【連載第2回】一日の生活ルーティン改造計画・特別編:阿頼耶識を調べようとしたら2
私なんていないし、カルマは溜まるし。
さて、今日はちょっとばかり頭が痛くなるような、でも知ってみるとなかなか面白い「仏教」の話をしようと思う。
※今回のお話は長くなってしまったので「目次」を作りました。
愛読書の『神秘思想 光と闇の前史』という本をめくっていくと、やがて仏教の解説へと話が進んでいくのだが、これが知れば知るほど実によくできているので感心してしまうのだ。
そもそも仏教の言う「私がない(無我)」とは、一体どういうことなのか。
仏教の偉いお坊さんたちが言う「縁起(えんぎ)」だの「諸行無常(しょぎょうむじょう)」だのという教えは、要するに「この世のものはぜーんぶお互いに寄りかかって繋がっていて、しかもコロコロと形を変えていくんだよ」ということらしい。
だから人間、悲しいかな年は取るし、いつかは死ぬ。
1分前の私といまの私だって、厳密に言えばまったくの別人だというのだ。
それなのに私たちは「これこそが私! 私のもの!」と必死に幻にしがみつき、ああだこうだと煩悩(ぼんのう)に振り回されて、毎日せわしなく生きている。
永遠に変わらない絶対的な『私』なんて、実はこの世界のどこを探してもいないのだ。これを「諸法無我(しょほうむが)」と呼ぶらしい。まったく、仏様もシビアなことを言うものである。
これ、スマホで考えてみるとすごく分かりやすい。
スマホは画面のガラス、カメラ、CPU、メモリなんていう色々な部品の寄せ集めでできている。「カメラ単体」がスマホなわけではないし、「電話機能だけ」を取り出してスマホと呼ぶわけでもない。
全部の部品がたまたま揃っているその「全体」を見て、私たちは初めて「スマホじゃん」と認識しているだけなのだ。
「五蘊(ごうん)」
人間もこれとまったく同じで、「五蘊(ごうん)」という5つのパーツが、たまたまガチャンと寄せ集まっているだけなのだという。
これがまた、ひとつひとつが実にお固い漢字のオンパレードで、見るだけで脳みそのシャッターを下ろしたくなるような顔ぶれなのだ。
まず「色(しき)」というパーツがある。
これは私のこのわがままな肉体をはじめとする、目に見える物質のことらしい。
そこに、外からの刺激をキャッチして「あ、これいいな」とか「うわ、嫌だな」と感じる心のセンサーである「受(じゅ)」がくっつく。
さらに、頭の中で「あのラーメン、美味しそうだなァ」などとイメージを思い浮かべる「想(そう)」というお調子者のパーツが加わる。
「よし、絶対に食べてやるぞ!」と不穏な決意を固める「行(ぎょう)」という意志のパーツが動き出す。
そして最後に、「これは間違いなく、業務スーパーの30円のうどんではなく、行列のできる専門店の特製チャーシュー麺である」とパキッと識別する「識(しき)」という認識のパーツが全体をまとめているのだ。
・・・なんだか漢字のテストに追われているようで実にややこしいが、要するにこの5つのヘンテコな部品が、そのへんでたまたまセットになってウロウロ動いているだけの状態を、私たちは「これが私だ」と思い込んでいるらしい。
どこをどうひっくり返して探してみても、「私」という確固たる中身が入っているわけではないのだ。
まるでお菓子の綺麗な缶箱を開けたら、中には仕切りの段ボールと包み紙が入っているだけで、肝心の特大クッキーは最初から入っていなかった、みたいな拍子抜けする話である。
「私が、私が」と思っているのは、ただ物に対する「執着」が見せている錯覚らしい。
だから、その執着をポイッと捨ててしまえば「私」という錯覚も消え去り、永遠の苦しみから解放されるというわけだ。
これ、よく考えてみると日々の生活に結構使えるんじゃないかと思う。
たとえば誰かに悪口を言われたって、「ん? けなされた『私』なんてそもそもいないし」と思えば腹も立たない。
他人を自分の思い通りにコントロールしようなんていうのもおこがましい話だ。
釈迦おじさんに言わせれば「『私自身』すら所有できないのに、他人が所有できるわけないじゃない。すべては流れていくものなのにねぇ」と笑われてしまいそうである。
何より、ダイエットに最適だ。
「あー!お腹減った!ラーメン食べたい!」と猛烈な煩悩が湧いてきたら、すかさず心の中で唱えるのだ。
「しょせんラーメンは私のものではない・・・そして、この胃袋すら私のものではないのだ・・・すべてはただ繋がっているだけ・・・」と。
これで食欲がスッと消えればしめたものである(消えるかどうかは別として)。
こうやっていきなり欲望をぜんぶ滅して苦しみを消し去るのはさすがに難しい。
「八正道(はっしょうどう)」
だから、それを日々の暮らしの中でなんとか日常化していこうじゃないか、という教えがある。それが有名な「中道(ちゅうどう)・八正道(はっしょうどう)」というやつだ。
これがまた、学校の校則をさらにガチガチにしたような、実に耳の痛い「正しいことリスト」なのである。
まず、物事を正しく見つめる「正見(しょうけん)」から始まる。
正しい考え方をする「正思惟(しょうしゆい)」。
嘘を言わない「正語(しょうご)」。
ちゃんとしたおこないをする「正業(しょうごう)」と続く。
さらに、まっとうな仕事で暮らす「正命(しょうみょう)」。
正しい方向へ努力する「正精進(しょうしょうじん)」。
いつでも正しい気配りをする「正念(しょうねん)」。
そして最後は心をパキッと集中させる「正定(しょうじょう)」・・・
・・・ううむ、上から下まで見事なまでに「正しい」のオンパレードで、ズボラな私なんかは読んでいるだけで息が詰まり、頭の芯がクラクラしてしまいそうだ。
まるで、お盆休みの宿題を初日から最終日まで一分の狂いもなくキッチリ片付けなさい、と真顔で言われているようなトホホな気分になってくる。
だが、これだけ漢字を並べ立てておどかしてはいるけれど、要するに仏様は「何事も偏らずに、ちゃんとした正しいルーティンで毎日をハッピーに過ごそうじゃないか」という、至極ごもっともな生活改善のすすめを説いているだけなのだろう。
しかし、ここでふと、おまけの疑問が湧いてくる。
「不滅の魂(アートマン)」なんてないと言うなら、一体何が「輪廻転生(生まれ変わり)」をしているというのか。
魂がないなら輪廻もしないはずなのに、仏教にはちゃんと輪廻の話がある。ううむ、実におかしい。「私」という固定の乗り物はないのに、中身のデータだけが勝手に転送されていくようなものだろうか。
しかも、神秘思想の本のくせに、初期の仏教の教えは完璧に理詰めの哲学で、ちっとも神秘的じゃないではないか。
さらに大きな問題は、「そんな八正道みたいな修行、私たち一般人にできるの?」ということである。
答えは非情にも「できない」だ。
なぜなら、当時の仏教は徹底した出家主義。
ブラック企業やらややこしい人間関係やら、面倒な俗世をぜんぶ捨てて「出家」するしか、完全に覚醒する方法はないらしいのだ。
私たちが悟りの境地「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」に達するなんて、まあ無理な話なのである。
「因果応報(いんがおうほう)」と「カルマ(業)」。
仏教の解説に出てくるこのふたつの言葉は、文字で見ると何だかおどろおどろしいお説教のようだが、実は切っても切れないお仲間同士なのだ。
仏教の世界には、私たちが何かアクションを起こすたびに「カルマ(業)」という謎のポイントのようなものが、チャリンチャリンと心の後ろ側に溜まっていく、不思議なシステムがあるらしい。
カルマというと、なんだかインドのカレーのスパイスか何かのようによく耳にする言葉だが、別に「悪いことをしたからバチが当たる」というような怖い話ではないのだ。
本来は良くも悪くもない、実になんでもない「ただの行動のエネルギー」のことなのである。
つまり、魂という「固定された不変のパーツ」はないけれど、カルマという「エネルギーの流れ(勢い)」だけが次の生へと引き継がれていく。これこそが、仏教が考える輪廻の正体らしいのだ。
私たちが何かを喋ったり、何かを考えたり、あるいは体を動かしたりするたびに、このカルマというタネが心にどんどん蒔かれていく。
そして、それを自動で回収する「因果応報(いんがおうほう)」という、なんとも逃げ隠れできない恐ろしい連動システムが待ち構えているのだ。
これは科学の世界で言う「作用・反作用」みたいなもので、蒔いたタネはいつか必ず、良いことなり悪いことなりの「結果」として芽を出し、自分にブーメランのように返ってくるという、実にシンプルな原因と結果のルールなのである。
例えば、朝からうら若き乙女のピンチを救うために、必殺のヨガソックスを履いて2.5メートルの門をよじ登る、なんていう健気なおこないをすれば、そこには「良いカルマ」がチャリンと溜まる。
※いきなり、なんの話?ってなった方は下の記事をお読みくださいね!
すると因果応報のシステムが働いて、男の面子が保たれて一日中すこぶるハッピーになれたり、その日のルーティンがやけにパキッとこなせたり、業務スーパーの30円うどんが格別に美味しく感じられたりするハッピーな現象が引き寄せられるのだ。
だが逆に、「あー、めんどくさいなぁ」と煩悩を爆発させて部屋の掃除をサボり、怠惰にゴロゴロ過ごしていると、今度は「トホホなカルマ」が溜まっていく。
すると数日後、自分が脱ぎ散らかした靴下に足をとられて派手にすっ転ぶ、なんていうマヌケな悲劇に見舞われたりするのだから油断も隙もない。
しかも厄介なことに、このシステムは「やったその場」で速やかに結果が出るとは限らない。
忘れた頃に現世で返ってくるかもしれないし、あろうことか来世にまで持ち越されて忘れた頃にツケが回ってくるかもしれないというのだから、実に気の長い話である。
おまけに原始仏教のガチな教えによると、何かをすればするほどこのカルマがどんどん発生して生まれ変わりの輪廻(りんね)から抜け出せなくなるから、究極の理想は「瞑想でもして、できるだけ何もしないでじっとしていること」らしい。
・・・おいおい、それじゃあまるで、夏休みの宿題を増やしたくないからといって、部屋の隅で一歩も動かずにじっと息を潜めている小学生のようではないか。
何もするなと言われても、私たちは生きていくために、うどんも食べなきゃいけないし、ウォーキングだってしたいのだから、そんな仙人のような生活はとてもじゃないが無理な話である。
要するに「自分が蒔いたタネは、自分で刈り取らなきゃいけないんだよ」という、ぐうの音も出ないほどごもっともな自然のルールなのだ。
どうせ目に見えない行動の足跡が残るのなら、ドタバタと無駄な悪あがきをしてトホホなカルマを溜めるより、日頃から余計な悪巧みはせず、お気楽に早歩きでもしながら、なるべくキレイな足跡を残していくのが一番の防衛策なのかもしれないねぇ。
さあ、困った。動けばカルマが溜まるし、かといって今さら山にこもって出家なんてできるわけがない。私たちはいったい全体、どうすればいいのだろう。
やっぱり、家でゆるゆると「ずぼらヨガ」でもしてチャクラをいじってみるか、西洋魔術にでも頼るしかないのかもしれない(お試しの際は自己責任でお願いしたいが)。
そんな小難しい哲学を頭の片隅で考えながら、今日のお昼は、レタス・ワカメ・卵2個を入れたインスタントラーメンを平らげた。
実にスタミナ満点、すこぶる元気である。
カルマがどうとか言いながら、しっかり食欲という煩悩を満たしているのだから世話はない。
でも、あの怠惰だった私が、こんな風に美味しくご飯を食べられて体の調子が良いのも、ひとえに「ウォーキング」という「良いカルマ(善業)を積んでいる」おかげなのである。
こればかりは本当にやめられない。
皆さまも、カルマだ無我だと難しく考えすぎず、まずは気軽な「散歩がてらの早歩き」あたりから始めてみるのをおすすめする。
ラーメンも胃袋も、しょせんはただのパーツの寄せ集めなのだから、気楽にいこうじゃないか。
つづく。
次回は三蔵法師が持ってきちゃった・・・
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