支笏湖|足跡のない森へ
札幌出張。キャリーケースがゴロゴロ響き、修学旅行生の笑い声に、子どもの泣き声。朝の空港は、人も音もせわしなく流れ続けていた。
いつもなら胸が躍る空港のアナウンス。そんなものは、この仕事用のリュックを背負った瞬間、脳内から吹っ飛ぶ。
搭乗時間まであと10分。じゃれ合う修学旅行生、おしゃべりが止まらない観光客を縫うように荷物検査を抜け、搭乗口へ急ぐ。スピード重視の出張時は、通路側だ。仮に窓側に座ったって、景色など楽しんでいる余裕はない。飛行機に乗ったらやることは一つ。PCを開く。この一時間で資料を仕上げなければならない。
新千歳空港の到着ロビーを出たら、エスカレーターを下り、まっすぐ快速エアポートの改札へ。……のはずだった。
だが、今回は違う。出張にプチ旅行が入る。祝日が入ったので、ちょこっと足を延ばしてみることにしたのだ。
新千歳空港の到着ロビーを出たら、エスカレーターを上がり、2階のお土産コーナーへ。同じ空港なのに、その日はテーマパークの入口みたいに見えた。
目指すは「かま栄」。行列はできていたが、急ぐことはない。お目当ては数量限定のマヨサンド。まだ温かいマヨサンドをひと口頬張り、コーン茶でほっとひと息つく。かまぼこにツナマヨのコク、一味のアクセント。それをサクッと揚がったパンが包んでいる。
今回は支笏湖行きの観光バスに乗る。快速エアポートがバスに変わっただけで、なぜこんなにワクワクするのだろうか。1階の待合室でバスを待つ。ぽつぽつと観光客が集まってくる。みんな薄着だ。甘いな。私はニット帽にロングダウン、防水のスノーブーツ。極寒の地へ向かう準備は万端だ。ほどなくして、点呼が始まった。
バスは満席だった。車内はガヤガヤと浮き立った空気で満ちている。バスに揺られること1時間。降りた場所は、見渡す限りの真っ白な雪原……ではなく、見事に雪かきされちゃっていた。ビジターセンターや飲食店が立ち並ぶ、立派な観光地だった。
支笏湖は飲食店の向こう側だという。のんびり歩いていると、視界が開けて湖が見えた。真っ白な雪に覆われた山々の中で、そこだけ青く光る湖。
だが、花より団子。
軒先には支笏湖産のヒメマスがずらりと干されている。注文が入るたび、炭火で一本一本丁寧に焼かれていく。焼き上がりまで20分。時間切れだ。これからトレッキングツアーに参加するのだ。先にかま栄へ寄っておいて正解だった。
受付で荷物を預け、紙を渡される。緊急連絡先の記入と、事故が起きた際の同意書へのサインだ。ミニバンへ乗り込む。10分ほど走ると、ガイドさんが車を降りてゲートを開けた。車はそのまま奥へ進んでいく。窓の外の白銀の世界がもどかしい。早く外へ出たくて、うずうずする。
バンが止まり、扉が開いた。深く降り積もった真っ白な雪道が、奥までまっすぐ伸び、両脇には針葉樹が隙間なく立っている。音までも雪に閉じ込められてしまったようで、自然と小声になる。足跡はひとつもついてない。
「ここから少し歩きましょう」
その一言だけで、とてつもなくワクワクした。真っ白な地に一番に足跡を付けることができる。この先の道はいったい、どこにつながっているのだろうか。
ガイドさんから配られたスパイクを装着し、いざ進んでいく。ザク、ザク。真っ白な降りたての雪に、自分の一歩目を刻む。景色のことなど忘れて、下ばかり見ながら、ずんずん雪を踏みしめる。シンとした静けさに、ザク、ザクだけが響く。興奮で寒さなんて感じない。歩き始めてすぐ、ダウンのチャックを下ろした。思わず両手を広げて冷たい空気を胸いっぱい吸い込んだ。
「こちらへ進みましょう。」
いつの間にかこんなところまで来てたのか。右手に、細い雪道が伸びていた。置いていかれないよう追いかける。雪が深くて走れない。一歩ごとに、ぴょん、ぴょんと跳ねながら進む。
森に入った瞬間、ガイドさんが雪を指さす。見ると、小さな足跡が。
「これは、シカの足跡だよ。右から歩いてきたんだね。きっと向こうで何か見つけたんだよ。ほら、ここから歩幅が大きくなってる。走っていったんだ。」雪の上の点と点が、ガイドさんには物語に見えているらしい。
森には思ったより、たくさんの動物の痕跡があった。どうやら、お邪魔しているのは私たちの方らしい。ガイドさんの話を聞きながら細い道を進む。いちいち「へぇ」や「ほぉ」と、シャッターの「カシャ」が響いていた。ところが、不意に歩みが止まった。
「皆さん、そろいましたか。軍手、しっかりはめてますか。ここからしばらく下ります。」
……どこを下るの?目の前に、道はなかった。
よく見ると、細いロープが一本張ってある。
「ここです。」
「はい、では順番を決めます。」
上の人が滑れば、後ろの人まで巻き込んでしまう。だから順番が大事なのだ。ここで引き返すこともできた。けれど、このガイドさんなら付いていける気がした。
「十分に間隔をあけて、ゆっくり自分のペースで付いてきてください。」
決められた順番で恐る恐る下っていく。……いや、その前に、しゃがんでロープへ手を伸ばす。それが最初の難関だった。前の人が視界から見えなくなるのを待って、一歩踏み出す。「へぇ」や「ほぅ」は、もうどこかへ消えていた。聞こえるのは、「わぁ」と「ひぇ」と、ロープを握る「ギュッ」だけだ。ロープは途中でなくなってしまった。一体どうやって進めばいいのだ……。
「スパイクがあるので、大丈夫ですよ」
信じられず、結局しゃがんで地面を這うように進んだ。木製の手すりが出てきて、少しほっとするのもつかの間、足が震えるほどの急斜面が続いていた。絶対に下を見てはいけない。足を延ばす先だけを見つめながら、一歩一歩踏みしめる。どれぐらい進んだのだろうか。急に声がした。
「ほら、見えてきましたよ!」
そんなこと言われても、こっちは前なんか向いてる場合じゃない。安全な姿勢まで立て直し、ようやく声のほうを見る。白い水が少しだけ見えた。どこからか、ごうっという音も聞こえている。滝かなぁ。そう思うものの、視線は足元へ戻る。
「わぁ!」
先頭から歓声が上がった。
あと数歩だ。
がんばれ。
突然すっぽりと空が開けた。その先では、もう誰も声を上げなかった。そこにあったのは、私の知っている滝ではなかった。想像していた何倍もの水が、岩肌を一気に流れ落ちていた。地層の見える岩肌の間から真っ白なしぶきが舞い上がり、ゴウゴウと谷いっぱいに響いている。
棒のように突っ立ったまま、呼吸するのも忘れて滝を見つめていた。頬を刺すような冷たささえ、もう感じなかった。
滝の周りは、おびただしい数の太く鋭いつららが取り囲んでいる。足元には、しぶきがそのまま凍ったキノコのような氷柱がいくつも生えていて、大きいものは肩ほどの高さまで育っていた。
「ここが七条大滝です。つららはいつ落ちてくるかわからないので、つららの下にはいかないように。岩も落ちてきたりするので、注意してください。」
声を掛けられ、我に返る。足元を見ると、野球バットほどもある透明な氷が雪に埋もれ、その横には地層がはがれて落ちてきた大きな岩が転がって、雪をかぶっていた。
「しばらくここで休憩しましょう。」
カップを受け取ると、ガイドさんが大きな水筒から紅茶を注いでくれた。張りつめた冷気の中、湯気と香りがふわっと立ちのぼる。かじかんだ手をカップで温めながら一口。張りつめていた気持ちが、ゆっくりほどけていった。紅茶を飲みながら、滝を眺めていると、ふと、思った。
もっとそばに行ってみたい。
次の瞬間、もう、体は動いていた。滝のそばに行くには、川を渡らなければいけない。ロングダウンをたくし上げ、滑らないように足元を確かめながら川へ入る。水位は足首ほど。冷たく、信じられないほど透明で滑らかだった。滝つぼの湖面には、ゆったりと波紋だけが広がっていた。
目の前のつららは、思わず手を伸ばしたくなるほど太かった。ガラスのように透き通った氷は、表面がぼこぼこと何層にも重なり、びくともしなかった。滝の音がすごくて、周りの音が一切かき消される。上から落ちるおびただしい量の水が、絶え間なく風を生み出していた。霧のような細かな水しぶきが、その風に乗って顔へ、髪へ、次々と触れていく。
そっと目を閉じた。時間が止まり、頭の中はゆっくり空っぽになっていった。写真には写らないものが、そこにはあった。
👣 ふらりマップ
🏞️七条大滝
🚩ここにも、行ってみる。
香港
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