突然降ってきた香港⑧ | 雨と、お粥と、広東ポップ。
空腹で目が覚めた。窓から見えるマンション街はどんよりしていて、赤い傘が揺れていた。雨か……。
せっかくの香港なのに、と少しだけ思ったが、不思議と気分は悪くなかった。チェックインの時、ホテルのスタッフが、近くにおいしいお粥屋があるって言ってたのを思い出した。ちょっと冷え冷えしてるし、悪くない選択だ。このまま短パンで行っちゃおうと思ったが、やっぱりジーンズに着替え、早速出発だ。
トトトト、トトトト。
横断歩道の急かされる音を聞きながら、しとしと降る雨の中、急な坂を下っていく。濡れた坂は滑りそうで、少し怖い。
店内は明るく、蒸気と人でいっぱいだ。空席が見当たらない。こうなったら、テイクアウトにしよう。
「何にする?」
決められないでいると、後から来る常連さんに追い抜かれる。壁一面に、豊富な種類のお粥が書かれており、早朝から決心を迫られる。なんとか、白身魚のお粥、鮮鯇魚片粥(シンワーンユーピンジョッ)を注文。けど、目は相変わらずメニューを追ってる。あ、油條(ヤウティウ)もあるのか。これは頼まなきゃ。
慣れない香港ドルを、もたもた数えていると、欧米人らしき男性客が入ってきた。慣れた様子で広東語を投げ、迷いなく席に座る。メニューも見ずに何かを注文しているが、その中に、鴛鴦(ユンヨン)という単語が混ざった。
鴛鴦……?香港に着いたら、飲んでみようと思っていたやつだ。コーヒーと紅茶を混ぜた、香港ならではのミルクティー。頭が追いつかない。ここはお粥屋さんだ。急いでメニューをなぞるが、そんなものは見当たらない。思わず目は見開き、気づけば口が勝手に動いていた。
「……ホットの鴛鴦、追加で」
ポツポツポツポツ。
雨はまだ降り続いていた。熱々のお粥が入った袋をぶら下げ、見上げるほど急な坂を必死に登る。手は冷たいのに、お粥はまるでカイロだ。……いや、熱すぎて火傷しそうだ。坂を登るたびに太ももへ当たりそうになり、そのたびに少し体から離す。ようやく坂を登り切ったところで、昨日は大行列で諦めたベイクハウスが見えた。雨のおかげか、誰も並んでいない。
右手には傘、左手にはお粥と鴛鴦。ここへエッグタルトまで加えたら、坂道の難易度が一段上がる。……でも、この行列のないベイクハウスを見送る勇気もない。結局、エッグタルトも買ってしまった。
これ以上荷物が増えたら、本当にどれか一つは犠牲になっていた気がする。カードキーは右の後ろポケットが定位置だ。両手はふさがっている。仕方ない。誰もいないのを確認して、右のおしりをクイッと振る。
ピッ。ボタンが反応した。15階までのエレベーターがやけに長く感じられる。部屋へ転がり込み、キッチンへ荷物を置く。なんとか全部無事だった。開けっ放しにしてた玄関を閉め、ようやく一息ついた。
ほんの少し出かけただけなのに、濡れたジーンズが足首にまとわりついて気持ち悪い。鬱陶しいジーンズを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になる。体はすっかり冷え切っていた。
手を洗って、お粥をボウルに移していると、ふと洗濯機が目に入った。
......待てよ。乾燥機もついてるじゃないか。
操作はよく分からなかったが、とりあえず太陽マークを選択する。一か八か。えい。
ゴウン、ゴウン。乾燥機は規則正しく動き始める。
注水は…………始まらない。
勝った。
鼻歌交じりに、冷めてしまった鴛鴦を、縁の分厚いマグカップへ注ぎ、電子レンジへ入れる。何気なくテレビをつけると、広東ポップが流れてきた。
ホカホカのお粥は、お米の形がほとんど残っていない。口に入れた瞬間、白身魚の旨味がふわっと広がる。遅れて生姜の温かさが追いかけてきて、体が奥からじんわり温まっていく。ふと、袋の中の油條を思い出す。細長いはずの揚げパンは親切に一口大にカットされていた。そのまま一つ、口に入れる。サクッと香ばしく、じゅわっと油が染み出る。もう一個、粥に沈めて食べる。うん、間違いない。これ、完成してる。
ピーピー。電子レンジから取り出した。鴛鴦を見ながら思う。お粥にコーヒーねぇ……紅茶ねぇ……。恐る恐る口に含む。苦いコーヒーの後ろから、執拗な紅茶の渋みが追いかけてくる。液体のくせに、コーヒーと紅茶が最後まで和解しない。でも、しっかりとコクのあるエッグタルトとは抜群に合った。買っておいて正解だ。
......と言うことは。エッグタルトを半分に割って、片方はコーヒーで片方は紅茶で味わう。一つで二度おいしい。
……そんなわけあるか。
それより、お粥屋なのに、なぜ鴛鴦なんだ。
歌詞は分からないのに、サビだけはなんとなく口ずさめる。シンクで皿を洗いながら、同じフレーズを繰り返していた。
カチ、カチ。時折、ジーンズの金具が乾燥機に当たって音を立てている。部屋にはダウニーの香りが少しずつ広がっていく。
昨日買ったグアバをかじりながら、ソファへ向かう。膝立ちになって背もたれへ肘を預ける。窓の向こうでは、雨に煙るマンション群がぼんやり霞んでいる。同じ窓なのに、昨日の夜とは、まるで違って見えた。雑然としたベランダ、落ちそうな洗濯物、足場のかかったマンション。ついひとつひとつ目で追ってしまう。
乾燥機が鳴った。ホカホカのジーンズに足を突っ込む。
雨はいつの間にか上がっていた。さっきまで窓越しに眺めていた、あの湿ったマンション街。今度は、私があの景色のどこかに紛れ込む番だ。
カードキーをおしりのポケットにしまい、ドアノブに手をかけた。
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