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『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆顔の無い人間 【3】

◆ 顔の無い人間 【3】


  
 その日、仮眠をとっていた灰瀬は雨の音で目が覚めた。
窓を打つ細かな雨粒が、静かな部屋の中で規則的なリズムを刻んでいる。
灰瀬は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。白昼夢を見ていた。それはとても懐かしい夢だった……。目を閉じると、その光景がまだ脳裏に薄く残っている。水の匂い。青い光……ゆっくりと揺れる影。
 
—――水族館だ。
 
 幼い頃、両親によく連れて行ってもらった場所。
大きな水槽の前で、少年の灰瀬はガラスに手をついていた。
目の前を巨大なマンタがゆったりと横切っていく。
全てが蒼い水の中の世界は、どこまでも静かだった。

「すごいだろ? 」

 父の声がする。
少し後ろでは、母が携帯を構えていた。

「またそこ? 」

母が言う。

「この子、本当にここ好きね」

 そこは海月クラゲの水槽だった。
母は少し呆れたような顔をして小さく笑った。
薄暗い展示室の中で、無数の海月クラゲが静かに漂っている。
 淡い光に照らされ、ゆっくりと形を変えながら踊るように揺れていた。
幼い灰瀬おれは、その光景を黙って見つめていた。

「お父さん」

 服の裾をクイっと引っ張り小さな声で呼ぶ。

「どうして海月クラゲって顔がないの? 」

 父は一瞬だけ考え、それからクスクスと笑った。

「そうだな~」

 水槽の中を見ながら言う。

「ん~、確かに顔はないな~」

 返事に困った父が母をチラリと見て助けを求める。

「でもちゃんと生きてるのよ?それにね、海のお掃除屋さんでもあるのよ?海をきれいに整えてくれる役目もあるんだって」
 「じゃあ、お家をきれいにしてくれるおかあさんと同じだね」

 そう言うと、子供の灰瀬はもう一度海月クラゲを見た。
ゆらゆらと漂う透明で不思議な体。どこに目があるのかも分からない。どこに感情があるのかも分からない。それでも確かに生きている。
父が肩を軽く叩いた。

とおる……迷子になるなよ……』

 その声の後――現実に引き戻された。
 灰瀬はゆっくり目を開くと、いつもの天井を見上げる。
灰色の朝。そして、雨の音。
現実が静かに戻ってくる。
“A対”の部屋に置かれたソファから体を起こすと、目線を机の方に移した。

 机の上には、現場から密かに持ち帰った証拠袋が置いてあった。
爆発現場で回収した小さな金属片。
 灰瀬はそれを手に取る。
 透明な袋越しに、冷たい破片に触れる。

 微かな感覚が、指先からじわりと広がった。冷たい金属が視せる残滓ざんし。揺れる空気。煙と焦げた匂い。そして、一瞬だけ、別の感覚が混ざる。

 それは恐怖でも怒りでもなく、もっと乾いたものだった。

「命令」「義務」「服従」「階級」「完遂」

灰瀬は目を見開いた。
 
 サイコメトリック・エンパスは、物に触れたとき、記憶のみならずそのモノに残った感情を感じ取る能力。
 だが、今感じたものは、普通●●とは少し違っていた。
まるで空白のような感覚だった。灰瀬は破片を見つめると、小さく呟いた。

「……顔がない……。まるで海月クラゲだ……」

 犯人とおぼしき人間からの感情が見えない。そして、そこに本人の記憶が存在しないのだ。
 
「どういうことだ? 」

 その時、電話が鳴り響き、灰瀬は受話器を取る。

「灰瀬だ」

 受話器の向こうで佐伯が言う。

「おはよう。また泊まりで仕事してたろ? 」
「……」
「例の件、お前が睨んだ通りかもしれん」

 灰瀬は窓を伝う雨のしずくを見つめる。雨は勢いを失うことなくまだ降り続ける。

「例えば? 」
「爆弾の犯人――」

 佐伯の声が一段と低くなる。
周囲をうかがいながらなのか、声をひそめるように話を続けた。
 
「庁内の構造を知りすぎてる」

 灰瀬は黙って聞いていた。

「非常階段、死角、巡回時間。そして死者がゼロという事実が全てにおいて普通のテロリストじゃない」

 灰瀬の脳裏に、煙の向こうの男の姿が浮かぶ。
黒いフード。狂気を孕んだ静かな笑い。
そして、あの目……。

《能力者なのに》

男の声がよみがえる。

《警察に飼われてるのか? 》

灰瀬は声量を絞って言った。

「やっぱり……その筋●●●の関係者の線が濃厚かもしれないな」

 電話の向こうで佐伯が黙る。
 雨の音だけが無情に続く。

「冗談だろ? いや……考えたくもないが、そうでないと説明がつかないか……」

 大きな溜息と共に佐伯が言う。
灰瀬は敢えてそれに対して答えることをしない。この会話も盗聴されている可能性があるからだ。佐伯もそれを解った上で聞き返すことはしなかった。
危険は犯せない。
 ただ、あの時感じた違和感を思い出していた。あの能力の気配、そして空白の感情……。まるで――最初から“顔がない人間”。

窓の外を静かに見つめる。雨に霞む街。隣には警察庁の建物が見える。

 予想が正しいならば、あの男はあの場所のどこかにいるのだろう。
そしてもし本当に、警察の内部にいるのだとしたら……。

 灰瀬は小さく息を吐いた。
あの日に見たクラゲの水槽が頭に浮かぶ。
顔のない生き物……。
それでも確かに生きている。
 
「かあさん……とうさん……」

 『国家』も海月クラゲと同じだ。巨大で、透明で、そして時々人の顔を消す。
 灰瀬は静かに呟く。

「“顔のない”、人間か……」

 雨はまだ降りやまない。
犯人はこの瞬間も、海月クラゲのようにその身を同化させながら、身を潜めている。

次回火曜日21時(数分誤差有)更新:

『それは必然的な出会いだった……』

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