「ことばにいのちがある」が分からない私が、その手ざわりに近づく試み。―これは哲学なの?
言葉にいのちがあるのは、当たり前のような気もするけど、私が感じている質感や次元とちがう。
冬の静けさと灯りになりたいライフコーチのなほです。
剥がれては還り、ころん、と生きる。
きらきらしたら、ぷかぷかに戻るリズムの中で、私のままで、もうすべてそろってる。
「言葉は生きてる」「体感知を伴って分かった」という話を聞きました。
▽コーチのsyotaroさんのYouTube動画で聞かせてもらったよ
ご興味があればぜひご覧くださいね。
「言葉が生きている」と分かった日―世界の見え方が変わった瞬間
あるよね、いのち。
あなたは言葉に宿るいのちをどんな時に感じる?
名前を呼ばれた時。
やわらかい言葉を掛けられた時。
大好きな人の発する言葉。
歌を聴いた時。
私は、自分の言葉というよりも、「この人の言葉にはいのちがある」と感じたことを思い出しました。
私が分かる、理解した、腑に落ちたにまったくなっていないので、いつもなら、こういうことだと学んだ、という視点で書くのですが、ふれた世界を呼び水に思索する。
言葉が好きだから、考えてみたくなっていて近づきたいのだ。
哲学?と書いてて思った。
思考の庭のnote。分かりにくい所はそっと風のように通り過ぎさせてみて下さいね。
【表記について】
ことばにいのちがある:平仮名表記は、呼び水にしたお話を聞かせてもらった方の概念
言葉にいのちがある:漢字表記は、私が思う概念
「ましろさんの言葉にはいのちがある」って感じたことを切り口に、今まで教えてもらったことを振り返りながら、ちがいに着目し自由に思考を飛ばしてみた記録。
言葉の可能性を私は今まで出会った人たちから開かせてもらってきた。
言葉はその瞬間にしか生まれない言葉がある。
ましろさんの言葉
私は、『照らす手紙』というマガジンを作っていて、そこに書いたことを思い出した。
無敵の趣味で遊びの大好きな人に宛てた手紙。
ましろさんの言葉は、息をして静かにうごめいている感じを受けるんだよね。生きている。
それを私は有機的につながる、無機質じゃない、と表現している。
言葉だけで世界が構築されていて、意味を求める、伝える世界じゃないんだよね。
ましろさんの言葉にふれる時、鑑賞する感じもあって、美術品やアートに近い。
うっとりする感覚。
私は好奇心が思わず振り切れてしまった結果、理解しようとしちゃって質問してしまった(意志疎通のためのツールとしての言葉)。
ちがう、ましろさんの言葉は感じるためにあるんだった!って思ったことがある。
私の失態。
だけど、もっとその世界を知りたいってなるの。
きらきらしちゃう。
「ことばにいのちがある」と言われて、真っ先に思い出したのがましろさんの言葉。
ましろさんの言葉にもっとふれられる場所があったらいいのになって思う。
ましろワールドにふれたいのだ。
病みつきになっちゃうよ!
書かれた言葉も、話して紡がれる言葉も両方私は大好きだ。
「ましろさんの言葉にいのちがある」は、いわゆる意味の方、言葉の機能を捨ててもなおそこにある美しさがあって、そこにいのちがあるように感じるんだと思う。
もちろん意味も含めた上で、めっちゃ面白い世界なんだけどね!
ましろさんの言葉が好きな人と私はきっと気が合うから、友だちになれる。
私にとっての言葉のいのち
私は、「言葉は友だち」って思っている。
仲良しの子もいれば、ちょっとまだ距離がある感じの子もいる。
そして、友だちになれている言葉だけを使いたいなぁと思っている。
私は、そう思う時にかたまりで捉えていたことに気づいた。
ひ と も じ ひ と も じ に、
いのちがある。
という話を聞いて、
私は単語単位で、またはもっと長い文章として言葉を捉えている。
ひともじで意味を為す日本語が少ないことも関係していると思う。
そして、「ことばにいのちがある」の私が考えるいのちと、ちがうからだ。
私が書く、話す言葉にもいのちはあると思うけれど、私と言葉のつながりが薄いのがちがうのかな?と思った。
本を書く人が、その作品を子どものように感じること、生み出すという言葉もある。
けれど、私の分身感が薄くて、確かに私が発したものだけど、距離が生まれる。
距離が生まれるのは、思考を通っているからで、どう受けとられるかを考えていて、届けたい人のことを考えているからだ、と思う。
私は、そこまで届けたい相手を重視していなくて、一番は自分のために書いているけれど、私以外の人に伝わることは頭に置いている。
「思考せず話せるようになった」
という言葉もあったから、関係していると思う。
脊髄反射、または手に任せて書くに近いことなんだろうか?と思ったから出しておく。感覚としては近そうに思う。
思考するために言葉を使っていて、伝えるという目的のために、言葉を発したり書いたりする。
受信側のことを考える。
そこから自由になることなんだろうなーと想像する。
迎合しないということ?
自然体の自分のままで言葉が出てくるということか。
伝わるようにと、迎合しないはまた別の話だと思うけれど、無意識に相手の反応を受けとることによって、自分の言葉が変わるということが起きなくなる、ということか。
自分からナチュラルに生まれてきた言葉には、いのちが宿ってるが分かる。
「純度100%の言葉だ」というのが確信?核心?を持って分かる。
私は、言葉を1つの独立した人格みたいに思っていて、「言葉にいのちがある」と私が言う時に指している言葉は、すでにそこに存在している言葉に対しての比重が高い。
「すべてのものに、いのちが宿る」、八百万の神の日本の思想に近い感じで、船にもいのちがあるし、ぬいぐるみにもいのちがあるように私は思っている。アニミズム。
その延長線上で、言葉という物体としての質量のないものにも、いのちがあると考えている。
書いてみて整理された。
そんな感じが一番近い。
だから、やっぱり独立している感があって、そこにどこかからスッといのちが宿る感もある。
言葉を発した人が命を吹き込んでいるのはしっくりくるけれど、同時にいつの間にかいのちが宿るみたいな感覚も持っている。
「ことばにいのちがある」と表現する時、吹き込むではないんだろうな、と思った。
言葉にのるエネルギー
これは以前の学びだけど、「言葉にのるエネルギーがあるとすれば、100を100のままで伝えられるように心がけていると」教えてもらったことがある。
このイメージは分かりやすくて、いのちとも近いことだと思う。
エネルギーを言葉に変換していて、変換する時にエネルギーが減っちゃうことがあるんだよって教えてもらった。
何らかの意図が働いたり、自信がなかったりみたいな自分の状態などいろんなことが関係して、出力する時に減っちゃうんだよって。
自分のエネルギーを言葉にのせて伝える。
だけど、「のせる」ですらなくなることなのかな?と思った。
漠然とイメージされたのは、私のいのちのエネルギーが小さく分裂してちぎれて、それがそのまま言葉になる、姿を変えた場合、「ことばにいのちがある」になるのかな、ということ。
言葉という器にのせたり、変換したりという過程がなくて、そのままいのちのエネルギーが変身するみたいな。
だから、小さな自分の分身。
言葉は自分自身
この言葉をさらに前に私は聞いていて、心に残っていた。
私を作るものではあるけれど、そこまでの近さを私は言葉に感じていなかったからだと思う。
一要素ではあるけれど、自分自身というのは、言い過ぎではないか?という気持ちがあったから、心に残るで、引っ掛かりを覚えていた。
思考するのに言葉をかなり使っている人間なので、言葉をツールとして活用している。
「言葉によって世界が成り立っている」、というのもまた真なりとも思っている。
言葉がなかったというか、奪っていたから実際に私の世界は愛がない状態で成り立っていたし…。
言葉は私にとって大事な存在で、
もしもひとつずつ私から言葉が失われるなら、この言葉を最後まで残してほしいなぁ、と考えたことがある、ちょい狂っている人間です笑
文章に人柄が現れるという感じともまたちがうことを指すように思う。
「私が書いたと分かる」と文章に私が出ていると言ってもらうことがあるけど、自分ではあまり分からない。
「ことばにいのちがある」とは、人柄よりももっと根底にある、私やいのちが言葉にある、ということだと思う。
空也上人
ひ と も じ ひ と も じ に、いのちがある。
から、私が思ったのが小人。
小人から着想が飛んで行ったのが、空也上人。
「ことばにいのちがある」が分かった、という話で話されていたのは、空也上人の「南無阿弥陀仏」の感じに近いのかなぁ、と思った。
口から仏様がまさにひともじに1体ずつ生まれているから。
教科書で見たことありませんか?
口から小さな仏様が出てきている像。
けっこうシュールなビジュアルだったから印象的だよね?
あの感じと、「ことばにいのちがある」のイメージとしては近いのでは?と思考が飛んで行った。
信心?の心、念仏を唱える時に言葉になっているのは、まさに空也上人のいのちそのものなのでは?という感じは、宗教という世界と合わさると、とても分かりやすいような気がする。
いのちそのものが言葉に変身している。
言葉はどうやって生まれるの?
これは動画でお話しされていたのですが、分かるように思いました。
その瞬間のあらゆるものが統合されて生まれる。
自分の状態、環境、時間、場所など。
どんな音が聞こえるのか、お腹が空いているのか、深夜なのか、慣れた自分の部屋にいるのか。
言葉というよりも、「そのひともじ」が生まれるんだよ、という感じだったので、音としての言葉という側面が強いのかな?とも感じました。
同じ瞬間というのはないから、「その時の言葉との出会いとの楽しみ」という感じのことも話されていて、人と話していて同じ瞬間というのはないけれど、言葉との出会いもまた、本当にその時にしかないんだ、ということに気づかされた。
一期一会ならぬ一語一会?
何が変わるの?
言葉が変わるは、コミュニケーションが変わる。
どんな人とでもどんな状況でも動じなくなる、ということだと受けとりました。
相手に合わせるということも、どうしてもよぎるけれど、自分のまんまでいられるようになる。
純粋で自然なコミュニケーションがとれるようになる=素直、と表現されていた。
コミュニケーションの感覚がまるで別ものだ、と感覚を表現されていて、相手にどう思われる?という思考や状況に合わせるような外的要素が消えることでノイズみたいなものがなくなるのかな?と思った。
結局、どう思われる?ということ自体が思考を経ているから、そこを通らずにそのまま言葉になるのは、純度が上がると言えそうだ。
自分が澄んでいくから、不純が分かるということにもふれていて、確かに澄めば澄むほど、濁りやくもりのようなものを察知しやすくなるんだろうな、と思った。
濁っているレンズでは、よく見えない。
分かりやすい言葉だと、洞察力が上がる。
言葉がおどる
この言葉がいいな、って思ったから出しておく。
感覚的に分かるような気もするし、1人で歩き出してスキップして、どこまでも歩いていってしまう、みたいなことは起きそうだと思った。
言葉は放った瞬間にもう私のものではなくなる感覚があって、そこから先って、歩き出す感ありませんか?
ことばが生きてるが分かれば、おどるんだろうなって予想です。
白紙のノートはお母さん
最近、とてもよく出会う。
ジャーナリングする時の心得として、何でも書いていいという前提で書くけれど、本当に何でも書いていいを許可出来てないよ、の話。
受容してくれる存在が、母性でお母さんなら、ノートはお母さんだよ、という話です。
以前も書いているので詳しくふれませんが、本当に何でも書いていい、私だけは私の心を分かってあげる、なかったことにしない、にもつながる話でした。
整えようとしている自分に気づいた、誤字を修正している自分がいた、がきっかけということだった。
身体感覚で言うと、頭や脳が重い感じがする、その逆に考えずに書くが出来ている時は、脳が軽いということだった。
うーん、感覚を言葉に橋渡しするのがとても上手な人だから、感覚を尋ねたらいいって私は思っているのだけど、よく分からない。
頭が重いだと、私は情報処理が追いつかないみたいな状態の時に、頭重感ってほんとにあるんだ、って感じで体感したことはあるけどなぁ、という感じでした。
note(=誰かの目にふれるもの)には書いてるけど、手書きで私しか見ないものってほとんど書いてない。
書いてみる?
ジャーナリングってあんまり分かってないけど、手に任せて書くってことだと思ってるから、それなら出来そうだよね。
noteもわりと思ったそのままに近いとは思うけれど、人に読まれるという前提はあるものね~。
まとめ
まとまりのないことを書いてきたけど、思考の庭としてのnoteなので、それでいいや。
後半は、学びという視点で書けたように思う。
私と言葉、言葉の可能性を開かせてもらってきて、楽しいなって思いながら過ごしてきた。
さらに言葉の可能性を開く話ではあったんだろうけど、よく分からない。
言葉が私にとってどういうものなのか、が浮き彫りになったでもあるし、人のように感じているのもよく分かった。
私と言葉の距離がもっと近づく、ゼロ距離になることが、ことばにいのちがある、が分かるに近づいていくことなのかなと思いました。
言葉をおどらせているあなたと凪いでる海のような人に感謝です。
楽しい時間をありがとうございました。
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この場所に、その日の気づきを静かに置いています。
また、書きにきます。
もし、この文章を読んで少し話してみたいと思うことがあったらプロフィールnoteに静かな入口を置いています。
よかったらこちらのnoteもどうぞ
▽言葉を喜ばせる言葉
▽私の魂→エネルギー→言葉
▽コーチングの視点からの言葉の可能性が開かれた時間。このイベントとても良かった
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