【読書コラム】「私はあなたを知らないけど、あなたは私を知っているのね」実はドラマチックで面白い? 認知症になった家族と暮らすということ - 『時をかける老女 認知症の母を介護した1880日』中川右介(著)
タイトルでグッときて、本をジャケ買いすることがある。事前に内容をなにひとつ知らなくても、そういうとき、大抵いい本と出会えるものだ。
先日も『時をかける老女』に心を奪われた。
昭和の芸能史や野球史についての本を多数書かれる著者・中川右介さんによる介護日記。これまで一人で暮らしてきたお母様が認知症になり、91歳から一緒に生活するようになってからの出来事が綴られている。
普通だったら「大変」という言葉で語られることの多い認知症介護。もちろん、大変なことばかりではあるのだけど、著者は独自の視点でユーモアを見つけ出す。
それこそ、親戚が集まったとき、「あなたは誰?」と順番に聞いたと思ったら、そのまま最初に答えた人に戻って「あなたは誰?」が繰り返される無限ループに対し、
「ああ、時をかける老女だ」
とツッコミを入れたことから印象的なタイトルが生まれたという。不思議なもので、その一言によってすべてがコントと化してしまう。ボケがボケ役に変わるため、深刻さも和らぐ気がする。
感情は出来事の側ではなく、いつだって、それを見ているこちら側に存在している。余裕がないときは子どもの笑顔だって腹が立ってくるし、幸せなときは理不尽も華麗にスルーできる。
現代は忙しさが飽和し、AIで仕事量が減っても空いた時間で新しい仕事をしなきゃいけない無間地獄となっているので、望むと望まないとにかかわらず、みんな、余裕がなくなりがち。そんな中で終わりの見えない介護の負担はあまりに大きい。どうしたって追い詰められていく。
介護殺人。家族や同居者などを介護している人が、身体的および精神的なストレスや孤立感から、介護している相手を殺害してしまう事件のこと。近年、報道などで耳にする機会が増えている。その人のために頑張っていたことを考えると、やり切れないにもほどがある。そして、自分もそうなるんじゃないかと怖くなる。
本書の著者もそのことを絶えず意識していた。介護保険があったとしても出費はそうそうバカにできない。本業が慌ただしくなれば、自費でショートステイをお願いしなくちゃいけないこともある。これがあと何年続くかわからない。六十歳を超えた自分自身も歳をとっていく。できるだけコストを抑えようと思うのが自然である。そんなとき、「介護殺人」という言葉が脳裡を過ぎる。
そんな不安の広がりに抗う手段として、ユーモアが武器になる。というか、ユーモアなしではやってられないという開き直りがこの本の魅力であり、いま、苦しんでいる人たちへのエールのように感じられた。
例えば、以下のようなやり取りも「なに言ってんの?」と注意するのは簡単だけど、受け手次第で漫才みたいになってしまう。
「冒険してみたいんだけど」
朝食後、突然、思い詰めたように言う。女子高校生なら冒険したいのも分かるが、九一歳で何の冒険?
今日はデイサービスがない。そこで、近所を歩いてまわりたいという。デイサービスの送迎は毎日、順路が違うらしく、周辺のことがよく分からない。それを自分で確かめたいというのが冒険の目的。
「帰ってこれるの?」
「道が分からなくなったら、帰ってくるから」
「分からなくなったら、帰れないでしょう」
ふふっとなるよね。実際の空気はともかく、楽しい時間として解釈可能になるのが素晴らしい。
他にも、お母様はアニメ『ドラえもん』が好きでよく見ていたようなのだが、それに関するエピソードもよかった。
ドラえもんの日めくりに、「のび太の誕生日」とあり、その説明に苦労した。
「のび太って誰?」「この男の子」
「マンガでしょう。マンガの子に誕生日なんかあるの?」「そういう設定なの」
「祝わないといけないの?」「べつに」
「でも、書いてあるんだから、なにかしなければいけないんじゃないの」「祝いたければ祝えば」
「知らない子の誕生日は祝わないわよ」「毎週、土曜日にテレビで見てるでしょう」
ちなみにこの会話は三回繰り返されたそうだ。のび太というキャラクターのことは忘れているのに、それ以外の思考はすべて理に適っているので癖になる。何回同じこと聞くの! とイライラすることもできるけど、間違ってはいないという受け止め方をした途端、微笑ましくなってくる。
同時に、著者はドラマティックな会話も見逃さない。
夜は二一時頃、起きてくる。私をじっと見て、「あなた、誰?」
「右介、あなたの息子」「私が産んだ子なのね。私はあなたを知らないけど、あなたは私を知っているのね」
「知ってるよ」「なら、安心ね。寝ます」
母親の愛があふれている。あなたが私の息子と言うのなら、それで安心できるという絶対性。もしかして認知症とは失ってばかりではなく、わたしたちが手に入らない自由や安らぎを得ているんじゃないか? と思わずにいられない。
自らの死についても達観していた。
午後からショートステイのため、デイサービスは休み。
コンビニにカラープリントをしに行く。一〇分もかからなかったが、戻ると、
「ああ、いたのね。誰もいないから、私、いよいよ死んだのかと思った」
つまり、世界から誰もいなくなり、これは自分が死んだからだ、という思考。
「まだ、生きてるよ」
「もう、死んだのかと思い、どうしようと思った。まだ、生きていていいのね」
これはある個人の話なので、誰もがそうなるとは限らないのは当然だし、そもそも認知症という言い方も総称に過ぎず、単純化できないとわかってはいる。わかってはいるが、そういうこともあると知るだけで、人は、希望を持てるようになるというのも真実。『時をかける老女』には希望が詰まっていた。
その上で著者が誠実なのは介護の闇とされる部分も書いている点。特に菅直人元首相との交流についても明かし、政治的スタンスを示しつつ、現行の社会システムに思うことを利用者視点で述べているのがフェアだった。
うちの祖母も80歳を過ぎ、徐々に認知機能が落ちてきている。以前、記事にもまとめた脚の痛みから緊急入院した際、要介護2の認定を受けるなど、この本を読みながら重なることもいくつかあった。
いまは母が祖母と暮らしているが、ケアマネさんやソーシャルワーカーさんの話はわたしも聞くようにしている。症状の進み方、こんなに早いのかって毎回驚く。
まだ、祖母はわたしを覚えているが、いつ忘れられてもおかしくはない。
うちは祖父も認知症になり、当時、小学生だったわたしは自分の存在を完全に忘れられ、けっこうショックだった経験がある。一応、祖父から可愛がってもらっていたので、なんで? と理解できなかった。
ちなみに、三十歳になったとき、そのことも振り返り書いた小説をとりあえず発信しようというところから、わたしはこのnoteアカウントを本格的に運用し始めた。『娘帰る』というマガジンで、いまも読めるので、よかったらぜひ。
閑話休題。そんなわけなので、祖母に忘れられることが不安だった。でも、今回、『時をかける老女』を読み、不安になるようなことではないのかもしれないと余裕が持てた。祖父のことも、いまなら違う見方をできる気がする。
そう。時をかけているのだと思えば、認知症という重い響きが軽やかに聞こえてくる。客観的に妥当じゃなかったとしても、主観的に救われる。
むしろ、わたしも時をかけたい。
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