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三洋電機の挑戦と消滅2[急成長期 ]~急成長する三洋電機~

●前回までのあらすじと本記事について

「創業期」では、「三洋電機」が「パナソニック」の完全子会社化後までを簡単にまとめました。
そして、「松下電器(現パナソニック)」と「井植歳男」の関係、「三洋電機」の設立のキッカケとなったGHQによる「公職追放」により松下電器を去る「井植歳男」。

今回は松下電器を退職した「井植歳男」が創業した「三洋電機製作所」が、松下幸之助の支えがあり設立後の急成長に繋がったこと、戦後設立された家電メーカー故に差別化のため独自路線で他社に先駆け実用化した技術により「三洋電機」の急成長につながっていった事などをまとめていきます。

創業後の1番初めの本社。

◎井植歳男が残したことば

私は、何事もやればできるという自信を持っている。
若い諸君は、いろんな困難に遭遇するだろう。
しかし、自信を失ってはならない。

その困難を乗り越えていく、打ち勝っていく、それが、成否の分かれ道だ。
困難にあわない人生はあり得ない。

               三洋電機創業者:井植歳男

引用:公益社団法人 井植記念会

1.三洋電機誕生と「発電ランプ」の成功

(1)井植歳男「三洋電機製作所」創業

1947年2月:「三洋電機製作所」創業。
借金を背負い、戦後間もない極端な物資不足と凄まじいインフレの真っ只中の事だった。

◆「三洋電機製作所」の創業資金を得るため

井植歳男 Ⓒ文藝春秋

独立するための資金調達として、駐留米軍をターゲットに商売を始めたのです。

彼らは家族で日本に住みます。そうなると住宅が必要ですが、アメリカ人は間接照明を好むと聞き、父は、電気スタンドに目を付けました。
戦後の物資不足のなかで、軍用の落下傘のシルクを傘として使うなど、戦争で不要となった素材を有効活用して商品を完成させたのです。

父があえて米軍相手に商売をしたのは、「戦争では負けたが商売では勝つ」という強い意志の表れだったはず。

ここで得た資金で昭和22(1947)年に設立したのが、三洋電機の前身・三洋電機製作所です。

       井植 敏(井植歳男の長男)/元三洋電機会長

引用:文藝春秋+「井植歳男 主婦に楽をさせたい」

◉「三洋電機製作所」創業を支えた「松下幸之助」

1949年撮影「松下幸之助」
引用:
財団法人松下社会科学振興財団 松下資料館

「松下幸之助」は「松下電器」の従業員7人に、「井植歳男」に従って新しい会社の創設に尽力するよう求めた。

この7人の中に「後藤清一」という人物がいた。

「後藤」は工場長を務め実績を残し、晩年「三洋電機」の副社長(1971〜1980)を務め、その後は相談役として同社の発展に尽力した。

「松下幸之助」、「井植歳男」という二大経営者に仕え、その薫陶を受けた人物だった。

「後藤清一」
引用: 松下幸之助と井植歳男に仕え,
三洋電機の基礎を築いた熱血仕事人
後藤清一翁の事績を訪ねて

(2)日本初の量産方式で「発電ランプ」を生産

創業同日、「松下幸之助」から譲渡(※資料によっては貸与とも)された兵庫県の「北条工場」を拠点に「自転車用発電ランプ」の製造を開始する。

「北条製造所の開所式」
前列左から3人目が井植歳男、4人目が後藤清一。

引用:
松下幸之助と井植歳男に仕え,
三洋電機の基礎を築いた熱血仕事人
後藤清一翁の事績を訪ねて

「自転車用発電ランプ」すでに16社が製造販売しており、「三洋電機」17社目の後発参入だった。

松下幸之助の命を受け、松下電器から三洋電機製作所に籍を移した「後藤清一」は工場長となる。
「後藤」は、創業商品「自転車用発電ランプ47型第1号機」(ナショナル発電ランプ)の製作を軌道に乗せた。

「自転車用発電ランプ47型第1号機」
引用::公益財団法人 井植記念会

この発電ランプは品質の優秀さだけでなく、1948年(昭和23年)導入の日本初量産方式の「コンベアシステム」(流れ作業)が特徴だった。

1947年12月:「全国発電ランプ性能コンクール」で優勝した。
日本国内のみならず、世界市場へのシェア拡大の基礎を築いた。

1948年:日本初量産方式「コンベアシステム」導入。

画期的な生産システムとして注目を集めた。

◆コンベアシステム導入後の生産量
1948年末/月産9,000個
1949年末/月産40,000個
1950年末/月産110,000個

1950年:国内シェア70%を占めるまでに急成長する。

こうして後に「世界のサンヨー」と呼ばれる三洋電機の礎を築いた。

ナショナル発電ラン標準52型
引用:三洋電機洋友会 SANYOミニヒストリー

◉後藤清一が残したことば

要は、くじけずに自らの置かれた苦境の打開に努めるところに幸運はやってくるのではないか。

あの人は運がいい…というのは、その人が努力を続けているというべきで、俺は運が悪い…というのは、まだ俺は努力が足りないというべきなのだ。

             三洋電機相談役 後藤清一

引用:『こけたら立ちなはれ』後藤清一著(1977)

◆「三洋電機」製造と「ナショナル」ブランド

1946年の公職追放令で、井植歳男が自ら松下電器の専務職を辞したのは、松下幸之助の立場を守るためであった。
(GHQの公職追放令は、役員1人は残せるがそれ以外全員追放となるため。)

松下電器の労組や全国の代理店が署名した「追放除外嘆願書」
引用:公益財団法人松下社会科学振興財団

そして松下幸之助は井植に対しはなむけとして「兵庫県の北条工場」だけではなく、「ナショナル発電ランプ」の製造権、「ナショナルマーク」の使用権も併せて譲っていた。

製造メーカーとしてはSANYOブランドのロゴを冠する。
対して商品名はナショナルの名前を冠していた。

「ナショナル発電ランプ」の文字は「ナショ文字」が使われている。

こうして「三洋電機製:ナショナル発電ランプ」は誕生した。
1947年から3年間使われた「三洋電機製作所」のロゴはNationalロゴを冠していた。

●松下幸之助が残したことば

どんなに悔いても過去は変わらない。
どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。
いま、現在に最善を尽くすことである。

   松下電器(現パナソニック)創業者 松下幸之助

引用:心に響く名言集

◆松下と三洋のブランドロゴ

●1925年[松下電器]

1925年「ナショナル」商標登録。
1937年「ナショナル」ロゴ・ナショ文字採用
引用:Panasonic ブランドの歴史

●1947年[三洋電機製作所]

1947〜1949年「三洋電機製作所」ロゴ。
ナショナルマークの使用権を譲り受け、自転車用発電ランプを最初
の製品として製造した。
引用:三洋電機洋友会

●1953年[三洋電機]

1953年「サンヨー」ロゴ制定。

三洋電機製作所時代のロゴから源流企業としての松下電器と三洋電機の関係が見えてくる。

さらに三洋電機株式会社となり、新たに制定したブランドロゴも、「円+電気のスパーク+カタカナ表記」と、松下電器のロゴマークとの共通点が見られる。

2.三洋、総合家電メーカーを目指して

発電ランプの成功で経営基盤を固めた三洋電機は、次第に家電分野へ事業を拡大していく。

1949年:「三洋電機製作所」初の海外輸出[発電ランプ]。
1950年:「三洋電機株式会社」設立。
1951年:ラジオ生産を開始。
1952年:国内初のプラスチック製ラジオ1号機「SS-52」を発売。

国内初のプラスチックラジオ1号機「SS-52」
引用:三洋電機洋友会

1953年:国内初の「噴流(ふんりゅう)式洗濯機」発売。
                現在の縦型洗濯機の基礎となる。

当時、国内メーカーの洗濯機は米国式の「撹拌(かくはん)式洗濯機」が主流だった。

三洋電機製の国内初・噴流式洗濯機
「噴流式洗濯機サンヨー(SW-53)」
引用:文春オンライン©︎文藝春秋

1953年評論家・大宅壮一氏によって「家電元年」と命名された。
1956年には、経済白書から「もはや戦後ではない」という名言が生まれた。

同時期には白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、まさに高度経済成長の前夜だった。

引用:文春オンライン
「評論家・大宅壮一」
引用:
東京新聞
当時主流であった「撹拌式洗濯機」
写真は東芝製「東芝P型」
引用:
青森県立郷土館ニュース

1953年:テレビ1号機(17C-231型)発売

国内初白黒テレビは「シャープ」が発売した。
引用:三洋電機洋友会

1956年:トランジスタラジオ1号機(6C-1型)生産開始。
1957年:日本初の上下スライド式扇風機(EF-122型)発売。
同年、 淀川工場で冷蔵庫の生産開始。
1958年:半導体研究所を半導体工場にし、トランジスタの 量産開始。
1960年:業界初の乾燥機能付き二層式洗濯機(SW-400)発売。
1961年:業界初のスプリット型エアコン生産開始。
1963年:業界初の充電式カドニカラジオ発売。

1963年:ニカド電池「カドニカ電池」発売。

のちに発売される充電式カドニカ電池の広告。

1964年:充電式カドニカカミソリ発売。
1965年:業界初1インチ1万円代へカラーテレビの低価格化実現。
1966年:モジュラータイプのステレオOTTO発売。
1969年:井植歳男氏逝去(三洋電機会長)


毎年のように新しい製品を発売し、三洋電機は総合家電メーカーとしてさまざまな製品を世に送り出し、さまざまな分野で挑戦し続けた。

引用:パナソニックエナジー

松下幸之助、妻むめの、義弟井植歳男の3人が創業した松下電器製作所は松下電器として大きく成長した。

公職追放により松下電器を去った井植歳男は、義兄松下幸之助の支えがあり発電ランプメーカーとしてスタートした。
しかし三洋はランプメーカーに留まらず、ラジオ・洗濯機・テレビへと事業領域を広げ、総合家電メーカーへの道を歩み始めた。

3.洗濯機で日本をリードしてきた三洋

(1)かくはん式とふんりゅう式洗濯機

当時米国式の「撹拌式洗濯機」は
日本メーカーが多く採用していた。
英国フーバー社の「噴流式洗濯機」の技術を取り込んだ。
三洋電機以外のメーカーは特許侵害行為を心配し
「撹拌式」が主流となった。

三洋電機は、出来る限りの他社洗濯機を買い集め研究した。

約一年の研究の末、英国フーバー社の技術を取り入れたフーバー方式(噴流式)の洗濯機を、三洋電機は競合他社の半額28,000円で1953年(昭和28年)に発売した。

日本のどのメーカーも、特許権でフーバー社と争うことを恐れた。
井植歳男は「我々から見れば欠点の多い攪拌式を使っているのは何故だろうか。」と疑問を持った。

撹拌式の様な痛みやすい洗い方でも、アメリカの様な豊かな国だからこそ成り立つ。
ヨーロッパで噴流式が主流なのは、ヨーロッパの様な戦争の影響が大きく、少ない物を大切に使っているからではないか。

同じ意味で、日本にこそ噴流式が合うに違いないと仮説を立てた。

英国フーバー社

こうして、日本で初の噴流式洗濯機を発売し、洗濯機で日本をリードする存在となった。
三洋電機は白物家電で高度経済成長の波に乗り、日本の暮らしを支えてきた。

(2)日本のベランダ風景を変える三洋電機

1959年:故・高松宮殿下が三洋電機滋賀工場を見学された時のことである。

三洋電機滋賀工場

「アパートの窓は洗濯物で満艦飾だ。東京オリンピックまでに何とか乾燥機付の洗濯機ができないものか。」

と要望された。
当時すでに研究されていたが、この事が実現につながる。

この洗濯機は、日本で初めて誕生した物干のいらない洗濯機として話題を呼んだ。

サンヨー乾燥洗濯機:45,000円
物干しのいらない洗濯機と話題になった。
日本初の脱水機つきの2槽式も三洋電機が発売。
1960年(昭和35年)
引用:
家電Watch

(3)現在の洗濯機の基本構造は三洋電機が作った

三洋電機が「噴流式洗濯機」を開発してから60年以上、現在まで日本の縦型洗濯機の基本構造は変わっていない。

洗濯機工場(大津市)を見学する井植歳男
引用:産経新聞社 「ゾウ1頭を洗う」主婦を解放せよ
三洋・井植歳男、信念の新型洗濯機

「洗濯機といえば三洋電機」というほど、現在までの洗濯機に引き継がれている機能は多い。

それ以外にも現在は当たり前の機能は「三洋電機」が日本初・世界初のものが多くある。

・パルセーターを左右に回転させた。
・脱水機を搭載(二層式洗濯機)。
・全自動洗濯機の開発。
・糸くずフィルター。
・超音波で気泡を発生させ洗浄力を高めた。
・空気(オゾン)で洗う。(その後他社もイオンやUVを利用。)
・上部から水を滝の様に流す
・乾燥機能付き洗濯機(発売当初二層式。)


「洗濯機といえば三洋電機」というのは、これらの機能が現在でも引き継がれている事が証明している。

4.三洋電機は井戸を水道に変えた

まだ戦争からによる爪痕から、日本全土が復興したとは言い切れない時代の昭和30年前後、三洋電機は井戸を水道にするという事業も行っていました。

昭和30年前後はまだ上水道が普及しておらず、井戸に水を汲みにいくのも重労働でかなり大変な事だったようだ。

井戸水を運ぶのはかなりの重労働だったという。
井戸水を汲むのも順番待ちで一苦労だったようだ。

三洋電機は多くの家に浅い井戸を掘り、ポンプで組み上げて井戸まで水をくみに行かなくても良いよう、井戸を水道に置き換える事ができるように多くの媒体で様々な広告を展開した。

5.三洋電機、総合家電メーカーへ

(1)「世界のサンヨー」へ

1950年代から1980年代にかけて、三洋電機は日本国内外で家電製品をの種類を幅広く展開した。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジなど、一般的な家庭にある家電製品、その他時代背景的に流行った餅つき機や、電機鍋などにも参入した。

あらゆる家庭用電化製品を手掛け、日本国内で「世界のサンヨー」「第二の松下電器」とも称された。

さらには、OEMシェアも高かったことから、「縁の下の三洋電機」とも呼ばれた。

(2)三洋電機の成長と共に生まれ変わるロゴ

1961年:三洋電機、新たなコーポレートロゴマーク制定

重電メーカーが家電分野に参入するなど、競争が激化する中、三洋電機の企業イメージを確立するため、マークが極めて大きい役割を持つという考えから、創業以来の目標であった「世界のサンヨー」を表すコーポレートロゴマークを策定し、企業としてのイメージ統一を図る必要があった。
マークに使用したブルーは、三洋(太平洋、大西洋、インド洋)の名にちなんだ世界を結ぶ海を表している。

引用:三洋電機洋友会 三洋電機ミニヒストリー

1976年:生まれ変わるするコーポレートロゴマーク

世界の人々の商品に対する好みも多様化。
国際レベルを抜く技術とサービスと信用を表現する誇らしいシンボルマークとして作られた。
SANYOの前についている円は、 1963(昭和 38)年、トランジスターラジオが 4年連続輸出 No.1になったことを期に、世界のサンヨーとして考えられたシンボルマークである。

引用:三洋電機洋友会 三洋電機ミニヒストリー

三洋電機が総合家電メーカーとして成長を続けてきた。
そして、コーポレートロゴマークも三洋電機の成長と共に生まれ変わっていった。

1960年代後半には、三洋電機は日本を代表する総合家電メーカーの一角へ成長した。

我が家の三洋電機製AMラジオ。
今だ問題なく、ラジオを届けてくれる。

◉井植歳男の残した言葉

地球は、年々せまくなっている。どこかの国で良い商品ができれば、直ちに、運賃と関税障壁を乗り越えて、世界を風靡してしまう。
文化や産業に関する限り、世界は一国といえよう。
世界の視野に立って考え、行動したいものだ。

引用:公益財団法人 井植歳男記念会

6.今後について

三洋電機は発電ランプメーカーとしてスタートしたが、その成功を足掛かりにラジオ・洗濯機・テレビなどへ事業領域を広げ、総合家電メーカーへの道を歩み始めた。

Part3[成熟期]では、高度経済成長の波に乗りながら独自技術で挑戦を続け、「世界のサンヨー」として発展していく三洋電機についてまとめていきます。

【三洋電機の挑戦と消滅シリーズ】
・Part1[創業期] ~世界を夢見た井植歳男~(公開済)
・Part2[急成長期] ~急成長する三洋電機~(本記事)
・Part3[成熟期] (執筆予定)
・Part4[衰退期] (執筆予定)

◉ 参考・出典元など

◆公益財団法人松下社会科学振興財団 松下資料館
松下幸之助について
◆公益財団法人 井上記念会
井植歳男の足跡
◆新・改善改革探訪記(創意社HP内PDF)
松下幸之助と井植歳男に仕え,三洋電機の基礎を築いた熱血仕事人後藤清一翁の事績を訪ねて
◆三洋電機洋友会(三洋電機OB・OG親睦団体)
三洋電機ミニヒストリー
◆文藝春秋+
井植歳男 主婦に楽をさせたい
◆パナソニックホールディングス株式会社
ブランドの歴史
パナソニックの歴史(パナソニックグループ100年の歩み)
◆家電Watch
日本の洗濯機をリードしてきた旧三洋からアクアへ。洗いの匠が生んだ「Prette」のスゴさとは?
◆プレジデントオンライン
実録!目頭が熱くなる「名経営者の一喝」【1
◆テレビ東京[ガイアの夜明け]
会社が消えた...その時、あなたは?~三洋電機消滅から10年~
◆大阪起業家ミュージアム
豊かな時代の形成〜復興から反映へ〜
◆パナソニックエナジー株式会社
電池事業の歴史
◆京都大学学術リポジトリ紅
戦後日本電機企業の海外進出

◉ 注意事項・免責事項

※1. 本記事の出典・参考資料等の情報は、2026/06/06時点のものです。
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