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SF小説 Memory Banker Ghost Block編 第70話|あたらしい朝


朝、目を覚ますと、部屋はいつも通りだった。
カーテンの隙間から、白い光が細く差し込んでいる。
机の上には、昨夜置いたままの通学端末。
椅子の背には制服の上着。
ベッドの端には、黒い毛玉のように丸くなったMoon。

何も変わっていない。

けれど、はなは知っていた。

昨日までの自分とは、少しだけ違う。

胸の奥に、名前がある。

はる。

声に出したわけではない。
それでも、その名前は朝の静けさの中で、そっと浮かび上がった。

はなは、胸に手を当てた。

痛い。
でも、怖いだけではない。

はるという名前を知ったことで、何かが壊れたわけではなかった。
むしろ、見えなかった場所に、小さな灯りがともったような気がした。

Moonがベッドの上で身じろぎする。
尻尾の先だけが、少し揺れた。

「おはよう、Moon」

Moonは目を開けると、当然のように散歩を要求する顔をした。

はなは少し笑った。

「はいはい。行こうか」

階段を降りると、ダイニングには朝の光が入っていた。
父はいつもの席でコーヒーを飲んでいる。
テーブルの上には、トーストとスープ。

「おはよう」

父が顔を上げた。

「おはよう」

はなはいつものように答えた。

けれど、父を見る目は、昨日までとは少し違っていた。

父は、はるのことを知っているのだろうか。
知っているのだと思う。
でも、今は聞かない。

聞かないことは、逃げることではない。
聞くために、ちゃんと立っていることだ。

はなはそう思った。

「散歩、行ってくるね」

「ああ。気をつけて」

父の声はいつも通りだった。
でも、その奥にあるものを、はなは少しだけ感じ取れるようになっていた。

玄関を出ると、朝の空気は澄んでいた。

Moonは軽い足取りで歩き出す。
はなはリードを持って、その後をついていく。

右手には佐藤さんの家。
庭の桜は、昨日より少しだけ開いている。
大使館へ続く通りでは、ハクモクレンの蕾が白く膨らんでいた。

いつもの朝。
いつもの道。

でも、同じではない。

はなは、胸の中で名前を呼んだ。

はる。

角を曲がると、以前コーギーがいた家が見えてきた。

はなは、少しだけ足を止めた。

空っぽだったはずの庭に、小さな三輪車が置かれていた。
玄関の前には、まだ新しい宅配ボックス。
窓には淡い黄色のカーテンがかかっている。

そして、庭先で、小さな男の子がしゃがみ込んでいた。
その横で、若い母親らしい女性が段ボールを片づけている。

Moonが、ぴくりと耳を動かした。

男の子が顔を上げる。

「わんちゃん!」

Moonは短く鳴いた。

はなは、思わず笑った。

「おはようございます」
女性が気づいて、少し慌てたように頭を下げた。

「おはようございます。昨日、引っ越してきたばかりで」

「そうなんですね」

はなは庭を見た。

そこにはもう、あのコーギーはいない。
でも、空っぽでもなかった。

新しいカーテン。
新しい三輪車。
新しい声。
新しい朝。

消えた場所に、別の暮らしが始まっている。

はなは、そのことを不思議なくらい静かに受け止めた。

少し前なら、寂しいと思ったかもしれない。
何かがなくなったことだけを見ていたかもしれない。

でも、今日は違った。

何かが終わっても、全部が終わるわけではない。
空いた場所には、次の誰かが来る。
止まっていた景色も、少しずつ動き出す。

Moonが男の子の方へ行きたそうにする。
はなはリードを少し緩めた。

「少しだけね」

男の子は嬉しそうにMoonに手を伸ばした。
Moonは得意げに胸を張る。

はなは、その様子を見ていた。

はる。

はなは、その名前を抱えたまま、今ここに立っている。
そして、目の前には、新しく始まった家族がいる。

「Moon、行こう」

Moonは少し名残惜しそうに男の子を見たあと、はなの横に戻ってきた。
男の子が手を振る。

「またね!」

はなも手を振った。

「またね」

その言葉を口にした瞬間、はなは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。

またね。

それは、別れだけの言葉ではない。
次に会うための魔法が込められている特別な響きをもっていた。


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