愛は負債に変わる?
春の日差しになりたいライフコーチのなほです。
私は私のままでいい。ちゃんとあるから委ねてみて。
私の中にふかふかベッドはあるし、今日も光を放ちます。
愛がしんどいと感じられることはありますか?
煩わしかったり、大きかったり、愛だと分かっていても振り払いたくなることはありますか?
ちょっと重た過ぎるなと疲れてしまうことがあるけど、それは自分の調子が悪いからそう感じるだけ。
愛の表現が自分とはちょっと違うんだなって受けとめる。
いろんな場合があるのかなと想像します。
責任を持たされた時と、愛に気づいてしまった時。
この2つの感覚がとても「近い」と私は思いました。
父親から、「支えになって欲しい」と言われた時と、相手が私に深い愛を向けてくれているんだと気づいてしまった時です。
愛と責任って対極にあるのに、なんで?
全然、中身違うよね?
重さという意味では同じように私は感じたかもしれないけど、温度は違うのでは?
と思っていて、ここまでに整理したのは、
①準備のない所に急に現れた
②大き過ぎる
③今すぐに持つ、受けとらなきゃ
④一部だけ、受けとらないの選択はなく「全量」を1人で
って思っていた。
けれど、「愛」と「責任」そのものが私にとっては近いものだった。
愛が負債に変換される。
文字で見たらまあまあ恐いけど、そう言われたらそんなこと起きてたんだねって理解が進んだ。
愛を受けとるのが難しいについてAIと話した時に気づいたこと。
愛を受けとる時、私は返すことが前提の世界に住んでいる。
だから、返せないほどの深さに気づいた時、それは借り物で負債に変わる。
返せる場合も、その中身に行動が伴わないと納得できない。
愛は贈り物で、返さなくてもいい。
私の価値を私が信じることが土台。
返すことが前提の私
基本的に、愛に限らず私は受けとる場合は相手に何かを返さなければと思っている。
対等でいたいって思う私もいるので、同じ量を交換できているのが私にとっての安心。
または、私が多く渡す。
これも「私は愛に足る存在か」と同じことで、自分に価値があるとあんまり信じられていないに由来するもの。
(これが核心だけど、考える力をたくさん使いそうなので、そっとしています)
だから、返せるものがないと焦る。
お金を払っていたり、交換だったりすると安心できるけれど、一方的に与えてもらうという状況が苦手です。
だから、頼るが苦手にもつながるんだよね…。
「返せる時に返してもらったらいいんだよ、また他の誰かに返してあげてね」って循環することを教えてもらった時も、頭では分かりますけど…となっていたように思います。
何か私に返せるものはあるでしょうか?
ってなるので、しばしば私は相手にストレートに聞くことがあります。
安心したいし、焦っているし、それが私の誠実さでもあるからです。
「私にできることってありますか?」と尋ねます。
「そこにいるだけでもう返せている」、と返された時「え?」って思いました。
うまく処理できない…。
よく分かんないけど、一応返事をしたと思います。
それでいいの?という疑問は残したままって感じです。
「受けとる」と「返す」はセット
これもあんまり分かっていなかった。
私にとって、受けとることはそれだけで完結してなくて、受けとると同時に何かを返す。
返せることで、私は自分のバランスを保っている。
そして、「ありがとう」だけでは返したにカウントされていないことがある。
だから、純粋に受けとるのが私には難しいことになっているらしい。
なるほど感ありまくりでした。
純粋に相手の愛に報いたい気持ちもあるけれど、私のために返すが存在している。私が揺らがないために返したい。
返すの中身が多分厳しい
「ありがとう」の言葉だけでは足りていないかもと感じることがある。
私が返せるものを全力で返さないとの匂いがします。
相手が喜ぶものでなければならない。
だから、そこにいるだけでいい、みたいなことは戸惑いでしかない。
行動を伴わない返すは、私にはピンとこない。
受けとることそのものが、もう返していることだ、というのも他人事としては分かる気がします。
自分が何かを贈る時、受けとってもらえたらそれだけでいいって思うことがある。
何かを返してよってならない。
自己満足というか、そういう贈れる相手がいるだけで幸せだと思う。
愛は贈り物ではなく借り物
なるほど!って感じです。
本来、贈り物であると私も思う。
けれど、深すぎるって、大き過ぎるって気づいてしまった私は、返せないって感じていて、返せない=借金で負債に変わる。
私が変えてしまう。
受けとるかどうかですら選ばせてもらっている。
けれど、私には受けとらないの選択肢がそもそもなかった。
相手から差し出されたものはちゃんと受けとるものって思ってた。
しかも、受けとる時は「全量モード」しかなかった。
少しだけ、受けとれる分だけ受けとるも出来なかった。
だから、受けとったら返さないとだし、返せないのは迷惑をかけること。
それは、負担が大き過ぎたんだと思います。
心のエネルギーがない状態だったタイミングでそれは、もうどうしたらいいの?になる。
感覚が近かったのはなぜか
贈り物であるはずの愛が大きくて深すぎた。
そして、誰かとの関係性において持たされる、渡されたという状況が類似していた。
相手から私に渡された。
大き過ぎるものだった。
全部を受けとらなければ。
整理したような共通点が重なった結果、責任を持たされた時と、愛を私に向けてくれていると気づいてしまった時の感覚が近いと認識された。
実際には返さなくてもいい可能性
私は、返さなきゃって思っているけれど、自分に置き換えたら、もう受けとってもらえるだけでいいよっていうことがある。
「ありがとう」っていう言葉だけでいいことも全然ある。
だから、とんでもなく深い愛を向けてもらっている。
それに気づいてしまった訳だけど、返さなきゃって思わなくていいかもしれなくて、何かを返してほしいっておそらく思われていない。
「そこにいるだけでいい」、って伝えてもらっている。
私の世界の理であって、これがみんなの世界の理じゃない。
愛は贈り物で、返さなくていい贈り物。
ここに、私の存在の価値をあんまり信じられていないがあるから、何かを出来る、役に立つ私でいなきゃの思考回路が働いて、返さなきゃの流れに乗るが起きている。
返さなきゃなのに、返せないが起きると、愛を負債に、重いものに変えてしまう。
まとめ
愛は素敵なあたたかい気持ちでギフト。
それが負債に変わるってめちゃくちゃ面白い気づきでした!
責任と同じような質感の重たさを感じるものに変容させていた。
せっかくあたたかい気持ちを贈ってもらっているのに、「返せません」ってなった途端に、借り物で負債に変えている。
受けとるのも難しくなる。
書いてみたら、だいぶ失礼なことをしているよね…。
「この愛に見合うものを返して下さい」って言われていないのに。
単純にそんなに大きな愛にふれたことがなくて戸惑っているもあったと思うけれど、恐いは「返せない」ってなって、ただただ迷惑をかける未来しか描けなかったからもあるのかもなって思いました。
しかも、私は愛に足る存在ではないと思ってるし、すぐに全部を受けとるの全量モードが基本設定だった。
受けとれる分だけでいいし、全部を受けとってって言われてないのにね。
「愛に近づくのが恐い」を切り口に考えみているけど、
いろんな私の見ている世界、持っている課題?信念が絡み合った上での「愛が恐い」の言葉になっているんだなって思いました。
愛を受けとるの再定義をしてみる
受けとるだけで、返せている。
そもそも返すという前提をゆるめる。
行動を伴う全力で返さなければをゆるめるが必要。
愛は返すじゃなくて、循環かもよ?分かち合うって捉えたらどう?
返せないほど大きくても受けとってもいい。
負債じゃなくて贈り物。
受けとる=抱えるじゃなくて、一緒に遊ぶ、冒険すること。
未完成の私のままで受けとっていい。
受けとるもだけど、どんな私としてもいていい(これはちょっと難しそう)。
愛はふれるもので、言葉や喜びを分かち合う、それも遊ぶようにふれるもの。今の私が開ける分だけでふれていい。
もともとの愛のイメージが私にとっては軽いものじゃなくて重いものだったのだと思います。軽く扱えないって思ってた。
けれど、もっと軽やかにふれるものだ。
愛の形を探している私が、ちょっぴり愛について探求した話でした!
この記事が少しでも役に立った!面白かった!と思ったら、ぜひ『スキ』ボタンで応援してください(ログインなしでOK)。
あなたの愛の受けとり方もコメントで教えてもらえると、とても嬉しいです!
私にある愛にふれた時は、「愛を受けとったよ」って教えてもらえると助かります。
これからも私の「愛って何?」についてたまに書いていくので、フォローして楽しみにしていて下さいね。
読んで頂き、ありがとうございました!
親子関係をテーマにしたnoteは、こちらにまとめています。
いいなと思ったら応援しよう!
あなたと私の間に愛が循環していきますように。いただいたチップは、私が健やかに生きられるようにチョコ次郎を買うために使わせて頂きます。