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SF小説 Memory Banker Ghost Block編 第5話|なぜ現状維持の幸せでは満足できないのか?記憶を担保に上を目指す

はなの朝は早い。
理由は単純だった。犬を飼っているからだ。
ベッドの端で丸くなっている黒い毛玉に声をかける。
「おはよう、Moon。」
黒いプードル。ぬいぐるみのような体をわずかに揺らし、まだ目を開けない。
背中を撫でると、小さく尻尾だけが動いた。
「おさんぽ、いくよ。」
返事はない。
はなは笑い、Moonを抱き上げる。
トントントン、と階段を降りる音が静かな家に響いた。
ダイニングには朝日が差し込み、白いテーブルが淡く光っている。
父はすでに起きていて、コーヒーを片手にタブレットを操作していた。
「お父さん、早いね。今日は何?」
「ああ。金融システムの調整。夜にアルゴリズム更新があるから、その前裁き。」
特別なことでもないように父は言う。
はなはMoonを腕の中でずらしながら時計を見る。
まだ早い。
父のタブレットの端に、小さなテロップが流れていた。
——市場安定化モデル更新のお知らせ
 一部人格テンプレートにおいて信用再計算を実施します。
意味を考えるほどの内容ではない。
「最近多いね。」
「AIが働き者なんだろ。」
父は笑った。
はなはコーヒーを一口飲む。
少し苦い。
「働き者はお父さんもでしょ。昨日遅かったよね。」
「趣味みたいなものだからね。」
父は曖昧に笑い、視線を端末へ戻した。
「ほら。早く行かないとMoonがかわいそうだ。」
「たしかに。」
足元で待ちきれずに回り始めたMoonを抱え、はなは外へ出た。
朝の空気は冷たく、静かだった。
早朝だけが持つ、都市の隙間のような時間。
Moonと並んで、見慣れた道を歩く。
右手には佐藤さんの家。
庭の桜がほころび始めている。
もう春なんだ。
大使館へ続く通りでは、ハクモクレンの蕾が膨らんでいた。
いつもの景色。
いつもの順番。
次の角を曲がれば、必ず吠えてくるコーギーがいる。
Moonの小さなライバル。
——のはずだった。
あれ?
鳴き声がしない。
家の前で足を止める。
カーテンがない。
テラスにあったテーブルも椅子も消えている。
空白だけが残っていた。
そのとき、いつも同じ時間に散歩している女性が手を振った。
「はなちゃん。Moonちゃん。おはよう。」
足元の柴犬も嬉しそうに尻尾を振っている。
「コーギーちゃん、引っ越しちゃったんですか?昨日はまだいたのに……」
女性は少しだけ肩をすくめた。
「Cognitive Beltに移ったみたいよ。」
「え、もう? あんなに大きなお家だったのに。」
「記憶を担保に新しい家を買ったんでしょうね。」
当たり前の話のように言う。
この街では珍しくない。
幸福な経験は信用になり、
人生そのものが資産として扱われる。
「太郎も寂しがってるのよ。」
柴犬の頭を撫でながら女性は笑った。
「じゃあ、またね。」
「はい。また。」
歩き出しながら、はなは振り返る。
静かな家。
つい昨日まで犬の鳴き声があった場所。
この都市では、人は上へ移動する。
より安全な層へ。
より価値の高い生活へ。
ゼニス・シティは、上へ行くほど静かになる。
高層に住む人々は高いMCRを維持し、
記憶の連続性を保証された存在と呼ばれていた。
中心部では記憶価値が計算され、
人生は数字として流通する。
中間層では誰もが自分の経験を最適化しながら暮らし、
下層では連続性を失った人々が集められる。
そして都市のさらに深い場所には、
すべての記憶を支える基盤が眠っていると噂されていた。
はなは詳しく知らない。
知る必要もなかった。
ただ、この街では——
人生が、少しずつ高さで分けられている。
Moonがリードを引いた。
考えすぎ、と言われているようだった。
空を見上げる。
同じ空。
同じ朝。
けれど、さっきまで確かにあったものが、
静かに消えている気がした。
理由は分からない。
はなは歩き続けた。


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