「曼荼羅」に描かれない日本経済の真実、コストを吸収するのは誰だ
皆さん、こんにちは。村田雅志です。
米国・イスラエルによるイラン攻撃で原油価格が上昇し、世界的に株価が大きく下落しています。そんななか、日本銀行の氷見野良三・副総裁は3月3日に講演と記者会見がをしました。
メディアの関心は、中東情勢や市場変動を受けて「次の利上げは遠のいたのか?」といった市場の目線に集中しました 。
しかし、私たちが本当に注目すべきは、そんなことではありません。
氷見野副総裁が講演で示した『曼荼羅』は、日銀が何を見て政策を判断しているのかを可視化しました 。しかし、いま日本で起きている最も重要な変化は、実はその図には描かれていません。

統計では、需給ギャップがゼロ近傍、基調物価は2%近傍、金融環境はなお緩和的、と日本経済は「異常な非常時」から「正常なマクロ」へ戻りつつあるように見えます。
ところが生活の現場では、誰かの購買力、誰かの利益率、誰かの将来の可能性が削られるかたちで、その正常化が達成されています。
今回のコラムでは、氷見野副総裁の講演内容を振り返り、日本経済に起きているねじれをどう読むかについてご紹介したいと思います。
美しい曼荼羅には「誰が痛むか」が描かれていない
氷見野副総裁は講演の冒頭で、「動学的総需要・総供給モデル」をベースにしたマクロ経済の見取り図を提示し、これを「曼荼羅」と表現しました 。
GDPギャップ、予想インフレ率、自然利子率といった変数が矢印で結ばれ、経済が過熱すれば物価に上昇圧力がかかり、それが政策金利の引き上げにつながるという美しい循環が描かれています 。

この「曼荼羅」は、需要ショックと供給ショック、経済と物価、金融と期待形成がどうつながるのかを俯瞰する上で有益なものと思います。また、日銀が何をどう見ているのかを率直に表現したもののようにも思えます。
この曼荼羅で重要な点は、日銀が足元のCPIだけを見ているわけではないという点です。氷見野氏は、ヘッドラインの物価上昇率が今後2%を下回る局面があり得ても、賃金と物価が相互に参照し合うメカニズムが維持されるなら、基調物価はなお緩やかに上がりうると説明しました。
つまり、生活者が見る「いまの物価」と、日銀がみる「ショックを除いた基調」は同じものではない、ということです。ここに、政策当局と家計の認識の最初のズレがあります。
さらに、この美しい図には、決定的に描かれていないものがあります。それは、「誰が苦しみ、誰が得をするか」というミクロの生活者の顔です。
全体としてはバランスが取れているように見えますが、賃金が上がり、誰の利益が削られ、誰の資産が膨らみ、誰がより高い価格で将来の財・サービスを買わされるのかという分配の問題が描かれていません。
曼荼羅は政策当局の地図としては正確です。しかし、図の内側では、富の移転と痛みのすさまじい押し付け合いが起きています。
需給ギャップがゼロ近傍でも人々は同じ経済を生きていない
今回の講演で最も重要なのは、日本経済を「過熱でも停滞でもない」と表面的に片づけず、その違和感の正体に踏み込んだ点です。
需給ギャップはゼロ近傍なのに、人手不足・設備不足感はかなり強い一方、消費者マインド(消費者態度指数)は弱いままです。つまり、供給制約の不足感と生活実感としての停滞感が、同時に存在しているのです。

氷見野氏はその背景として、人口減少下の成長では「不足感と停滞感が併存」し、さらに地域差や所得階層・資産階層ごとの景気回復実感の違いがそれに輪をかけていると述べました。
つまり氷見野氏は、マクロの平均値と国民の体感が乖離しており、その乖離が単なる気分の問題ではなく、所得と資産の分布に由来していることを認めているということです。
ここで見えてくることは「平均の正常化」と「分配の異常」の同時進行です。
上から見れば、日本経済は、人手不足で企業収益も全体では悪くなく、基調物価も2%に近づくなど正常化に向かっているように見えます。しかし地上では、コスト増を転嫁できない企業、実質賃金が追いつかない家計、資産価格の上昇から取り残される層が広がっています。つまり、平均値の改善が全体の改善を意味しなくなっているのです。
真の論点は「誰がそのコストを受け止めているのか」
この点を最も生々しく示したのが、講演後の記者会見での氷見野氏の円安に関する発言です。氷見野氏は、円安が物価にどの程度効いているかという議論に対して、「物価に響かない場合には途中で誰か吸収している」と述べ、その吸収先として中小企業や内需型企業がありうると明言しました。
言い換えると、統計に大きく出ていないということは、負担が存在しないという意味ではない、ということです。むしろ、誰かの損益計算書や家計簿に、先回りして負担が落ちているということです。
氷見野氏の曼荼羅では「コストの転嫁」が一つの矢印で片付けられてしまっています。しかし、現実の社会では、円安とインフレのコストはどこかに吸収されています。
私はこの「吸収先」を3つに分けて考えると、今の日本の断層がかなり見えやすくなると考えています。
吸収先その1:家計
円安や食料高のコストが最も素直に転嫁される場所はスーパーやコンビニのレジです。
賃金が後から追いつけばまだよいのですが、追いつく前の時間差はそのまま実質所得の低下として家計がかぶることになります。
日銀がいうヘッドラインと基調の違いは政策運営上は重要ですが、生活者にとってはまず販売価格こそが現実です。氷見野氏自身も、食料品価格の上昇が家計に大きな負担となっていることを認めています。
吸収先その2:中小企業
第二の吸収先は企業、とりわけ中小企業です。
氷見野氏の講演でも、円安やエネルギー高でコストは上がるのに、それを価格に転嫁できず、利益が圧迫されているとの声が多く出たと紹介されています。
しかも人手不足のなかでは、業況が厳しくても賃上げをしなければ人材を失うため、「防衛的な賃上げ」に追い込まれている、という話もあります。つまり、中小企業で起きていることは、表面的には賃上げでも、実態は利益率の毀損を通じたショックの吸収ということです。
日本の中小企業は、物価統計に現れきらない痛みの緩衝材として機能している面があります。
吸収先その3:持たざる未来の消費者
統計上もっとも見えにくいものの、若い方ほど注意しなければいけない吸収先が持たざる未来の消費者です。
不動産価格や株価が上がると、既に不動産や株式を保有している方には含み益が生まれます。しかし、これから住宅を買う人、これから資産形成を始める人にとっては、スタートラインが遠ざかることを意味します。
足元のコストは「いま払う物価」だけでなく、「将来参加するために必要な初期費用の上昇」としても吸収されています。こうした現象は、すぐには家計簿に現れませんが、数年後に階層の固定化として効いてきます。
金融政策とは「平均」を動かす政策
前回のコラム「インフレなのに円安を喜ぶ人たち」では、外貨連動所得とインフレ耐性資産の有無という2軸で、家計のポジションによってインフレの受け止め方がどう変わるか(分配の結果)を整理しました。
今回の氷見野氏の講演から見えてくることは、分配の分岐が生まれるメカニズムそのものです。
日銀は物価の安定を通じて国民経済の健全な発展を目指しています 。しかし、そのマクロ政策の「平均値の調整」が行われる水面下では、円安のコストを吸収させられる内需型中小企業・無資産家計と、インフレの波に乗る外貨獲得企業・資産保有層との間で、強烈な富の再分配が自動的に進行しています。
問題は、マクロでみた経済の拡大という果実が誰に配分されるかです。すでに住宅や株式を持っている人にとって、名目価格の上昇は資産サイドの膨張です。借入が固定されていれば、負債の実質価値は目減りし、純資産はむしろ増えます。
他方で、持たざる人にとっては、価格上昇は「豊かさの指標」ではなく参入障壁の上昇です。前回のコラムでは、外貨連動所得とインフレ耐性資産の有無によって、インフレや円安の感じ方がどう変わるかを整理しました。今回の論点はその先にあります。なぜそうした分岐が再生産されるかというと、平均値の正常化の過程で、資産価格の上昇と参入コストの上昇が同時に進むからです。
削られている誰かの未来
メディアや市場関係者は「市場のボラティリティが高まる中で、日銀はいつ追加利上げに動くのか」という予想ゲームに熱中しがちです 。しかし、私たちが本当に問うべきは、次の会合のスケジュールではありません。
考えるべきことは、円安というショックがもたらした巨大なコストが、レジでの支払い、企業の利益圧縮、そして資産市場の高騰という形でどこに流れ込み、誰の未来を削っているのかという事実です。
日銀は、マクロの全体像を総合して判断すると言いながら、その全体像の外側で進む分配のねじれを事実上認めています。
需給ギャップはゼロ近傍でも、生活実感は弱く、物価に出ていない円安コストを誰かが吸収しています。資産価格の上昇には複数要因がありますが、緩和的な金融環境も一因です。これらをつなぐと、「日本は平均としては正常化しているが、その正常化は均等に配られていない」という姿が浮かび上がります。
統計が整っていけばいくほど、その裏で誰かの未来が削られています。氷見野氏が提示した曼荼羅の本当の読みどころは、そこにあると思っています。
平均値の世界を描く美しい曼荼羅の下で、新たな階級化は確実に根を張っています。
皆さんは、物価高をレジで払っていますか? 勤め先はコスト高を利益で飲み込んでいますか? それとも資産高の恩恵を受けていますか?
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
皆さんは物価高をレジで払っているでしょうか。
それとも資産価格の上昇の恩恵を受けているでしょうか。
皆さんの勤め先は利益を削ってコスト高を吸収しているのでしょうか。
ぜひコメント欄で、皆さんの実感を教えてください。
今回の内容が「役に立った」と感じていただけたら、記事へのスキと、noteのフォローをいただけると励みになります。
また、私はXで、こうした「平均」と「分配」のズレを日々追いかけています。よろしければ、変化の時代を読み解く一助として、あわせてご活用ください。
https://x.com/muratamasashi
また次回のコラムでお会いしましょう。
村田雅志(むらた・まさし)
こちらもおすすめ
いいなと思ったら応援しよう!
応援をお願いします! この内容が役に立ったと感じたら、「チップで応援する」をクリックしていただけると嬉しいです!この記事は noteマネー にピックアップされました

