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男の娘小説『エリス』ベスト・セレクション②:Help me,ÉMILIIIIIIE!! たすけてえみりー!! OK牧場に住まう”迷elleオトコノ娘”は、完璧主義の呪縛を解き放って、また”OK”になれるのか!!?

 私のオリジナル小説『ELLIS-エリス- 世界最高の生き方』のエピソードのなかで、Noteに載っけても大丈夫そうなものを選りすぐってアップしよう!!のコーナーその②!!
 今回のエピソードは、主人公エリスが初めて強烈な自己嫌悪に陥り、学校で自傷行為に及んだ末、病院に救急搬送される、というお話です。友達の空手少女『エミリー』との友情シーンが読みどころ!! 個人的にお気に入りの一話となっております!! それでは本編をどうぞ!!

第二十七章 - 青春時代② 高校生活 Ep.15:Help me,ÉMILIIIIIIE!! たすけてえみりー!!

エリスの高校生活⑬ 僕は……OKじゃない

 次の日の月曜日。エリスは呆然と学校へ通い、呆然と授業を受け、呆然と休み時間に廊下を歩いていた。さんざんな出来事ばかりだった昨日という日が、彼の心に大ダメージを与えていて、それがまだまだ癒えていなかったのだ。
 あの日あの後、ニコラと2時間ほど部屋で過ごした彼は、ニコラに部屋の片づけをしてくれたことのお礼を言って、電話に出なかったことを謝って、どうしてああなったのかの経緯も説明して、精神的な助けを求めると同時に、自らにさらなる罰を与えたのだった。
 ニコラは全てを黙って聞き終えた後に、事もなげに笑ってこう励ましてくれた。「アプリのことは任せとけ! 俺の方からみんなに連絡して、お前が新しいアプリに移ったことと、そのIDはコレだってことを知らせてやるよ! なぁに心配すんな! 理由はテキトーにでっち上げるさ!」
 エリスは「ありがとう……」と消え入りそうな声で言ってから、その後ニコラが一斉連絡のメッセージを考えて、それを送信する様を生気のない目で見守っていた。結局その『理由』としては、エリスのアカウントが何者かに『乗っ取られた』ので、運営に連絡して削除してもらった、という筋書きになった。
 「これでよしっ!」ニコラが一斉送信し終えてからものの数分後、エリスのスマホにはたくさんの友達申請が届いた。彼はそれを片っ端から受諾していって、新しいプラットフォームに元の『友達の輪』を再構築していった。その過程、自分を心配してくれるメッセもたくさん届いて、その度彼は『迷惑かけてごめんね』という趣旨のメッセを返信した。
 これで一件落着! あとは月曜日、彼が元気に学校に登校して、友達みんなに『もー、ハッカーさんには困っちゃうよー! テヘペロッ!』とか言って誤魔化せば万事解決であるが、もちろん彼にそんなことができるはずもなく、月曜当日は悲惨な幕開けとなる。
 「春祭りすごかったね! 私感動しちゃった!」
 「アプリの件大変だったね? もう復旧できた?」
 登校早々、たくさんの友達が彼に声を掛けてくれたが、彼はぎこちない笑顔で「うん、ありがとう」とか「うん、大丈夫」などとテンプレ返答を繰り返すだけだった。学校の誰にとっても、あんな暗い顔したエリスを見るのは初めてだったし、そんな彼の態度が如実にこう語っているのを、彼らはひしひしと感じていた。『何か重大なことがあった』のだと……。

 ここで久しぶりに、心理学の話をしよう。皆さんは交流分析における『OK牧場』という概念をご存じだろうか? これはその人の人間関係に対するスタンス(立場)を、以下の4つに分類するモデルである。

①私はOK、あなたもOK(健康的・対等)
②私はOK、あなたはOKじゃない(傲慢・支配的)
③私はOKじゃない、あなたはOK(自己否定、従属)
④私はOKじゃない、あなたもOKじゃない(無気力・絶望)

 ここで言う『OK』とは『価値がある』『存在を認めている』という意味であり、当然①が理想的な状態を表している。多くの心理学者は、人は生まれながらに①のスタンスを持っていると主張しており、言わずもがなエリスもずっと①であり続けてきた。
 しかし今現在の彼は③である。それも重度の③である。これらのスタンスは後天的なものなので、誰もが日々自分のスタンスを変化させながら生きているのであるが、その大枠は幼少期~青年期にかけての、以下のような経験のなかで無意識に形成されていく。

・親や大人からの態度(どう愛されたか、どう躾られたか、どの程度自主性を重んじられたか)
・学校での評価・友人関係(いじめは最悪)
・成功・失敗体験(どちらも必要だが、割合として3:1くらいが理想)
・褒められる基準や許される境界線(これも他者評価を測る物差し)
・怒られ方、否定のされ方(これは自己よりも他者への信頼感に直結)

 エリスの場合、これらの諸条件は概ね良好――いや、率直に言うなら『ほぼ完璧』である。よって彼が①であるのは必然で、そのスタンスは揺るぎないものだと思われるかもしれない。しかし実際は違う。それはこの世界の構造上の歪みから来る『脆さ』である。つまり、『完璧』は絶対に存在しないということである。
 『ほぼ完璧』な人生を歩んでいる人間の唯一の弱点は、この『完璧は存在しない』という命題が真であると理解することが、極めて困難であるということだ。そう彼らの心のなかには、無意識下で形成される『完璧主義』という魔物が潜んでいるのである。
 特にエリスは自己に対する『ある種の完璧主義』が尋常ではない。それは『他者は大切だ。だから思いやらねばならない。優しくせねばならない』という強すぎる信念である。この信念は反動として次のような信念も生み出す。『自己は大切だ。他者を思いやれるから大切だ。優しくできるから大切だ』
 そんな彼だったから昨日、初めて現れた『自分のことしか考えていない自分』の存在が、相当堪えたのである。セルフイメージが崩壊し、スタンスは著しく③に振れてしまったのである。今だって彼は、『友達に嘘をついている自分』や『元気に応答できない自分』を受け入れられず、絶望に近い感情を抱いている。言うなれば悪循環、負のスパイラルに嵌まっているのだ。
 かく言う私のスタンスは、基本的に④、ときどき③、さらにときどき②である……すみません……酷い人間で、すみません……。もしあなたが①以外を経験したことがないのであれば、それはすごくラッキーなことである。どうかその心を大切にしていただきたい。そして私みたいな『健康的でない人間』に代わって、世界をより良くしていただきたい。
 さて、少し余談が過ぎたようだ。これからエリスが①に戻れるよう願って、物語の続きを見ていこうではないか。

 3時間目の授業が終わった後も、やはり彼は呆然と廊下を歩いていた。先ほど1時間目の後にはキアラが、2時間目の後にはソフィーが彼の様子を見にきてくれたのだが、彼は心を閉ざしたまま、自動運転オート・パイロットモード』で話をするだけだった。そんなことしてたら状況が悪化するだけだと分かっていたが、どうしてもどうしても、元気が出なかった。
 「エーリスッ!」そんなとき、強く背中を叩かれて彼が振り返ると、今日も元気いっぱいの空手少女『エミリー』が笑って立っていた。よっ、エミリー! スイスイチ! もうどうにかしてくれエミリー! 本作には君以上の『コミックリリーフ』役はいないんだぁぁぁぁ――おっと失敬っ、私は引っ込みます……。
 「やぁエミリー……」ドンヨリどよんとドンドンドーン! エリスが雷鳴すら聞こえてきそうなド曇天な笑顔で迎え撃つ。とても主人公の顔とは思えない……。
 「みんな心配してるよ? エリスが元気ないって。何かあったの? エミリーちゃんに話してクレメンス? 元気を出してクレメンタイン?」オ~・マイ・ダ~リン・クレメンタ~イン♪ 彼女自身もエリスの心が重症だと先刻承知だったようだ。いつも以上に『力業』でゴリ押してくる。それにしてもあのセリフ……何という『人名密度』だ……。
 エリス「心配かけてごめんね……ちょっと嫌なことがあっただけなんだ……明日にはたぶん『大丈夫オーケイ』になってると思う……だから気にしない――」
 「――だぁ~めっ! 今は大丈夫オーケイじゃないんでしょ? だったら何とかしなきゃじゃん?」エミリーが彼のセリフを遮ると同時に、彼の両肩に手を置いて捲し立てる。「その『ちょっと嫌なこと』ってアタシにも相談できないこと? 言いにくいこと? ねぇエリス? 『ちょっと』アタシを信じて、『ちょっと』勇気を出して言ってみ? きっとずっと心が軽くなると思――」パシンッ! エミリーの右手が弾かれる。痛っ! えっ、エリス!?
 「いいから、ほっといてよっ!」エリスの怒声が廊下に響く。同じ空間にいた十何人かの生徒は、この極めて稀な事象に対して唖然としながら、いったいあの二人の間に何があったのかと、心配と好奇の目で傍観し始める。ねぇねぇ今の聞いた? 聞いた聞いた! まさかあのエリスがあんな『ザ・ティーンエイジャー』みたいなセリフを吐くなんて……。
 当の彼も自分がしてしまったことに驚いたようで、ハッと我に返った様子でエミリーのことを案じ見る。すると彼女は右手首から血を流しているではないか! さっき彼が左手を振り払ったときに、爪で彼女の手首を切ってしまったのだ。彼はパニックになって、ただただ顔を凍り付かせたまま謝ることしかできない。「ごっ、ごめんエミッ、エミリー……」
 「ん? あぁ平気へいき、こんなのどってことないよ――」彼女は懐から絆創膏を取り出して、それを慣れた手つきで手首に貼ってから、すぐさま傷口を押さえて圧迫止血を行っていく。それから彼女は「念のため手当してくるよ」とその場を後にし、去り際に「エリス? 悩み相談したくなったら、いつでもアタシのとこ来なよ?」と、どこまでも器の大きいところを示した(ちなみにスイスの学校には一般的に保健室はないが、当然ファースト・エイド・キットは常備されており、またスクールナースが常駐しているか、あるいは教員が応急処置訓練を受けていたりする)。
 一方エリスは、またしても自分が信念とは真逆のことをしてしまったことに、言いようのない戸惑いと混乱を感じていた。激しい動悸がしてきて、呼吸が乱れていく。ぼ、僕はもうダメだ……何をしても失敗する……嫌だ……怖い……僕なんか……僕なんか――。
 エミリーが向こう側の廊下の角を曲がろうとしていたとき、彼女の耳に「ドンッ」という鈍い打撃音が届いた。彼女が不思議がって足を止めると、また「ドンッ……ドンッ……」と同じ音が連続して聞こえてくる。彼女が廊下を振り向くと同時に、向こう側にいた女生徒が叫び声を上げる。「エミリーッ! エリスがっ!」
 見ると、先ほど二人が会話していた場所で、エリスが狂ったように壁に頭を打ち付けている! 硬い壁と頭蓋骨が衝突する音が、ここまで届いていたのだ。彼女には分かった――彼はほとんど加減などしていないと! あのバカッ――。エミリーがその長い脚を高速回転させ、大急ぎで彼のもとへ走り出す。
 「エリス! やめろっ! 誰か彼を止めてっ!」彼女が必死に叫ぶも、もう付近にいた男子生徒二人が彼を止めようとしているところだった。そして彼女が現場に駆け付けたときには、エリスは床に押さえつけられて、頭部から出血していて、大暴れしていた。「放して! 放してぇぇ! 僕は悪い子なんだ! もっと罰を与えないと! 痛めつけないといけないんだ! もっと! もっとぉぉぉぉ――」
 パシーンッ! エミリーの平手がエリスの頬を打つ。かと思えばもう一発! パシーンッ! 彼の立場からすれば文字通りこれだった。『二度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!』初めて受けたビンタの衝撃は、彼が冷静さを取り戻すのに充分だった。両頬がジンジンと痛む。「え……エミ……エミ……」
 「ほらっ! これで充分でしょ!?」エミリーが何食わぬ顔で、呼吸を整えながら右手首を圧迫している。エリスをビンタしたことで、またイチから止血し直しになったようだ。「も――はぁ、はぁ――もう一発、打たせないでよ?」
 うん……エミリー……ありが……と――。彼の意識はそこで途切れた。

エリスの高校生活⑭ Help me,ÉMILIIIIIIE!! たすけてえみりー!!

 彼の目が覚めた。知らない天井……知らない匂い……。彼は眼球だけを使って呆然と辺りを見回してから、ゆっくりと上体を起こそうとする。ここは……どこだろう……うっ……頭がクラクラする――。すぐさま隣にいた彼の祖父母がそれに気づいた。「おぉエリス! 大丈夫かい? 大丈夫かい?」
 「おじいちゃん……おばあちゃん……?」エリスは突然、知らない場所で涙を流す祖父母に抱きしめられていた。状況が分からず、ただ素っ頓狂な疑問を口にすることしかできない。「二人ともどうして泣いてるの?」
 「お前が無事だったからじゃよ、エリス……」二人はひと頻りオイオイと泣いた後で、またエリスを寝かしつけるべく、身体を支えて枕の方へと押していく。「さっ、もう少し寝てなさい。あまり頭を動かさないように」されるがまま、また仰向けになるエリス。「具合はどうだぁい? 吐き気や眩暈めまいはあるかぁい?」
 「ちょっとだけ眩暈が……でも大丈夫」エリスはそこで、やっと自分がなぜ『こんな病室』で寝ているのかを思い出した。そ、そうだ……僕、自分で自分のこと……あ~あ、みんなに迷惑かけちゃったな……自分を罰したつもりだったのに……おじいちゃんとおばあちゃんまで傷つけちゃった……。そこで病室に新しい見舞客が来る。
 「エリスッ!」母のエリーズだった。彼女にも学校から連絡があって、普段そんなことはまずないので、急遽ローザンヌの劇場から飛んできたのだった(彼女はパフォーミング・グループのスター)。意識を回復した息子の姿を見て、肩を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべるエリーズ。「あぁよかった。よかったわ……」泣き震えながらベッドまで歩いてきて、息子の顔を両手で包み込んで、「もう! 何でこんなことしたの?」と怒りの感情をあらわにする。
 「ごめんなさい……」エリスは質問には答えず、ただ謝罪の言葉を呟くのみだった。先ほどエリーズがもし、『何でこんな馬鹿なことを』などと言っていたなら、エリスは『ごめんなさい……僕バカだから……』と返していたかもしれない。そんな些細な違いであっても、子供の自尊心や自己肯定感に影響を与える分岐点は生まれるのだ。もし子供を育てている親御さんがこれを読んでくれているならば、ぜひそういった『ちょっとした言い方』や伝え方に気を配って、お子さんに接してあげてほしい。誰だって間違いは犯すのだ。
 「エリーズ? サミュエルには連絡したのかぁい? 彼は来るのかぁい?」祖母が母にそう尋ねると、母は「えぇ連絡したわ。けど今回は私が行くから、来なくていいって伝えたの。彼ここのところ忙しいみたいだったから」と答える。それを聞いていたエリスは、少しだけ安心していた。昨日の今日で、これ以上父に迷惑をかけたくなかったからだ。
 *
 それから家族がペチャクチャとお話しているのを聞きながら、彼は目を閉じて休んでいた。ときどき家族が自分に話しかけてきても、彼はあまり受け答えせず、ただジッと心のなかで安らぎを探して彷徨っていた。途中ドクターが検診に来て、これまでの検査結果など踏まえてエリスの状態を診断・説明してくれた。
 どうやら彼が意識を失っていた間に、頭部CTスキャンと縫合処置が行われたようで、幸いCTでは頭蓋骨の骨折、脳出血、脳浮腫などは確認されなかったとのこと。また頭皮の傷は中程度の裂傷が二か所あり、どちらも4針縫って完全に止血されたとのことだった。意識障害は脳震盪のうしんとうによるものらしく、目下命に別状はないとのことだった。
 その後ドクターは家族とともに席を外し、別室で患者の心のケアについて話し合った。今回の怪我が自傷行為によるものだと、学校側から病院側へ連絡がされていたので、ドクターは彼の家族にメンタルヘルス病院の紹介と、『あまり理由を詮索しないであげてください』との助言を行った。
 心身の経過観察のため、その日は夕方いっぱいまで入院することになったエリス。眩暈症状は徐々に良くなっていき、そのうちに上体を起こして家族と会話できるようにもなった。午後3時には遅めのランチとして、母が買ってきてくれたミューズリー・バー(加工穀物やドライフルーツ、ナッツなどが混ざった棒状のシリアル)とブドウを食べ、リンゴジュースを飲んだ。
 少しずつ元気が出てきたので、病院内を徘徊することにしたエリス。この病院はニヨンにある総合病院(GHOL - Nyon Hospital)で、彼も何度も来たことがあるお馴染みの病院ではあったが、来るのはまぁまぁ久しぶりだったので、ちょっとした冒険みたいで楽しかった。
 院内にはいろんな人がいて、風邪を引いていてマスクしている人、腕を骨折していてギプスを着けている人、何らかの原因で歩けず車椅子に乗っている人などが目についた。その都度エリスは相手に労わりの目を向けたが、相手の方も同じような目で彼を見返してきた。その理由はすぐに分かった――。
 彼がトイレに行って、用を足し終えて手を洗おうとしたときだ。ふと目に映った鏡で自分の姿を見ると、そこには頭部を包帯でグルグル巻きにされた、ミイラみたいな哀れな少年が映っていた。できれば『額に闇の力でも封じ込めてそうな痛カッコイイ風貌』とでも形容してやりたいのだが、どう見てもただの痛々しい怪我人だった。
 彼はあまり鏡を見ないようにして、そそくさと手を洗っていった。そ、そう言えば……オシッコしたの……病院で目覚めてから初めてだなぁ……今まで催さなかったの、不思議……。そこで彼は重大な疑問に気づいてハッとする。え? そんなのってある? まさか……まさか! 彼の顔から火が出る。僕、学校で気絶しているとき、友達や先生の前で、お、お、お漏らししちゃったのかも! もしそうだったら……うわぁぁぁぁぁぁ(実際は、緊急搬送された際、救命士にオムツを穿かされ、後々その中で失禁した)!
 またしても深い自己嫌悪に苛まれながら、フラフラと病室まで戻っていくエリスは、もう自分の存在が何なのかさえ、解らずに震えていた。そんな15の昼だった……。
 しばらくしてソフィーとソフィパ(もはやこの名前が定着している)が見舞いに来てくれて、少し話をすることになった。「あぁエリス……痛ましいですわ……ワタクシ、あなたのことが心配で心配で……もう! どうしてこんな『馬鹿なこと』したんですのっ!」そう言って母親のように泣き怒る親友を見ながら、彼は「ごめん……ごめん……」と謝り続けるだけだった。
 やがて他の友達も次々と自転車で駆けつけてくれた。ニコラ、ダニエル、キアラ、ソユル。みんなも口々に労わりや疑問の言葉を彼に浴びせるが、他の者たち同様、彼の頑なな態度に困り果てるだけだった。特にニコラは、彼の身に起こった昨日の出来事を知っていただけに、彼の自傷行為の原因の一端は自分にあるかもしれないと、遣る瀬ない思いを抱えていた。
 遅れてエミリーが到着した。みんな彼女に『何を言っても無駄だ。今はそっとしておこう』と言ったのだが、彼女は端から何も言うつもりはなかった。ただ彼が『助け』を求めてきたときに、精一杯力になってあげようとだけ心に決めていたのだ。そんな彼女の無言の眼差しを見たエリスは、ついに心の砦が崩れ落ちるのを感じた。限界だった……。
 「エミリー……助けて……」捨てられて雨ざらしになった小動物みたいに震える彼が、小さくそう呟くと、彼女は小さく微笑んで「あいよ」と言ってから、他のみんなを病室の外に追い払ってくれた。ベッド脇の椅子に腰かけ、彼と向き合うエミリー。彼女は彼が話し始めるまでただ、彼の怯えた目を見つめ続けていた。
 「ぼ、僕ね……」ついに口を開くエリス。今こそ秘密を打ち明けるときだった。「昨日『オナニー』しちゃったの」
 「へっ?」エミリーが呆気にとられる。えっ? オナ……えっ!? まさかそんな……冗談でしょエリス――。そんな彼女を余所に、エリスは昨日の『珍事』を吐露していく。
 「君たちのこと『オカズ』にして、ひたすら気持ちよくなるためだけに……自分で自分の身体を……」そこでとうとう彼の涙腺が崩壊する。改めて口に出すことで、自分に対する嫌悪感が強まったのだ。「そしてイッちゃう寸前、お父さんとニコに見つかって、二人に全部見られちゃったんだ……酷い姿、全部……」
 「それに本当は、アプリのアカウントも自分のせいで失っちゃったんだ……カイトっていう日本にいる友達と、昨日ビデオ電話中にエッチなことしちゃって……みんなに嘘つきたくなかったけど、どうしても恥ずかしくて……言えなくて……」彼は病衣の袖で涙を拭って続ける。「それで、自分のこと嫌いになっちゃって……罰したくて……あんなことしちゃったんだ……あっ、そうだ僕、君の大事な手に怪我させちゃった! あれっ、大丈夫――」
 ずっと俯きながら話していたエリスが、とっさに顔を上げてエミリーのことを見ると、彼女が目に涙を溜めて、口を手で覆いながらなんと――笑いを堪えていた。え? エミリー? 何その顔? 彼が戸惑いを感じる間もなく、エミリーが爆発する。「アーハハハハハハッ!」病室に響き渡るバカ笑い。えっ!? えぇぇぇぇぇっ!?
 「ふーっ! ひーっ! やめてよエリス! クヒヒヒヒッ――」エミリーが腹を抱えて爆笑し、何とか体内に溜まった笑いのエネルギーを沈めていく。あー苦しい、苦しい! 全くこの子は――フッ――どんだけ『まじめ』なの――。「んもーっ! 冗談はよし子ちゃんよ、エリスー!(T'es trop drôle, toi, Ellis !) そんな『ちっちゃなこと』で悩んでたのぉ?」
 エリス「ひ、酷いよ、そんな言い方! 僕は真面目に――」
 エミリー「真面目すぎんのよ、エリスはぁ~。オナニーくらい誰でもしてるって~」
 エリス「え……エミリーも?」
 エミリ―「モチしてる! ときどき『クリちゃん』クリクリって――」
 「わーわー、言わなくていいからぁ!」エリスが羞恥心から耳を塞ぐ。これを面白く思ったエミリーがさらなる猥談を畳みかけていく。
 「あのソフィーだって、きっとしてると思うよ? あぁいう『高貴』で『お上品』気取ってる子に限って、実は裏では『エロエロ魔人』だったりするんだよ!」そこで彼女は、顔を真っ赤にして耳を塞いでいる彼の耳元まで口を近づけて、本格的に囁き声で『言葉攻め』を行っていく。「想像してごらん? 毎晩、天蓋付きのベッドのなかで、君のことオカズにしながらニャンニャンしてるソフィーを」
 想像してごら~ん? 味噌がなく、出汁もなく、具もない味噌汁を……お湯です! じゃなくって……もはや彼女のやっていることは完全にセクハラだったが、彼のことが可愛すぎて、彼女もついつい意地悪したくなったのだ。「エリス……勃起した……?」いささかやりすぎではあるが……(実際エリスはウンウン唸りながら強く耳を塞いでいたので、何も聞こえてなかった)。
 「なぁんてね! 冗談じょーだん!」エミリーが笑って彼の肩を叩く。「あのソフィーに限ってそんなことするわけないかー! アハハッ!」
 「え? ソフィーが……なぁに?」人力イヤーマフを仕舞ったエリスが、涙目で彼女のことを見上げると、彼女は「なんでもナーミン!(Rien de bien, p'tit lutin !)」っと彼の頭をワサワサした。

 「はっ……ハッチュッ!」そのころ奇跡的にも、紅茶を飲みすぎてトイレに行っていたソフィーが、帰り際盛大にクシャミをして、鼻を啜っていた。こういう『迷信をメタファー的に描くあるある手法』は苦手だが、あまりにもバッチリのタイミングで彼女がクシャミしたので、いちおう触れておこうと思う。
 『あらやだワタクシ……風邪でも引いてしまったのかしら? そうですわ! 病院なんかに来たものだから、きっと患者に病原菌を移されてしまったのですわ! うぅ……またお手洗いに行き直し、ですわ……』ですわですわ、そーですわ! ですのですの、そーですの! 彼女の『こじつけられる』日々は続く。

 「ともかくさ! オナニーなんて大したことじゃないんだから、『ちっちゃいことは気にするな』ってこと!」それな『えっみりぃ』! それワカチコワカチコ~! 彼女の気楽な説得を前に、エリスは不服そうだ。『それができれば苦労しない』とでも言いたげな顔で俯いてしまう。彼女はそんな彼に向って、最後の説得を試みる。「エリスはさ、自分のこと『何でもできる完璧超人』だと思ってるの?」
 「まさか!」この辛辣な質問に対し、彼も思わず反発してしまう。「僕はただ……自分のなかに、どうしても受け入れられない一面があったから……苦しくて」
 「それが『完璧主義』だって言ってんの!」彼女が語気を強める。今は厳しく諭す方が効果があると判断したのだ。「自分の嫌いなところなんてね、みんな持ってるんだよ? それも一つや二つじゃない、十個でも百個でも、千個でも持ってるんだ! それでもみんな頑張って生きてる! 自分の好きなところ伸ばしながら、嫌いなところと闘いながら生きてるんだ!」彼の胸ぐらを掴んで必死に訴え掛けるエミリー。彼女の決死の叱責が続く。
 「それなのに君は、たった一つ二つ自分の弱点を見つけたからって、いつまでもウジウジ悩んで、あげく自分のことを傷つけて、それで嫌いな自分をやっつけた気になってる! 全然違うでしょ!? てんで的外れでしょ!? それで心は軽くなったの? なってないでしょ!? もっと辛くなったでしょ!?」エリスの目から涙が溢れてくる。「みんなみんな君のことが大好きなんだ! それなのに君は今日、愛してくれている人たちみんなを裏切ったんだ! だから君はもっともっと自分を嫌いになるべきなんだ! そしてそれに慣れるべきなんだ! もう何があっても、絶対にこんな最悪な間違いを犯さないように――」
 ついにエミリーが彼を抱きしめて、涙を流す。「よかった……エリスが生きててくれて、本当によかったよぉ……もうこんなこと、絶対にしないでね……」彼女自身、本当はすごく怒っていたし、怖かったのだ。彼女の感じていたそれらの感情は、今やしっかりとエリスにも伝わっていた。心が全て解き放たれたように、涙と鼻水が溢れてくる。
 「ごめっ……ごめんなさぁぁぁぁい……僕が間違ってましたぁぁ……もうしましぇぇぇぇん……約束しまぁぁぁすぅうえっぐっ……」親友の胸で、五歳児のように泣きじゃくる彼。ちょうど二つ隣の病室にいた看護師が、『面会時は静かにするように!』と注意するつもりで二人の病室まで歩いてきたが、彼らの温かな様子を見ては、『もうしょうがないわねぇ』というジェスチャーをして引き返していった。そして二人は、しばし泣きながら抱き合っていた。
 *
 「エミリー、ホントにありがとう。僕、やっと目が覚めたよ」エリスが目を伏せながら、反省したように呟く。「君って強いね……どうしてそんなに強いの?」
 「またまたぁ、エリスってば買い被り杉ぃ」彼女が椅子に腰掛け直し、ワッハッハと笑う。「まぁでも、こんなに泣いたのは確かに久しぶりかも?」
 「いいなぁ。僕泣き虫だからさ……見習いたいな……」そこで彼は一つに事実に思い至る。「もしかして君が強いのってさ、『空手』を習ってるからじゃない?」彼のなかで全ての疑問が繋がった。考えるほどに、それが彼女の強さの秘訣に思えてならない。「そうだ、きっとそうだよ!」
 「い、いやぁ~どうだろ?」エミリーは複雑そうだ。『違う』と言うのも、『そうだ』と言うのも、どっちも合ってるようで違っているような気がするからだ。「たぶん~、半分くらい?」
 エリ「エミリー! 僕に空手教えて!」
 エミ「はっ?」
 エリ「僕、君のように強くなりたいんだ!」
 エミ「いやいや~、やめといた方がいいよぉ?」
 エリ「どしてぇ?」
 エミ「アタシがやってるのは『極真空手(Kyokushin Karate)』っていう『フルコンタクト空手』で、『防具なしで実際に相手に技を当てて闘う、タフな空手』なんだ。エリスにはちと厳しいかも?」
 エリ「それでも挑戦してみたいんだ! 怪我したり痛い思いする覚悟はできてるよ!」
 エミ「け、けどにゃ~?」
 エリ「お願ぁ~い♡」
 エミ「うっ……仕方ないにゃ~」
 エリ「ほ、ホント?」
 エミ「うん……けどアタシもまだまだ発展途上で、とても他人に教えたりできる腕前じゃないからさ……もしあれなら、明日アタシが通っている道場に来てみる? どうせやるなら、ちゃんとした先生に習った方がいいと思うよ?」
 「う、うんっ! ありがとうエミリー!」またしても抱き合う二人。今度は喜びから来る、エリスからの抱擁だった。エミリーは彼の細い身体をポンポン抱き叩きながら、『こ、この子がフルコン空手を……だ、大丈夫かな……』と若干の不安を感じていた。ま、やれるとこまでやってみればいいよね? 何はともあれ、エリスがまたいつものエリスに戻ってくれて、よかったよ――。彼女は彼を抱き留めて、とびっきりのジョークでこの場を締めくくる。
 「あっ、言い忘れてたけど、極真空手は『引っ掻き』も『頭突き』も反則だよ?」言ってやったり! さすがは本作にコメディ要素を持ち込む女神! 右手首を示しながらお茶目に笑う彼女を見て、そのセリフの意味を理解したエリスは、「もーっ! エミリーのいじわるぅ~」と顔を真っ赤にした。
 へへっ、まぁ『手技による顔面攻撃』も反則なんだけどねっ。だからお相子だよエリス! 本当に実現するか分からないけど、もし君と空手できたら……うんっ、確かに楽しいかもね?

 こうして本格始動する『旭信流きょくしんりゅう空手編』!! 武の芸、正義、力! 『守るための拳』を追求するエリスの闘いが今始まる!!


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