歴史は、私のことだった
いやぁ、
人間って面白いもので。
私たちは、
歴史を読むと、
つい裁きたくなるんです。
信長は悪かった。
本願寺は正しかった。
いや、
本願寺にも問題があった。
いや、
どちらも時代に翻弄されただけだ。
そうやって、
白黒をつけたくなる。
答えが出ると、
少し安心するからです。
でも、
歴史は案外、
そんな読み方を嫌がっているように思います。
戦国の記録を読んでいると、
立派な人ばかりではありません。
約束を破る人もいる。
欲に負ける人もいる。
正義を掲げながら争う人もいる。
守るためと言いながら、
人を傷つける人もいる。
その姿は、
五百年前の人なのに、
どこか見覚えがあります。
外の話だと思っていたのに、
私の中にもある。
そう気づかされることばかりです。
差別を読めば、
私もまた線を引いていることに気づく。
寺内町を読めば、
人を名前で見てしまう私に気づく。
一向一揆を読めば、
共同体が人を守り、
同時に縛ることにも気づく。
石山合戦を読めば、
どんな力も、
一人では成り立たないことを知らされる。
そして、
歴史を読み進めるほど、
不思議なことが起きます。
信長を裁いていたはずなのに、
顕如を見ていたはずなのに、
門徒たちを追っていたはずなのに、
最後には、
私自身が読まれている。
歴史が、
私を読んでいるのです。
私たちは、
自分の人生でも、
都合のいい物語を作ります。
あの人が悪かった。
仕方がなかった。
私は間違っていなかった。
そう思えば、
少し楽になります。
きっと、
戦国を生きた人たちも同じだったのでしょう。
だから、
歴史は誰かを裁くための材料ではありません。
過去の人を見下ろすためのものでもありません。
昨日の私と、
今日の私を照らす鏡なのです。
もちろん、
歴史を正しく知ることは大切です。
史料を読み、
思い込みを離れ、
新しい研究にも耳を傾ける。
それは欠かせません。
けれど、
それだけでは終わらない。
歴史を学んで、
知識だけが増えたなら、
まだ半分です。
その歴史が、
私のものになったとき。
信長にも、
顕如にも、
無名の門徒にも、
「私も同じです」
と言えるようになったとき。
初めて、
歴史は今を生き始めるのだと思います。
私は、
この古い記録を読みながら、
何度も立ち止まりました。
そこにいた人たちは、
決して聖人ではありません。
迷い、
怒り、
悩み、
時には間違えながら、
それでも精いっぱい生きていました。
そして、
そんな人間の姿の中に、
阿弥陀仏の願いは流れていました。
立派だからではない。
正しかったからでもない。
弱さごと、
見捨てられていなかった。
そのことだけは、
時代が変わっても、
少しも変わりません。
夜、
一日を終えて、
湯気の消えたお茶を前に座る。
今日も、
思い通りには生きられませんでした。
それでも、
歴史の中の誰かと同じように、
私もまた、
阿弥陀仏の前に立っています。
歴史は、
過去を裁くためにはありません。
今の私を、
静かに照らすためにあります。
その光の中で、
また一歩、
今日を生きていけたらと思います。
南無阿弥陀仏。
