国債関連の議論についての提言
この投稿は、直接的には「国債のGDP比率」の関連ノートである。
また、VEM(Vortex Energy circulation Model : 渦潮経済モデル)という造語も使うかもしれないが、気になる方は一番下のリンク先を覗いてみていただきたい。
自分の note の関連投稿(他の方々の投稿)を見ていると、経済関連ではGDP、国債、PB、MMT、国債のGDP比率など、マクロ経済関連のものが色々あるなという印象を持った。
それらをざっと見て気づいたのだが、国債の層別に言及している投稿は、自分が見た限りは見あたらなかった。
しかし、これは日本の財政に関する議論には欠かせないのではないかと考えているので、自分なりに纏めてみた。
まず国債に関する議論で、下記の視点が抜けていると、その後の「国債残高論」は希薄になってしまうのではないか、という問題意識を持っている。
「そもそも、政府は何のために借金をしているのか。その借金によって将来の生産能力や社会の維持能力は増えているのか」が議論の前提として共有すべき情報なのではないだろうか。
ここを抜きにした国債残高論は議論の前提が狭くなってしまう気がする。
もう少し具体的には、国債には(その使途に)性格が違うものが混在していることは、誰もが認めるだろう。
国債残高論について議論するには、「国債残高」というレベルで一括りにせず、その内容による層別をした上で議論しませんか、という提言でもある。
国債の層別例
1.将来の価値を生む投資型国債
将来の価値を生む投資型国債
例:研究開発、科学技術基盤、教育、人材育成、生産設備、デジタル・通信インフラ、エネルギー技術など
これは企業で言えば設備投資や研究開発費に近い。
重要なのは、
借金 → 資産形成 → 将来所得増加
という流れが成立するかどうかであろう。
例えば100兆円借りて、将来GDPを150兆円分押し上げる、税収も増えるなら、その借金は単なる負債ではなく「成長への投資」と見ることができよう。
2.社会維持型国債
直接GDPを大きく伸ばさなくても、「壊れると社会全体が大損するもの
例:道路・橋梁の更新、上下水道、防災設備、電力網、ネット網、食料安全保障、エネルギー備蓄
例えば老朽化した水道管を更新する費用は、一見すると消費的支出だが、実際には将来の巨大な損失を防ぐ投資とも言える。
この種の支出を削ると、一時的には財政改善に見えても、後でより大きな費用になる。
3.損失補填型国債
これは必要な場合が多々ある。個人が保険に入るように、国家にも「異常事態への対応能力」が必要だ。
例:災害復旧、感染症対策、景気急落時の失業対策、医療費支援
ただし、これは基本的には将来価値を増やすものでない。
できれば減らしたい部分だろう。
4.単なる経常支出補填型
特に問題にすべきなのは、平時でも恒常的にこのタイプの支出が拡大していると思われるこの部分だ。
例:毎年の行政経費、制度維持費、効果測定されない補助金、非効率な既得権的支出
これらを国債で賄い続ける場合。
企業で言えば、「設備投資のために借金する」のではなく、「毎月の給料や生活費を借金で払う」状態に近い。
同じ100兆円でも意味が全く違う。
纏め
私が問題提起したいのは、上記のような議論抜きに、国債残高関連の議論をしてもムダが多いのではないかということだ。
国債残高(量)が「多いから危険」「いや自国通貨だから問題ない」というような二項対立的な議論より、本来議論の対象にすべきことは、
国債残高 × 使途 × 効果
ではないだろうか。
例えば同じ100兆円でも、AI研究、半導体産業育成、エネルギー技術、教育投資などにに使った100兆円と、
現状制度の穴埋め、非効率な行政維持、将来負担になる消費に使った100兆円では、経済的意味は正反対だ。
更に重要だと考えるのは、「資産として残っているか」「将来の資産として残る可能性がどの程度高いか」ではないだろうか。
この点は、他のマガジン「日本の国富・経済」の中のノート「日本の国富とは」にも書いた。
纏めると、包括的な財政議論の順番は、本来、
・何のために借りたか(目的)
・何が残ったか(資産形成)
・将来どれだけ価値を生むか(収益性・社会的効果)
・その上で債務規模は妥当か
になるはずだと考える。
補足)
上記の「国富」とも関係するが、そもそも「国債」というのは国の経済、更に言えば「国富」を豊かにする為の手段だろう。
であれば、その「手段」を使って、「国富」をどう豊かにするのかという論点を念頭に議論すべきだと考えている。
日本版DOGEを機に、日本の政策や経済について、AI を使いながら勉強しはじめ、「内閣府の政策」を見てもその上位にあるべき、「国のレベルの目的」が不明確ではないか、という疑問を持った。
自分なりに考えればそれは「国富」の言語化になると考えている。
また、それを実現する為の手段として「政策」が議論されるべきだろう。
「国債」はその手段の一部でしかないはずだ。
更に、「国富」には、経済的な内容以外に、国の歴史、文化、教育レベル、民度、芸能など「カネの尺度では測れない」価値も含んでいると考えて
いる。
政府の政策に見える「ウェルビーイング」は、言葉は使っていてもとってつけたような印象しか持てない。言っていることとやっていることに乖離がどうしても感じられてしまうのだ。(なぜかよく分からないが)
最近、GDPでは見えにくい豊かさの指標とは【ReHac9SP 馬奈木俊介】という Youtube 動画を見て、「新国富指標」を確立しようという国際的な動きがあることを知った。
上記動画の内容については、
「【考察】GDPから「新国富(ストック)」へ。本当の豊かさを測る 新しい経済指標とは?」で概要が分かる。
自分はこのような努力を否定したくはない(少なくとも目的は同じ方向を向いていると感じる)が、「カネと交換できない価値をカネという尺度で表現」しようとする手段選択には否定的だ。
ではどうするか、ということに関する自分なりの提案(の一部)が「渦潮経済モデル(VEM)」を利用した政策評価なのだが、説明しようとすると長くなり過ぎるので、ここでは説明しない。
興味があれば是非 下記のノート群を覗いて見ていただきたい。(実はこの投稿も、下記の投稿群の一部だ)
私の感覚では「新国富指標」は、いかにも欧米的な価値観に基づく一神教、二元論が無意識の基盤になっているように感じる。
つまり、評価尺度があくまで「カネの尺度」になっているのだ。
これはアメリカ駐在中に感じたあるCMを見た時の違和感にも通じるのだが、日本でも様々なバリエーションが放映されたマスターカードの Priceless CMだ。
最初、アメリカでこのCMを見た時、理屈としては分からないでもないが、そもそもクレカのCMに Priceless (カネで買えない価値)を絡めるかというモヤモヤした違和感を感じたことを覚えている。
あとから考えると、Priceless という概念は、彼らの頭の中では、あくまで「カネの価値」の延長線上にあり、敢えて言えばその尺度上の「無限遠」にある領域を Priceless と表現しているのではないか、という自分なりの仮説を持っている。
対して自分は、そもそも「カネでは置き換えられない価値」なのだから「評価軸自体」が違う、という感覚を持っていた(いる)のだと思う。
さらに付け加えると、「渦潮経済モデル(VEM)」は、カネという評価尺度で扱えない評価軸をそのまま持ち込むモデルでもある。
いわば、「カネと交換可能な評価軸(Vx):実数軸」に対し、「カネと交換不可能な評価軸(Vi):虚数軸」を持ち込むものでもある。
(と勝手に解釈している)
今はそれを検証しているような段階ではあるが、これが具体的にどう使えるのかは、下記のリンク先の「渦潮エネルギー循環モデル(VEM)」: 利用事例ストックなどを覗いてみていただきたい。
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