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地球ヤバイ!宇宙ヤバイ!|シューティングゲームの超パノラマ的背景について【斜めからのゲーム語り#4】



春うつら


新年あけましておめでとうございます🙃冬休みが終わり春休みが始まりました。年中無休のうろんなお客、ナバカリ博士です。

ぼー…
仕事は…ある……

春はいけませんね。ぼんやりします。死んだマグロが生きて歩いてるみたいになります。こんな時期にあれこれ始めないといけないなんて、人間は大変だなぁ。あーだるい。だるだるダルシムだるビッシュ。だるビッシュ無。

👧「目覚ませ」
🐧「ひょーっ」

こういうときエンジンをかけてくれるのがゲームですよ!
映画も音楽もいいけれど、自分で動かせるものがなにより脳を覚醒させてくれます。もちろんこの場合、サクッとできるやつね。さぁ、今日の目覚ましはアクションかな、レースかな、シューティングかな…

うむっ、ここは全編クライマックスの超スケール!!めくるめくシューティングの世界で意識の無限拡張と洒落こもうッッ!!!!

ふぉーっ
(てかswitch表裏逆じゃね?)
 
どうでもいいが昨今のnanobananaではアバターがやたら可愛くなってしまう
実際は妖怪です🤔

最初からクライマックス!最後まで超スケール!!


シューティングゲーム(以下STG)と一口に言っても、今や縦横スクロールの2Dから奥スクロールの3D、フライトシューティングにFPS/TPSまで、その幅は驚くほど広いものになっています。

しかし私にとってSTGと言ったら何を置いても2Dスクロール。それもアーケード全盛期のスペースオペラ全力展開系(そんな系統はない)シューティングです!

見よ!この素晴らしきイメージイラスト。

「グラディウス」イメージイラスト(Konami Digital Entertainment)
山本悠作(ゲームサイド編集部)編『シューティングゲームサイド Vol.0』
マイクロマガジン社、2011年、75頁より。
「グラディウスⅡ」~「ーⅣ」イメージイラスト(Konami Digital Entertainment)
同書、78,9頁より。
「ダライアス」シリーズイメージイラスト(TAITO)
同書114頁より。


あん?SF映画、SFアニメっぽい?甘い!アスパルテーム、スクラロースより甘い!これは映画やアニメでは到底再現不可能な世界!なぜならSTGは最初から最後までこのイメージそのものの中をひた走るのだから!

ええ、スターウォーズなら最初から最後までXウィングでデススター突撃シーンをやってるようなもんです。いや、それどころじゃない。大抵コイン入れる前(スタート押す前)からドンパチやってますし、ものによっちゃエンドクレジットでさえ戦ってますからね。まさに脳天から爪先まで全編クライマックス、ノン・ストップ・スペクタクル!!震えて燃え尽きる爽快ドラッグ!!潔く清々しいまでに華々しい、宇宙の果てまでイッテQュゥゥゥゥーーーッッ!!!

ここの店名ヤバイよね


……取り乱しました。

言って私も戦闘狂というわけではない。敵弾を搔い潜るいわゆる「弾幕系」はまったくできませんし、武装増強の裏ワザだってあればガンガン使います(シリーズの定型コマンド入れたら「馬鹿め🙃!」ってな感じで自爆するのもあったよね。ゆるさないよ)。さらに言えば、割と人のプレイを眺めているのも好きだったりします。なんとなれば私は、なにより「背景」に魅せられてSTGに手を伸ばした人間だから。

え?昔のSTGの背景なんてだいたい真っ黒で、あとは岩や壁があるくらいじゃないかって?バカヤロウがーーーッ!!!

見よ!たとえ黒背景が基調のシリーズでも、これほどに多彩な、謎と神秘に満ちた背景が存在するのだ!

「グラディウス」シリーズの背景。同書81-3頁。
もはやシリーズ第二の顔とも言えるモアイゾーン。
※ 超絶シリアスな作品だぞ!
(アーケードアーカイブスより)

そしてこの背景がまた、とにかくデカく、果てしない印象なのです。上のモアイを見てください。戦闘機大の自機に比してこの大きさ。このサイズの人工物やら生命体やらでいっぱいの空間が、上下左右に延々と連なっているのですよ!!そんな超スケールの舞台を一気に駆け抜ける娯楽など、そうそうありはしないでしょう!!

STGイメージ画像
設定やストーリーも当然超スケール!宇宙叙事詩!

宇宙×パノラマのシナジー


さて、STGにおけるこの超スケール体験には、設定以上に固定視点での強制スクロールというシステムそのものが大きく寄与していると思われます。だいぶ前置きが長くなりましたが、今回はこの点を斜めから掘り下げてみたいと思う次第です。

まず、以前RPGについて書いたこと(ゲーム語り#1)同様、見通しの制限された視点が、むしろ画面外の広がりを強く意識させるという点は押さえておくべきでしょう。

静止画でも画面外の世界が感じられる。
グラディウスシリーズでは左右への広がりに比べ「奥」の感覚が弱いが、この場面では砂丘の重なりによって奥行きも強調されている。
(アーケードアーカイブスより)

STGはこれにスクロールを加えることで、いわば疑似パノラマを提供しているのです。

もちろんそれは、大掛かりなパノラマ画には遠く及ばない小さなイリュージョン。しかしそれでいて、古くはナダールの空中撮影にも遡れる技術と空想との幸福な結合――世界認識をトランスパーソナルに拡張する魔術と幻想に、確かに連なる装置だということができます。

なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、そんな装置の中でも最も広く強く、人々の意識にうったえかけたものが今も現役で稼働しています。鉄道の車窓です。

ここで参考になるのは歴史家のヴォルフガング・シベルブシュの著書『鉄道旅行の歴史』。シベルブシュはこの書物で、平凡な土地景観が高速移動する車窓というフレームを通すことによって「審美的なもの」として再発見され、消費されるようになったことを指摘しました。

曰く、鉄道以前の旅行(徒歩と馬車)において人々は地形に沿って曲がりくねった道を行き、自然の肌理や匂い、細かな土地の起伏に至るまでを五感で受け取っていたのに対し、直線的なレールの上を行く汽車の旅では個々人の意志と無関係に、視覚的特徴のみを切り取られた風景が流れていく。鉄道時代の初期には専ら旅の風情の喪失として語られていたこの車窓のパノラマは、次第に動く絵画のような視覚的楽しみの対象として受容されるようになっていったといいます。


このことを美術史家の伊藤俊治は、シベルブシュの指摘を踏まえた上で次のようにまとめています。

このように何げない日常風景を別世界のように感じさせるのは、列車と線路というメカニズムの運動であり、実は機械装置のアンサンブルによる景色の変貌である。列車の〈運動〉は速度によって空間的な〈画像〉として置き換えられる。鉄道が風景を踊らせ、鉄道の運動と人間の眼との結合が新しい知覚を生み出しているのだ。言い換えれば、カメラのファインダーを覗きこむ眼のように、ある種のフィルターが見る者と風景の間に割り込み、見る者はフィルター越しに風景を新しく知覚することができる。大気の質を変えることなくガラスがあの水晶宮の内部を外部と分離するように、鉄道の速度は旅行者がその一部であった空間から彼を分かつ。列車内はもはやかつての意味での空間をやめた人造環境であり、自然環境から光と大気を切り離し、光と大気をあらたな状態に置き換えている。

伊藤俊治『ジオラマ論:「博物館」から「南島」へ』リブロポート、1986年、24頁。

さて、19世紀の車窓が近代人の視覚を「パノラマ消費型」に変えたとしたら、80-90年代の強制スクロールSTGはそれをデジタル+インタラクティブ+スペキュレイティブに超拡大、SFパノラマアドベンチャーとして昇華させています。これがゲームの側において、スケール演出の大幅なクオリティアップとして現れることになったというわけです。STGはいわば、すでに現代において受容可能となっているパノラマ的眺望とSF的想像力とを引き合わせ、双方の可能性を高め合う舞台を提供したと言うことができるでしょう!


パノラマの中を駆ける


パノラマ視点で展開するSTGの特徴をさらに詳しく整理してみましょう。 

・進行方向の未知性:プレイヤーはゲームの主体でありながら、自機の進む先を全く見通すことができません。一寸先は闇という状況の中、画面右端(または上端)から新たな敵や地形が次々に現れては消えていく。描画されている部分に尽きない世界の広がりを感じさせるとともに、未知への不安と期待が掻き立てられます。

・別方面の奥行き:進む先とは異なる一方向、すなわち画面奥に向かっては遠方まで眺望が与えられる。このとき描かれる風景はRPGのマップに登場するような省略・記号化されたものではなく、その世界の実際の眺めを意識したものとなります。これはスクロール式のアクションゲームとも共通の特徴ですが、STGではこれを高い視点と高速かつ自動のスクロールよって車窓=パノラマ化。パララックス(視差効果:遠いものほどゆっくり、近いものほど速く流れていく)スクロールが取り入れられた後には、いっそうリアルに広がりを感じさせるものとなりました。

イメージ画像(架空のSTG)
同上

・小さな自機と無名の主人公:この手のSTGにおける自機は広大な空間の中で、常にごく小さく表示されており、主人公となるべき人物(操縦者)に至っては基本的に描写されることがありません。どんな人間が乗っているのかについては全く言及されていなかったり(つまりプレイヤー=操縦者)、細部は想像に任されていることがほとんどです。人物が画面内に登場するのは大概異色作(『超兄貴』など)で、パイロットの人格に焦点が当たる場合でもセリフ枠の中に顔だけ表示されるといった具合(『エリア88』など)。このことによってプレイヤーは巨大な世界に投げ込まれた印象をいっそう強くすることになります。

・能動的な征服:それでいて根幹は当然ながら「ゲーム」。小さな自機が視界を所狭しと動き回る能動性が、広大なパノラマへ持ち込まれています。

流れる車窓にこんな想像を持ち込んだことのある人は多いはず。
STGはまさにこんな想像の具現化である。
(藤原カムイ『ROOTS』集英社、2010年、86-7頁)

能動的な旅から受動的なパノラマ消費への転換を経て、積極的な介入を前提とした能動的なパノラマの創造へ。これこそまさに科学技術によって失われた世界の、科学技術による再活性。世界から魔術性を奪った科学自身の手による、世界の再魔術化に他なりません!(言い過ぎか?)


人の尺度で見る虫の生 → 神の尺度で見る人の生


ところで、車窓=パノラマへの投影としてSTGを考えた場合、そこで能動的に活動する主体(自機)は、上に引用した藤原カムイ氏の「忍者」よりずっと小さな、虫ほどのサイズであることがほとんどです。

イメージ画像(架空のSTG)
大きな潜水艦でもせいぜいメダカサイズ。
『グラディウスⅢ』
車窓なら近くに来たバッタやトンボ程度だろう。
(アーケードアーカイブスより)

何のイマジネーションも働かなければ、こんなSTGなど流れる背景の中で虫ほどの「弾打つカーソル」をちまちま動かしているだけの戯れと映るでしょう。しかし一度想像力のスイッチが入れば、その虫けらほどの小さな自機の、さらに小さなコックピットの中へ自分自身が投影され、周囲のオブジェクトや背景が一気に恐ろしく巨大なものとして感覚されてきます。そしてそのときプレイヤーの視点=画面全域の眺めは、自分自身ではなく、よりメタ的な次元に手渡される。STGのプレイはそこで、超スケールの世界に挑む小さな自分を神の視点で操作する遊びと化すことになります。

3D表現が取り入れられた後にもこのスケール感は健在。
大洋に墜落したシリンダー型スペースコロニー内での戦闘。
傾いだ人工地盤には依然ビルが立ち並んでいる。その規模は100万人都市。
逆さになったビル群と水平線とのコラボは圧巻。
(『R-TYPE FINAL』)
こちらは縦スクロール、ファンタジー系のSTG。
冒頭、主人公がドラゴンに変身するシーンが挿入されており、自機のスケールが明示されている。なお右二枚に写っている自機はパワーアップして一回り大きくなっている。自機がこの大きさで遥か下方の怪物がそれに匹敵するサイズ。そんなのが雑魚としてウジャウジャ。ヤバイ世界。
(『ドラゴンスピリット』)
こちらも縦スクロール。SFファンタジーといった感じの世界観。
最初のステージ背景は写真右の高度から写真中央の高度(縮尺)へ進んでいく。
この時代のゲームで都市がそれなりにリアルな規模・面積で描画されることは少なかったため、筆者にはかなりのインパクトだった。
写真左は空中回廊に寄生したような集落をいくつも飛び越えていくステージ。
パララックス・スクロールで上の階層と下の階層の距離感が表現されている。
おそらくイメージソースは『天空の城ラピュタ』のスラッグ渓谷とラピュタ城なのだが、ステージ全体の風景を総合すると、それらを上回る規模の広がりが想像される。
(『Pop'nツインビー』)
これもツインビー。いっそうあからさまに『ラピュタ』感。
しかし建物ひしめく谷や無数の空中都市がパララックス・スクロールで流れていく様には素晴らしいスケール感があり、文句をつける気が失せてしまう。
他、腐海っぽいステージや異形の古代都市のようなステージにもどことなく宮崎駿の影響が感じられるが、そちらの方はほぼ独自の世界観に達している上、やはりスケール感も素晴らしく必見。
(『出たな!!ツインビー』)

そこで得られる体験は、まさに我々がSFの中で十全な想像力を働かせられたときのそれ。そう、つまりSTGとは、パノラマ的知覚の中に穿たれた、知る人ぞ知る意識拡張の窓なのであります!


ゼェゼェ。
うむ…。だいぶ突貫で、若干尻切れトンボな締めになったけれど、とりあえず言いたいことの大半は吐き出せた感。これ以上はそれぞれの作品語りになってしまいそうなので、ここらでひと区切りすることにしましょう。

ぼんやり、憂鬱な気分は、目の前の細々としたことや、自分のコンディションに意識が集中してしまうがために生じます。そのモードを切り替えるツールとして、ゲームというのは決して悪いもんではないと私は思うのですよ。

と、いうわけで、次なるモードチェンジツールをば……あっ、いたたっ、こら、何をする!あかーん!今取り上げられたらボンヤリが再発するよーっ。

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