理想の歴史教科書界隈(4)専門家と現場の相互作用
前回紹介した柴田義松氏は教科書における「教材選択の基準」は2つあるとして以下の2点を上げています。(柴田義松「よい教科書とはなにか」柴田義松編『教科書』有斐閣選書)
①「その教材で「何を」教えるのかという教科内容の妥当性である」 ②「その教材が、子どもの学習活動の直接の対象としてはたす諸機能の妥当性である」
(p11)
①は内容の真実性と教育的系統性の両者が重要だという指摘です。 教科書に書かれたことは子どもたちにとって「真実」になります。ここに注意が必要です。同時に事実なら何でも掲載していいか?と言えばそうはいきません。それぞれの年齢、発達段階を考慮したものにする必要があります。例えば、江戸時代の文化のひとつに「吉原」や「花魁」という公娼の世界がありますが、これを小中学生を対象にした教育内容や教材とすることは妥当とは思えません。しかし、浮世絵に描かれた描画対象としては問題ないでしょう。この場合、浮世絵が教育内容であり、描かれた作品そのものがその教材だからです。戦時中の「慰安婦」も同じ意味で妥当でないことは明白です(いわゆる「従軍慰安婦=性奴隷」は全くの虚構ですから論外です)。
②は教授機能的側面からの検討が必要だという指摘です。 これは、子どもの学習活動をうながすものかどうかがポイントです。つまり、子どもの興味や関心をよびおこすもの、教育内容の本質をわかりやすく具体化しているもの、またそこからさらに発展する要素が含まれているもの…などが必要だということです。
①は執筆者の専門的な知識とそれぞれの時代の深い洞察が必要です。しかし①にはそれだけでなく対象である生徒の発達段階を考慮した教育現場からの知識と経験も必要です。
②も同じく執筆者の専門的な知識が前提です。とくに細部に分け入るような部分への深い造詣の中からいわば教材の「候補」をいくつも上げてもらい、それに対して教育現場が教材としての適否を判断するという関係が理想です。
付け加えるならば、たくさんの教材「候補」をとりあえずはすべて掲載して、現場教師が教室で自由に選択して授業をすればよいという考え方も成り立ちます。適否の判断は直接現場ですればよい、という発想です。前回紹介したアメリカの歴史教科書はこういう考え方でできているのかもしれません。だから1000ページものボリュームになるのでしょう。
