような安定(ゼロノルム)に戻るはずだ」という無意識の期待が、数億円の設備投資や数パーセントのベースアップという「決断」を阻んでいます。

しかし、植田総裁ははっきりと告げました。「ゼロノルムの世界に戻る可能性は、大きく低下している」と。  

労働分配率の低下という「人材への不渡り」

この「投資の抑制」の結果として現れているのが、労働分配率の低下です。企業の利益が1995年比で200%を超える水準まで急拡大しているのに対し、人件費は100%をわずかに超えた程度で推移しています 。その結果、分母(付加価値)の拡大に分子(人件費)が全く追いつかず、労働分配率は右肩下がりを続けているのです 。

植田総裁の講演に使われた図表8右

これは、企業が稼ぎ出した利益を、将来の成長の源泉である「人材」へと適切に還流させていないことを意味します。デフレ期であれば「雇用の維持」が優先されましたが、現在は人手不足という供給制約が深刻化しています 。この状況下で労働分配率を下げ続けること、つまり利益に見合った分配(賃上げ)を渋り続けることは、優秀な人材という「最大の資本」を他社へ流出させる、実質的な「経営の衰退」を招きます。  

植田総裁が突きつけた「ゼロノルム」の終焉

植田総裁は、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現する確度が高まっており、賃金と物価がほとんど変化しない「ゼロノルム」の世界に戻る可能性は大きく低下したと断言しました 。

生産年齢人口の減少をはじめとする労働市場の構造変化が不可逆的であることを踏まえると、経済に大きな負のショックが生じない限り、労働需給は引き締まった状況が続き、賃金には上昇圧力がかかり続けることが見込まれます。また、プラスの物価上昇率が続き、家計や企業の予想物価上昇率が高まりつつあるなか、賃金や仕入価格の上昇を販売価格に転嫁する動きも着実に広がってきています。こうしたことから、賃金と物価がほとんど変化しないという、いわゆる「ゼロノルム」の世界に戻る可能性は、大きく低下していると考えています。

植田総裁の講演内容(抜粋)

デフレ期であれば、投資を先送りしても、現金の価値が目減りすることはありませんでした。しかし、緩やかな物価上昇が続く世界では、投資をしないこと(現金を抱え込むこと)自体が、現金の価値を下落させ、企業の競争力を奪っていきます。つまり企業は「実質的な衰退」に入ります。

多くの経営者が動かない別の理由は「横並び」の安心感かもしれません。 「周りもまだ本格的には賃上げしていない」「業界全体が様子見だ」 そう思っているうちに、構造転換は遅れ、後で一気にツケが回ってきます。

植田総裁が「期待されるさらなる変化」として求めたのは、過去の成功体験という名の「ブレーキ」を外し、人への投資やAI・省力化投資という「アクセル」を強く踏むことです。

もはや「現状維持」は、倒産へのカウントダウンを意味する時代になったのです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

なぜ、私たちは分かっていても動けないのでしょうか。それは「動かないことが合理的だった」過去に縛られているからのように見えます。しかし、その「合理性の賞味期限」は、すでに切れています。

次回の最終回では、この「行動の差」が、数年後にどのような「不可逆な格差」となって現れるのか。その静かな、しかし残酷な結末についてお話ししたいと思います。


このコラムが「自分の成功体験を疑うきっかけになった」と感じていただけましたら、ぜひ記事への「スキ」と、私のnoteアカウントの「フォロー」をお願いいたします。

また、X(旧Twitter)では、日々書き換えられる経済のルールをリアルタイムで解説しています。ぜひチェックしてください。

https://x.com/MurataMasashi

また次のコラムでお会いしましょう。

村田雅志(むらた・まさし)


こちらもおすすめ


いいなと思ったら応援しよう!

村田雅志(むらた・まさし) 応援をお願いします! この内容が役に立ったと感じたら、「チップで応援する」をクリックしていただけると嬉しいです!

この記事は noteマネー にピックアップされました

noteマネーのバナー