連載小説【和歌はまだ、泣いている】第三話 第二部「長い夜」
あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
長々し夜を ひとりかも寝む
柿本人麿(3番) 『拾遺集』恋3・773
●現代語訳
山鳥の尾の、長く長く垂れ下がった尾っぽのように長い夜を(想い人にも逢えないで)独りさびしく寝ることだろうか
※本作品は、百人一首への親しみと理解を深めることを目的としており、純粋な学術研究や歴史資料としての使用は意図していません。あくまでもフィクションとしてお楽しみください。
今回の「あしびきの」は三部作に分かれ、今回は第二部目となります。
第一部は下記となります。
山鳥の夜の歌 - 第二部:長い夜
紅葉深まる夕刻。
「来月の満月の夜、都に戻ることになりました」
宗景(むねかげ)の言葉が空気を切り裂いた。
千夜(ちよ)の手が止まる。
薬草を束ねていた指から、一葉が零れ落ちる。
「そうですか」
窓の外に目をやる千夜。
「宮中での愛も、ここでの思いも、結局は別れに終わるのか」
ささやくような呟き。
宗景は彼女の肩に触れた。
「最後の満月の夜に、また来ます」
千夜は答えず、ただ頷く。
彼が去った後、庵には沈黙だけが残された。
千夜は長い髪を梳きながら、星空を見上げる。
月が満ちるのは、あと二十日。
それから彼女の日々は、静かな熱に包まれていた。
山の奥深くで「鎮魂草」を探し、丁寧に乾燥させる。
その香りは心を鎮め、感覚を研ぎ澄ますという。
満月の夕べ。
千夜は入念に身を清め、最上の単衣を選ぶ。
鏡に映る自分は、かつて宮中で「霧の弥生」と呼ばれた頃の面影を宿していた。
囲炉裏に火を熾し、鎮魂草の香りが庵内に満ちる。
その香りに誘われるように、記憶が蘇る。
宮中での日々。密やかな恋。そして別れ。
西の空に暗雲が広がり始める。
松の葉が騒がしく揺れる音。
嵐が近づいていた。
千夜は篝火を門前に灯す。
もし彼が来るなら、道に迷わぬように。
風が強まり、篝火の炎が揺れる。
雨粒が屋根を打った時、遠くから足音が聞こえる。
千夜は息を飲み、戸口に立つ。
闇の中から宗景の姿が現れた。
「来てくださったのですね」
彼女の声に、安堵と緊張が混じる。
彼が庵に入った瞬間、激しい雨が降り始める。
「嵐ですね」と宗景。
「帰れそうにもありません」
狭い庵の中で、二人は向かい合う。
雨音と風の唸りが外の世界を閉ざす。
囲炉裏の火だけが二人を照らしていた。
「不思議な香りですね」
宗景は目を閉じ、深く息を吸い込む。
「鎮魂草です」と千夜。
「心を鎮め、真実を見る力があるといいます」
千夜は湯を沸かし、二つの茶碗に注ぐ。
宗景に差し出す時、彼の手が彼女の手に触れる。
その接触に、二人の呼吸が乱れる。
「都では何をなさるのですか」と千夜。
「父の跡を継ぐことに」と宗景は答えるが、その目は千夜から逸らした。
「本当にそれだけですか」
千夜の声は静かだが、鋭い。
宗景は黙り込む。
炎の揺らめきが彼の表情を照らし出す。
そこには決意と後悔が交錯していた。
「正直に話してください」
千夜は彼の目をまっすぐ見つめる。
「最後の夜です。真実だけを」
突然、闇を裂くような鳴き声が聞こえる。
「山鳥です」と千夜。
「嵐の夜に鳴くのは珍しいことです」
「山鳥は夜になると、オスとメスは別々に過ごすと言います」
千夜の声は低く、何かを暗示するよう。
「でも、嵐の夜だけは違います」
彼女の目が、炎に照らされて潤んでいる。
「互いの安否を確かめるため、共に過ごすのです」
宗景の息が荒くなる。
「千夜、実は—」
「私のことを調べに来たのでしょう」
千夜の言葉に、宗景は息を呑む。
「最初から知っていました。あなたの父上が私の正体を探っていることを」
宗景は顔を上げる。
「どうして」
「宮中での私の立場を考えれば、簡単なことです」
千夜の声には諦めが混じる。
「第一皇子の侍女だった私が、突然姿を消した。皇子の死の直前に」
宗景の目が見開かれる。
「皇子の死に私が関わったと、藤原家の人々は噂しました」
千夜は苦い微笑みを浮かべる。
「毒を盛ったと。皇子の寵愛を受けていた私が」
「そんな」
「真実は違います。皇子は病で倒れたのです」
千夜の声が震える。
「でも政争の道具にされました。大伴家と藤原家の争いの中で」
「ただ、あなたがそのために近づいたとは思いたくなかった」
宗景は彼女の手を取る。
初めて、自分から触れた。
「最初はそうでした。父の命で」
千夜は手を引こうとするが、宗景は離さない。
「でも、あなたを知るうちに、私は変わった」
彼の声には切実さがある。
「今夜、すべてを話すつもりでした」
月が雲間から差し、その光が千夜の横顔を照らす。
彼女の表情に、複雑な感情が浮かぶ。
「それで、どうするつもりだったの」
「父には真実を報告する」
宗景の声は確かだった。
「あなたは無実だと。政争の犠牲になっただけだと」
千夜の目から一筋の涙が落ちる。
「それで私は都に戻れるの?」
「無理です」と宗景は正直に答える。
「藤原家の力は今も強い。あなたが戻れば、再び命が危ない」
「でも、ここでの生活は守れる。もう追われることはない」
千夜は静かに笑う。
「それだけでいいの?」
「いいえ」
宗景は彼女に近づき、額を合わせる。
「できれば、あなたと—」
雷鳴が轟き、二人は顔を上げる。
山鳥が再び鳴く声。
今度は近くに聞こえた。
「明日、あなたは都へ戻る」
千夜は静かに言う。
「私はここに残る」
「でも」
宗景の言葉を、千夜は指で制する。
「それが運命です。山鳥のように」
宗景は彼女の手を取り、唇に当てる。
「また来る。必ず」
千夜は微笑む。
「その時は、あなたの嘘を見抜けるように」
彼女は鎮魂草の香炉に手をかざす。
「この香りを忘れないで」
嵐は激しさを増し、風が庵を揺らす。
二人は互いを見つめ、多くを語らずとも理解していた。
今宵は、別れではなく、始まりの夜なのだと。
長い夜は、まだ明けようとしなかった。
第二部「長い夜」完
