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理想の歴史教科書界隈(1)法規にみる教科書の基本その1

 理想の歴史教科書とはどうあるべきなのか?
 このテーマは自分の能力の範囲を越えている課題であることは自覚しています。しかし、微力ではありますがこの大問題に取り組んでみたいと思います。

 まずは、法規的な定義を確認しましょう。

①教科書の発行に関する臨時措置法(昭和23年法律第132号)
「第2条 この法律において「教科書」とは、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及びこれらに準ずる学校において、教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であつて、文部科学大臣の検定を経たもの又 は文部科学省が著作の名義を有するものをいう」

 この条文には教科書は「主たる教材」であると定義されています。教科書は子どもたちが学習で使うものですから「教材」であるという定義に誰も異論はないでしょう。
 奈須正裕氏も教科書についてこう述べています。

「教科書は学習指導要領に示された各教科の内容を指導するための「主たる教材」であって、教科内容そのものではない」(奈須正裕「新時代の学びを支える「授業改善キーワード」教科書」『教育研究』令和4年1月号 連載第10回p56)

 その通りだとは思いますが、もう少し精緻に考えてみたいと思います。こういう見方も可能だからです。

 現場教員は行事が忙しくなったり、病気で長く休んだりするとよくこんなことを言います―「教科書、終わるかなあ」。現実に終わらないということはないのですが心配になってこんなセリフを口走るのです。ここには教科書に掲載されているのは「教材」というよりは「内容」であるという意識が見えます。ゆえに、すべてやり切らないとマズい!という気持ちになるのです。つまり、教科書は教えるべき「教育内容」そのものであるという見方もできます。
 
 この点について藤岡信勝氏は次のように説明しています。

「しかし、同時に、教育内容と教材の区別は相対的なものであることにも留意しなければならない。教科書の記述を一般性の側面において把握すれば教育内容となり、何か一般的なものに対する特殊的なものの具体的な展開としてみなしうる度合いに応じてその文章は教材となる。教師の与える言語情報はどこからどこまでが教材であるといえる明確な一線があるのではなく、「教材性」としてその特質は連続的に存在しているのである」(藤岡信勝「社会科の教科書のあり方—魅力ある教材づくり」柴田義松編『教科書』有斐閣選書p119)

 つまり、教科書は「教育内容」でもあり「教材」でもあるのです。その違いは明確な境界線があるのではなく「みなしうる度合いに応じて」グラデーションのように連続しているのです。

 例えば、教科書の「信長は旧来の政治勢力や社会制度を打破し、全国統一への道を切り開きました」という記述は抽象的な歴史用語で記述されていて一般性が高く「教育内容」的です。しかし「信長は、楽市・楽座の政策をとって城下の商工業者に…」という記述は「特殊的なものの具体的な展開」なので「教材」的です。「旧来の社会制度打破」という教育内容を「楽市楽座」という教材で具体性をもって教えるという関係です。

 教科書は「教育内容」を前提にした「教材」です。
 ですから、学習指導要領に提示された「教育内容」をふまえて「教材」を選択して記述されていると言えます。

 これは考えてみれば当たり前ですが、教育内容と教材という2つの関係は意外に意識されていない盲点でもあります。

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